リンウェルが、風邪を引いたロウの看病をする話。(約2,500字)

6.風邪薬、コップ、りんご

 夢を見ていた気がする。俺はベッドに寝ていて、家の小さなキッチンを眺めていた。そこにはおふくろの後ろ姿があって、包丁がまな板を叩く音がしていた。俺の呼びかけに気づいたのか、おふくろはこちらにゆっくりと歩み寄ってくると何か小さく言葉を発して、それを聞いた俺はまた安心して眠ることができた。
 次に目に映ったのは見慣れた天井だった。舞い込んだ風と外の喧騒で緑色のカーテンが揺れている。肌を撫ぜるそれが夢でないことはすぐに分かった。まとわりついていた汗が急激に冷えていく感覚がする。それにしても窓なんて開けた覚えはないのに、これは一体。
「フル」
 頭の上から声がする。起き上がろうと思って腹に力を入れようとした時、視界の外から突然影が過った。
「あ、起きた?」
「り、リンウェル?」
 驚いて再びベッドに沈むと、そのはずみで額から何かが転げ落ちた。頬に湿った感触がして、それが濡れたタオルであることに気づいた。
「ダメだよ、熱あるんだから。大人しくしてないと」
 リンウェルはそばにあった水桶にタオルを浸すと、絞ったそれで俺の額を拭った。続けて手のひらを翳しながら「まだ結構高いね」などと呟いている。
「……熱?」
「風邪かな。珍しいこともあるんだね」
 そういえば今朝、起きたときから随分と体調が悪かった。ふらふらとして朝食も食べられなかったほどだ。
「ここに着いて驚いたよ。待ってたのがロウじゃなくて、宿屋のおじさんだったから」
 約束していたリンウェルとの買い物にも、とてもじゃないが参加できそうになかった。今回はキャンセルで、と伝える手段もなく、宿屋の主人に言伝を頼んだのだ。
「どうしたの、って聞いたら体調が悪そうだったって言うし。気になったから部屋に入れてもらったの。そしたら案の定、ベッドの上で苦しそうにしてる誰かさんがいたから、こうして看病してあげてるってわけ」
 リンウェルは再び水桶にタオルを浸して細い指でそれを絞り上げた。畳んだそれを俺の額に乗せると満足そうに口角を上げ「感謝してよね」と笑う。
 ふと視線を移すと、サイドテーブルには水差し、グラスと並んで小さな紙袋が置かれていた。その並びは、あまり考えたくはないが、おそらく薬の類なのだろう。自分の所持品ではないし、もしかしたらリンウェルが一度戻って家にある風邪薬をわざわざ持ってきたのかもしれない。
 ヘッドボードには、じいっとこちらを監視するフルルの姿もあった。俺とリンウェルが話していても珍しくつっかかってくることもない。どうやら弱っている人間をいたぶる趣味はないらしい。
「いろいろ、悪いな」
 俺の言葉にリンウェルは少しだけ目を見開くと、ううん、と首を振った。
「風邪とか引くと大変だよね。ご飯作ってくれる人もいないし。家族のありがたみが分かるっていうか」
 それでも私にはフルルがいるから、と笑うリンウェルに「フゥル!」と羽をはばたかせる音がする。
 家族、か。
「昔の、おふくろの夢見てた」
「お母さんの?」
「キッチンで何か作っててよ、俺はそれをベッドから見てるんだ。多分、スープとか作ってたんじゃねえかな。俺は肉が良い、とか駄々こねてたような気もする」
「流石に肉は良くないでしょ」
「ガキだから分かんねえんだよ。食いたいもん食わせろって、わがまま言って。そんで、親父のゲンコツ食らうんだ」
「ふふ、ジルファも大変だったね」
 もしかしたらあれは俺の記憶だったのかもしれない。俺のどこかに残されていた記憶の断片が熱によってあぶり出され、夢の中に蘇ったのかもしれない。風邪を引いた時の記憶なんてロクなものじゃないだろうに。なんだって今、こんなふうに思い出されるのだろう。
「弱ってる時に限って、こういう夢見るんだよな」
 情けないよな、と笑うと、リンウェルは「そんなことないよ」と首を振った。
「誰だって体調崩せば寂しくもなるよ。不安にもなるし」
「そうか?」
「そうだよ。私だってそう。一人の時は特にね」
 どこかに思い当たる節があるのか、リンウェルはほんの一瞬遠い目をした後、すぐにこちらに眩しい瞳を向けてくる。「私たちには、こういう時そばに居てくれる人が必要なのかも」
 目を細めたリンウェルはテーブルの下へと視線を移すと、何かを思い出したように立ち上がった。
「そういえばお腹空かない? リンゴ買ってきたんだけど。下でキッチン借りて、擦ってきてあげよっか」
 床に置かれた紙袋から真っ赤なリンゴを見せびらかすように取り出して、リンウェルは部屋を出ていこうとした。
 それを見て、咄嗟に身体が動いた。上手く動かない腕を伸ばしてその細い手を掴むと、驚いたようにリンウェルがこちらを振り返る。
「なに? どうしたの?」
「いい。ここに居ろよ」
「でも」
「そばに居てくれるんだろ」
 リンウェルは少し戸惑ったような顔をした後で、
「ロウがそう言うなら……」
 と先ほどまで座っていた椅子に腰を下した。
 それを見届けると、なんだか急に眠気がやって来た。リンウェルがそばに居ると分かって安心したのかもしれない。重たくなった瞼に逆らわず目を閉じると、あっという間に意識は夢の中へと落ちていった。

   ◇

「びっくりした……」
 再び椅子に腰を下して数分、目の前のロウは何事もなかったかのように寝息を立てている。
「ロウもあんな顔、するんだね」
「フル?」
「あんなこと、言うんだ」
 珍しく怒ったかのような、真面目な顔で「ここに居ろ」だなんて。
「お母さんを思い出して、ちょっと心細くなったのかな」
 その気持ちは痛いほどわかる。自分も体調を崩した時は誰かにそばに居て欲しくなるから。幼い頃のことを思い出して、寂しくなるから。
「でもなんかちょっと、それとはまた違ったような?」
 掴まれた腕が熱い。それはきっと熱のせいだと分かってはいるけれど。発した言葉に深い意味なんて無いのだろうけれど。
「調子、くるっちゃうなあ」
 手にしたリンゴを紙袋にそっと戻すと、ロウの寝顔をまじまじと見つめてみた。日常からは想像がつかないほど穏やかな寝顔だ。
 安心して眠ってくれているのなら、それでいい。とはいえ母親に影を重ねられるのはちょっと、複雑かもしれない。

 終わり