急遽同じ部屋に泊まることになってしまったロウリンの話。(約4,400字)

8.バスタオル、石鹸、鏡

 ガチャリ、と開いた扉の音が部屋に響く。
「シャワー空いたから、使っていいよ」
「お、おう……」
 首に白いタオルをぶら下げて、リンウェルが言った。
「お湯、結構熱かったから気を付けてね」
「おう、そうか、」
 サンキュな、と言って俺は浴室に向かうと、その扉を閉めた。そうして静かに息を吐く。
 なんだってこんなことになったんだ。まさかリンウェルと同じ部屋に泊まることになるなんて。
 事の発端はこの宿に着いた時だった。きちんと予約を入れてあったはずなのに、手違いで部屋がひとつしか取れていないという。それならもう一部屋用意してほしいと頼んだところ、宿の主人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「残念ながら今夜は満室でして……」
 時期が悪かった。ニズでは今日から街をあげての催しが開催されていた。メナンシアでもその話は広まっていて、ダナ中から人が集まっているらしかった。
 つまりは他の宿も同じ状況。辺りには途方に暮れている観光客の姿もちらほら見えて、自分たちが一部屋だけとはいえ確保できていたのはかなり幸運なことのようだった。
 そうはいってもさすがにこれはマズいんじゃないか。俺は必死で考えを巡らせる。
 確保できた部屋はリンウェルに使わせるとして、自分はどうしたものか。野営をするにもその準備はしてきていないし、ミハグサールには知り合いも少ない。今夜一晩街のどこかで時間を潰すとしても、この疲労のやり場はどうしたらいいのだろう。遺跡探索に加え、戦闘もいくつか交えた体は汗と土の混ざったにおいを発しているような気がする。ここがメナンシアならまだ他に手立てもあっただろうに、なんて到底無益なことを思ったりもした。
「……別にいいんじゃない? 一緒の部屋でも」
 そのとき、リンウェルが後ろで小さく呟いた。
「他に行く当てもないんだし」
「そりゃそうだけどよ」
 言ってる意味分かってんのか、と聞こうとして口をつぐむ。リンウェルが小さく俯いたからだ。
「私は……大丈夫だから」
 そう言われてしまってはもう、文句は言えなかった。宿の主人から鍵を受け取った俺たちは、大人しく部屋へと向かった。二人で、ベッドが一つしかない部屋に。
 二人で同じ部屋に泊まる。
 それだけのことなら、まだ何とかなるかもしれなかった。旅をしていた時も似たような状況はあったし、俺が気を紛らすとかしてどうにか乗り越えればいいだけのことだった。
 だが今夜は違った。俺はこの宿に向かう前、ニズに入る直前のところでリンウェルに想いを告げたばかりだったのだ。
 リンウェルからの答えは「一晩考えさせてほしい」。宿の部屋でゆっくり考えて、明日の朝に答えを出すからと、そう言われた。
 俺は緊張したまま、黙ったまま頷いた。上手いことも気遣うような言葉も、何も言えなかったのだ。
 それでこの状況だ。気まずい、なんてもんじゃない。
 部屋に入ってから一度もリンウェルと目を合わせられていない。一言二言会話を交わすことがあっても、さっきみたいな事務連絡のようになってしまう。
 自分の方がしっかりしないと、とは思っている。こんな態度ではいけないのだと分かってはいるが、気持ちの整理にはどうしても時間が必要だった。
 だからこの浴室で過ごすひとときはとても大切なものだと思う。壁一枚を隔てたそこにリンウェルがいることは確かだが、それでもその目を逃れることできる。ここでなら心を幾分か落ち着けることができるかもしれない。そう思ったのに。
 数分前までリンウェルがいたこの浴室には、その気配がありありと残っていた。ハンガーにかけられたバスタオル、湯気で曇った鏡、水滴の滴るシャワーヘッドにまで。置かれた石鹸が新品でなくなっている。ただそんな当たり前のことで自分の心は緊張が解れるどころか、ますますこわばりが募っていく。
 ああもう、どうしろってんだ。
 意識するな、なんて到底無理な話だろう。好きな奴と同じ部屋にいて、それだけでもう心臓が痛くなってしまうほどなのに、それが今晩ずっと続くなんて。
 一度全部水に流れてしまえと、俺は蛇口を捻る。服を脱いで一思いにその中に飛び込めば、強めの水圧が心地良かった。
 石鹸を手に取って泡を立てていく。角の取れたそれが一度使われたものであるということはできるだけに気にしないようにして。そう考えてしまっている時点でリンウェルを意識してしまっていることとほとんど同じだ。
 一分一秒にあいつの顔が浮かんできてしまう。そういうことなのだ。一緒に一晩を過ごすということは。恋をするということは。
 全身を手早く洗い終えると浴槽を出た。ラックに残ったバスタオルを頭から被り水分を雑に拭うと、心なしかちょっとだけ気持ちが軽くなった気がした。汚れと一緒に何かが剥がれ落ちていったのだろうか。
 リンウェルは今、何を考えているだろう。少しくらい自分のことを考えてくれているなら嬉しいが、もしそれが断りの文句だったなら――。
 そこまで考えて、かぶりを振る。そんなこと考えたって何の意味もない。
 そもそも、リンウェルはこの状況をどう思っているのだろう。「仕方ない」と言ったのはリンウェルの方だったが、それはどういう心境から出たものだったのだろうか。もし嫌悪とかそういう感情があったのならそんな言葉は出てこないはずだ。嫌われてはいない。そう信じたい。
 リンウェルの言葉の根っこにあるのは自分への厚意か、好意か。あるいは文字通り、「仕方ない」と思ってのことか。
 目まぐるしく回る感情に自分が一番ついていけていない。この部屋を出て、リンウェルにどんな顔で接したらいいのだろう。
 ふと思う。自分がこれだけ戸惑っているのに、リンウェルはそうでないなんてあり得るだろうか。程度の差はあれど、多少なりともあいつだって混乱しているはずだ。あのときリンウェルは小さく俯いていた。
 なら、俺は――。
 鏡の中の自分を見つめて、俺は頬を叩いた。そうして身体中の水滴をタオルで拭うと、急いでカゴの中の服を纏ったのだった。

