「俺ぁもう寝るぞ」
「おー」
気のない返事をして襖の閉まった音を聞いた。手元の端末を宙に掲げたまま、ごろりと横に寝返りを打つ。
日付はとうに変わっていた。新たな年を迎えた瞬間に『おめでとう』のメッセージを送り、その返信にスタンプを貰った。
『初詣に行かないか?』
その流れの中で送るはずだった誘い文句は、いまだテキストボックスの中にある。送信ボタンだけが押せないまま、気が付くと30分が経過していた。
ため息をついて端末をこたつへと置き、右手でカゴのミカンをひとつ手に取る。その傍らには封の切られたカイロがあった。温まるまで時間がかかるだろうからとあらかじめ用意したものだったが、今は特段冷えてもいないこの部屋でむなしく熱を発散させているだけだ。
すんなり誘えるものだと思っていた。家が隣同士の幼馴染ならなおさら。
どういう経緯でそうなったのかは知らないが、自分の親とリンウェルの親は昔から仲が良かった。年の近い子どもが生まれればその距離も一段と近くなり、事あるごとに旅行や行事を楽しんだものだ。
初詣もその中の一つだった。年が明けたら皆で揃って近所の神社に向かう。夜更かしで眠たい目を擦りながら、親父に引っ張られていくのが恒例となっていた。――昨年までは。
今年からはそれが無い。詳しい理由は知らないが、どうやらそれはリンウェルが高校生になったことと関係しているらしい。
高校生ともなれば出会いも増え、行動範囲も広がる。友人と初詣に出かけたいという気持ちも分からないでもない。その一方で、自分の中には落胆する気持ちもあった。「家族ぐるみの付き合い」という、年始からあいつに会うための口実はもう通用しないのだ。
いつからか芽生えた想いが幼馴染に抱くそれをはるかに超越していることなんて、俺はとっくに気が付いていた。気が付いていて、知らないふりをした。そんなのは、一緒に過ごした時間が長いから錯覚に陥っているだけだと言い聞かせた。言わば「比例」の関係だ。x軸は時間、y軸が気持ちの強さ。会う時間を減らせばきっと、想う気持ちも弱くなっていく。
ところが自分が高校生になってリンウェルと話す機会が減っても、あいつを想う気持ちは何ら変わらなかった。それどころか今何してんのかな、とか、好きな奴いんのかな、とか余計なことを考える時間が増えていった。まさに「反比例」の関係だ。成績も勉強時間と「反比例」してくれりゃいいのに。
そんなつまらないことを考えているうちに2年が経ち、リンウェルも中学を卒業する年になった。自分と同じ高校に通うと聞いたときは、人知れずガッツポーズをしたものだ。帰りの電車が一緒になった時は、駅から家までの道を二人で歩くこともあった。会話の中に何かが滲んでやしないかと距離を空けたのも初めだけで、結局のところ二人でいる楽しさが勝った。
リンウェルと居ると気持ちが楽だ。軽口を叩き合いながら、悩みも打ち明けられる。それでいてなんだか守ってやりたいと思う気持ちにもなる。兄のような気分かと言われると、そうでもない。リンウェルがほかの奴に笑顔を向けるのは、どうにも許せないのだ。
堂々と自分の想いを伝えられていたら、こんな初詣の誘いで悩んだりはしていない。遠くから眺めているだけの恋でもないのがさらに悩ましい。結局のところ自分は怖いのだ、リンウェルに拒絶されるのが。
情けないことは自覚している。自覚しながら、何も踏み出せない。気が付けばミカンの皮でゴミ箱が一杯になっている。カゴに積まれていたものは全部平らげてしまっていたようだ。
「おかわり」を得ようと立ち上がった時だった。端末にメッセージが届いた。
『まだ起きてる?』
差出人がリンウェルだと分かった途端、思わず飛びついた。返信を打ち込む指がミカンの汁で黄色くなっている。
『起きてる』
いかにも何でもないふうに返答をして平静を装っている自分が滑稽だ。すぐに既読マークを付けてしまったことには、あまり疑念を抱いてほしくない。
『家族と一緒に?』
『いや、親父はもう寝た』
『ふうん。今何してるの?』
『何も。家でごろごろしてる』
『そっか』
浮いた気持ちを隠して会話ができるメッセージだけのやり取りは本当に楽でいい。いっそこのまま、朝まで二人でこうしていても楽しいかもしれない。
そう思って、ふと手を止める。――本当にいいのか?
冬休みが明ければすぐに受験シーズンに入る。幸い自分は既に進学先が決まっているとはいえ、特に理由がない限り登校する機会も減っていくだろう。いくら家が近くたって登下校まで一緒ではないし、家に居たって毎日会えるわけでもない。今この瞬間にも時間は過ぎていて、向かう先には卒業が待っている。次の季節が訪れる頃にはお互い新しい生活が始まり、そうなれば今度こそリンウェルとは離れ離れになる。家が隣同士という特権は無くなってしまう。
――最後くらいしっかりしろよ!
そうして自分を無理やり奮い立たせる自分の最後のひと押しをしたのは、他でもないリンウェルだった。
『暇!』
そう書かれた可愛らしいフクロウのスタンプが小気味よい音と共に画面に現れる。それを目にした次の瞬間には、端末の通話ボタンを押していた。
「も、もしもし? どうしたの?」
「お前、今どこにいる?」
「家、だけど……」
「初詣行かねえ?」
二人で、と付け加えると少し間が空いた。
「いいよ、今から準備するから20分後ね」
「にじゅ……!」
「じゃ、またあとでね」
そうして切れた通話の電子音を聞いて我に返る。勢いよく立ち上がると、急いで部屋へと駆け込んだ。
何を着ていこう。やっぱりここは、こないだ買ったコートに貰ったマフラーでも巻いて――。髪もセットし直さないと。指もよく洗っておこう、いざというときのために。
逸る気持ちは収まらない。果たして間に合うのかも分からない。それでも緩む口元に力を入れながら、セーターを被った。時間はもうすぐそこまで迫っている。
終わり