これでやっとせいせいする。
リンウェルがそう思いながら家を出たのは、約束の時間まで随分と余裕のある時分だった。これから歩いて駅に向かい、電車に乗っていくつかの路線を乗り継いでもまだおつりが出る。よほどの事故でもない限り、自分の方が先に待ち合わせの場所に着くだろう。そうしてそこでロウを待つ。「待った?」「ううん、今来たところ」みたいな、漫画のような台詞を堂々と吐くことができる。これは交際してから初めての快挙だ。
そんな些細な野望が叶ったとして、それは同時に最後でもある。
私は今日、ロウに別れを告げる。1年半に及ぶ交際に終止符を打つのだ。
ロウとの出会いは珍しくもなんともない、バイト先の先輩と後輩だった。大学に入学したばかりかつ初めてのアルバイトで、てんてこ舞いの私を気に掛けてくれたのが2つ年上のロウだった。
ロウは元々面倒見が良かったからか、アルバイト先では新人の教育係を任されていた。その気さくな性格と打ち解けやすさを嫌う人はおらず、後輩から慕われるのは勿論、年上からも可愛がられる、そんな眩しい存在だった。
だから告白された時は驚いた。ロウから向けられる視線が一人だけ特別なものであったことに、私はちっとも気が付かないでいたのだ。まるで信じられなかった。思わず「うそだ」なんて、呟いてしまうくらいには。
それもほんの一瞬で打ち砕かれた。これだけ顔を真っ赤にして必死で想いを伝えてくる人に向かって、無意識とはいえ、「うそだ」と口にしてしまったことを私は恥じた。同時に嬉しくもあった。大げさかもしれないが、それまでしてきた努力を全肯定されたような気がした。
ロウの真っ直ぐな言葉は、真っ直ぐ私の心へと刺さった。私の返答に、ロウはその場でへなへなとしゃがみ込んだ。それがまた可笑しくって、二人で顔を見合わせて笑った。
ロウとの交際はありきたりに楽しかった。通う大学こそ違っていたものの、借りていたアパートがそこまで遠くないのもあって、週末やバイト帰りによく互いの家を行き来した。部屋でぼんやり過ごすこともあれば、街中に出て大学生らしいデートをすることもあり、そこに不満なんてひとつも無かった。だがそれも初めのうちだけだったと、私は後になって知ることになる。
雲行きが怪しくなったのは、交際を始めてから1年ほど経った頃だった。ロウの就職活動が忙しくなってくると、どうしても会えない日々が続いた。ロウはとっくにバイトを辞めてしまっていたし、面接なんかで日々あちこちを飛び回っている姿を見ると、休ませてあげたくなる気持ちの方が勝った。互いの家に通うなんてこともなくなり、私たちの間を繋いでいたものが一つ、また一つと減っていった。それが「日常」と化してしまうくらいには、時間は無情に流れていってしまっていた。
「話がしたい」とロウを呼び出したのは私の方だ。久々の通話だというのに開口一番そう切り出した私に、ロウは「分かった」と言ったきり何も言わなかった。その後何事もなかったかのように、ようやく決まった就職先の話をするロウがどこか安堵しているようにも思えて、私はまたそれが腹立たしかった。
こんな気持ちを抱えるのも今日までだ。夕方、遅くとも夜には晴れ晴れとした心持ちに変わっていることだろう。
そんな皮肉を頭の中に浮かべながら、リンウェルは足取り軽く目的地へと向かった。やはり待ち合わせの場所にロウはまだ来ていなかった。
約束の時間ちょうどにロウは現れた。急ぐでもなく、それでいてどこか余裕のある歩調でこちらに歩み寄ってきたロウは、柔らかい表情で言った。
「悪い、待たせたか?」
「ううん、今来たところ」
予定通りの返答をして、近くの喫茶店に向かう。そこは二人で何度か入ったことのある、レトロな雰囲気のお店だ。
店内はあまり混んではいなかった。お昼時を外したせいか、他には休憩中のサラリーマンが数名と、ひそひそお喋りを愉しむマダムたちが一組いるだけだ。
「俺はブレンドで。お前は?」
「えっと、じゃあカフェオレ」
席に着くなり店員を呼んだロウは、淀みなく注文を済ませた。私の分まで。まるでそれがさも当然であるかのように。
コーヒーが来るまでの間、私たちは何も話さなかった。完全な沈黙というわけでなく、久しぶりだね、とか、元気してた、とか、そんな当たり障りのないことをぽつぽつと話すだけだった。どこかよそよそしくて、他人行儀の会話に笑みなど浮かばない。そこに滲むものが何であるかくらい、ロウも分かっているはず。
「お待たせしました」
「どうも」
テーブルに並んだカップの一つを引き寄せて、私は砂糖の瓶を開けた。スプーン一杯分のそれがこの中に溶け切った時、別れを切り出そうと決めていた。
「そういやさ」
聞こえた言葉に手を止めると、差し出されたのは手のひらサイズの小さな紙袋だった。
「土産。あんまり構ってやれなくてごめんな。せめてもの罪滅ぼし、ってわけじゃねえけど」
中を開けてみると、そこには白色のお守りが入っていた。この神社は自分でも知っている名だ。金の糸で刺繍された「健康守」という文字が、照明に反射して輝いている。
「要らなきゃ別に捨ててくれても」
「ううん、いる」
要る。要るに決まっている。
強めに首を振ると、ロウはまた「そうか」と言って柔らかく笑った。それを見てなんとなく、ロウがこのお守りを選んだ理由が分かったような気がした。
思い返せば、ロウから貰ったものはたくさんある。アクセサリーにキーホルダー。今日のこれだってそうだ。また一つ、ロウからの贈り物が増えてしまった。
物だけじゃない。ロウと過ごした時間も本当に幸せだった。最後の方はあまり一緒に居られなかったが、それでも真っ先に楽しい思い出が蘇ってくるのは、ロウとの交際が悪いものでなかった証だろう。
ふと目の前のロウを見やると、ちょうどカップに口をつけているところだった。ほとんど黒にしか見えないその液体を啜るロウが、なんだか今日は一番遠い存在に思える。
いつからそんなふうにコーヒーが似合うようになっていたんだろう。この店に流れる音楽も、以前来たときはまるで私たちには不釣り合いだったのに、今はロウにだけ馴染んでいるように思えた。まるで自分だけ置いて行かれたみたいだ。
私は今この瞬間も自分のことばかり考えている。会えなくなった時だって、ロウのせいにばかりして自分で何かを変えようとしただろうか。挙句の果てに「就職おめでとう」の言葉も贈り物もせず何が彼女だ。
私は酷い女だ。最後の日になって、先に待ち合わせ場所に着いているなんて。「今来たところ」なんて見え透いた言葉を揚々と吐いて。そんな私がロウに今してあげられることなんて一つしかない。
傾けたスプーンに逆さの自分が映る。砂糖はもうすっかりカップの中に溶け切っていた。
終わり