 部屋に戻ると、リンウェルはベッドの縁に腰掛けていた。壁の方を向いたまま、その腕には何故か枕が抱えられていた。
「おかえり」
 こちらを振り返ったリンウェルは俺の格好を見るなり首を傾げた。それもそうだ、俺が纏っていたのはさっきまで身に着けていたいつもの道着だった。
「あれ、どうしたの? 寝間着忘れた?」
 そうじゃない、と俺は小さく首を振る。
「やっぱ俺、他のとこで寝るわ」
 先ほど心に決めたことを口にすると、リンウェルは大きく目を見開いて身を乗り出した。
「なんで!」
「なんでって……やっぱこういうのは良くないだろ」
 同じ部屋どころか、ベッドだって一つしかない。そこにまっさら、なんの憂いもなく二人並んで寝られたら良かったものの、残念ながらそうじゃない。俺がリンウェルに対して下心を抱えていることは、さっき告げた想いの通りだ。
「お前が良くても、俺は良くねえんだよ。お前といると緊張しちまうし、それに今日はお互い疲れてるだろ」
「ロウは私と居ると休まらないってこと?」
「そ、そういうことじゃ……」
 いや、それは完全には否定できないが。
「俺は男だし、お前のことが……好きだから」
 今夜お前をどうこうするという話じゃない。その辺の線引きはきちんとしておきたいだけだ。それに――。
「俺は、お前にちゃんと考えてほしいんだよ。俺とのこと」
 あのときリンウェルは言った。一晩考えて答えを出す、と。
「俺がいたら、あんまり良くないだろ。余計なこと無しにちゃんと考えてもらって、ちゃんとした答えが聞きたいんだよ」
 目の前の一晩のために、その先を犠牲にしたくはない。だったら今夜、ニズの街中でもその外でもいい、そこでリンウェルの答えが出るまで待って、それから納得できる答えを聞きたいのだ。
「もう決まってるもん!」
 突然リンウェルが声を張った。
「もう、答えは決まってるもん! さっきは恥ずかしくて言えなかっただけ……!」
 徐々に小さくなっていく声は、リンウェルが抱えた白い枕へと吸い込まれていく。
「ロウだから一緒の部屋でも良いって言ったの! そうじゃなかったら、同じベッドで寝られるわけないでしょ!」
 ほとんど顔を埋めたまま、リンウェルは言った。語尾の方はあまりよく聞き取れなかった。
 ええと、それはつまり、どういうことだ。俺の頭はまだ状況に追いつけていない。
 俺だから一緒の部屋でもいいって、同じベッドで寝てもいいって、それってやっぱり男として見られていないということか。仲間同士で友達同士だから大丈夫だって、そういう意味なのか。
 そう思うと、急に頭の中が冷えていく感じがした。先ほどまで被っていた湯の温もりが恋しくなるほど。
「そ、そうか……俺気づかなくて」
 情けない声が出て、それを隠すように俺は唇を小さく噛んだ。
「悪ぃ、ちょっと頭冷やしてくる。フラれたばっかで笑えるほど強くねえからよ」
 ぐらつく体を支えながら足を一歩前へ踏み出す。向かう先は廊下へと繋がる部屋の扉だ。
「ちょっと! なんでそうなるの!」
 そこに飛んできたのは、綿の詰まった枕だった。ばふっと迫力のない音を立てて俺の顔に直撃する。
 驚いて振り向くと、それが飛んできた先ではリンウェルがこちらをじろりと睨みつけていた。隠すものを失い、耳まで真っ赤にした顔をさらけ出して。
「誰もフッてないでしょ!」
「え、いや、だってお前、俺だから良いって」
「そうだよ! ロウだから良いって言ってるのに!」
 どこをどうしたらフッたことになるの! と叫んだリンウェルの言葉を、もう一度よく考えてみる。
 俺だから良い、フッてない。――俺はフラれてない?
「ロウのことが好きって言ってるの! 好きだから一緒に寝てもいいって言ったの!」
「す――?」
 好きだって、リンウェルは俺のことが好きだって、そう言ったのか。
 いやまさか、なんて疑いようもない。たった今リンウェル自身がそう口にしたのだ。はっきりと、この部屋に響くような声で。
「明日の朝言うつもりだったけど、こんなことになったんじゃどうしようもないから寝る前になんとか返事しようって考えてたのに……それなのにロウが別の場所で寝るとか、フラれたとか変なこと言うから」
「わ、悪い……」
 緊張のあまり俺は物事を悲観しすぎていたのかもしれない。リンウェルが言動の端々に気持ちを滲ませていたことにもまるで気が付かないでいた。
「……これでもう解決でしょ」
 リンウェルがこちらに近づいてきて、俺の手にそっと触れた。ただそれだけのことで心臓が跳ね回るように激しく動き出す。
「いや、やっぱ無理だって!」
 ダメだ。嬉しいけど、嬉しいから同じベッドでは寝られない。
「なんで!」
「なんでもだよ!」
 分かってくれよ、という俺の気持ちがリンウェルに伝わるにはもう少し時間がかかるのだろう。
 どっちにしたって俺は今夜、眠れそうにない。

終わり