転生ネタのロウリン。リンウェルはロウから前世の記憶を聞く。
通帳を握る手に力が入る。
まさか、嘘だ。そんなはずは。
リンウェルの思いとは裏腹にその数字は残酷な現実を打ち出していた。
――お金がない。
大学入学にあたってお金が入用なのはわかっていた。あまり両親に迷惑はかけたくないとも思っていたし、リンウェルも来たる夢の一人暮らしに向けてコツコツお小遣いを貯金してきた。
だがそれは簡単に予想を超えてきた。家電や家具を揃えるのに加え、部屋の家賃に敷金礼金、管理費に光熱費など思った以上に金がかかった。
それなのに受験から解放されたリンウェルは、これまでのご褒美にと受験期間中に読めなかった小説を大量に購入してしまった。ちょっとまずいかも、と思った時には遅かった。通帳に刻まれた数字から家賃やおおよその光熱費を差し引くと数百円しか残らない。
バイト代が入るのも月末で、親に頭を下げて緊急の仕送りを望んだところで金欠の理由を話せば説教は必至だ。始めたばかりの一人暮らしを今になって却下される可能性すらある。
財布に残った数千円でどこまで食いつなげるかと考えてはみるが、自信はない。この機に自炊でも極めてみようかと考えていたのがおよそ一週間前のことだ。
学食での昼食以外、朝も夜もモヤシを食べ続けてリンウェルは気が狂っていたのだと思う。あのロウとかいう謎の男から、これまでも何度か送られてきていた『飯行かない?』という誘い文句に初めて『よろしくお願いします』と返信をしてしまった。
「なるほど、それで急に来る気になったのか」
「……」
リンウェルはファミレスのメニュー表で顔を隠しながら沈黙を守る。ここに来てしまってはもう逃げ場などなく、羞恥と後悔に塗れた表情を隠すにはこうするほかなかった。
「いいぜ、今日は奢る」
「……アリガトウゴザイマス」
蚊の鳴くような声は男に届いたのか否か、紙越しでは確認のしようもない。
「それにしてもそんなになるまでの金欠って……本でも大量に買ったとか?」
「な、なんで……!」
自分以外に知るはずのない情報を出されて、思わずリンウェルが声を上げるとその勢いで傾いたメニュー表の奥から男の驚いた顔が覗いた。
「図星かよ。適当言っただけなんだけどな」
「え……」
男はくくっと喉で笑って、あっけにとられているリンウェルの手から二人の間にあった壁をあっさり取り払ってしまう。
「やっと顔見れた」
そんな優しい瞳を向けられる心当たりなどないリンウェルは当然その仕草に緊張してしまうのだが、どっちにしたって食事をするときは顔だって表情だって結局見られてしまうなと無意味な抵抗を諦めることにした。
「リンウェルはいつからあの図書館にいるんだよ」
勝手に名前を呼び捨てにされるのが若干気に障ったが、何でもないという風にリンウェルは装った。
「……四月の半ばから」
「ああ、なるほど。じゃああれだろ、大学入学してバイトデビュー、みたいな」
「まあ、そうです」
テーブルに届いたばかりのエビドリアをふうふうと冷ましながらリンウェルはそっけなく答える。
「この辺だとS大か?文学部とか?」
「いえ、理学部です」
「リガク部って、何するとこ?」
「実験とか……」
その辺はまだ一回生でリンウェルも具体的なことはよくわかっていないが、地球上に起こる現象を科学的に検証する学部です、と言って果たしてこの男に伝わるのだろうか。もっともリンウェルが興味を持っているのは地球上の話ではないのだが。
「ってことは、理系か。意外だな」
「よく言われます」
もう聞き慣れてしまった『意外』という言葉にリンウェルはもう反応したりはしない。
リンウェルが理系を選んだことに対して高校の友達も先生も皆驚いていた。昔から本を読むのが好きで図書館や学校の図書室に入り浸っていたリンウェルだが、心惹かれたのは文学の世界ではなく、いまだ果ての分からない宇宙や天体の分野だった。
将来についての具体案はなかったものの、知りたいことがそっちの方面だと決まると行動は早かった。大学に進学すると決めてからは大好きな小説を我慢して教科書や参考書を読み漁る猛勉強の日々が始まった。負けず嫌いのリンウェルはどうせ目指すならより高みを目指したいと最高峰の偏差値を誇るM大に狙いを定め、まさに一日たりとも気の抜けない高校生活を送ってきた。
ところが試験の一週間前になってリンウェルは体調を崩した。数年ぶりに大流行したインフルエンザをどこからかもらってきたのだ。高熱の中で机に向かっても何も頭に入って来ず、結局数日はベッドの中で英単語を覚えるだけにとどめたが、熱が下がっても試験に必要な集中力は取り戻せなかった。そのまま受験、そして不合格。
浪人の道も選べずにここにいる自分に残ったのはこびりついた醜いプライドと、それに反して自分なんか何をやっても駄目だろうという卑屈な心。努力と反比例するように下がった視力を誤魔化すための眼鏡は、今はドリアの蒸気で曇っている。
「第一志望には落ちたしお金も無くなるし。なかなか人生ハードモードだなって」
「まあ、自分の意志で決めたからこそだしな。その辺は割り切るしかないだろ」
男の発した言葉に今日初めてリンウェルが反応を示した。
「……その、自分の意志でなんとかって、何かの本の言葉ですか?」
この言葉を自分以外に知る人にリンウェルは初めて会った。誰彼聞き回ったわけではないが、少なくとも家族や友人、学校の先生から聞いたことはない。
「物心ついたときからずっと頭にあるんですけど、どこかで読んだのかなと思ってて」
「……そっか」
男はまたふっと笑って、どこで聞いたのか自分もよく覚えてないと言った。
そのあとに一瞬だけ見せた目がどこか寂しそうだったのは気のせいだろうか。
腹も十分膨れたリンウェルは、食後のコーヒーを飲みながらずっと気になっていたことを口にする。
「ロウさん……は、なぜ私に声を掛けたんですか」
自分でもなかなかきわどい質問を投げかけたと思う。
ドラマや小説の中でよく見る下心を持った所謂ナンパの状態に近いことはリンウェルにも理解できていたが、あの日や今日の男の様子を見るになんだかそれとはまるっきり違うような気がしたのだ。
次の言葉を探すリンウェルに、男の方も少し考える素振りを見せた後、「俺あの図書館に何回か行ったことあんだけど」と順を追うような形で話し始めた。
「人探ししてたんだ」
「人探し?」
「まあやっと最近見つかったけどな」
またあの優しい瞳を向けられて、リンウェルはああそうかと思った。
「……それが、私」
あの日図書館のカウンターにいた自分を見つけて男が向けた視線はその表れだったのだ。
合点がいくと同時にリンウェルの中には疑念も浮かんでくる。
「失礼ですが、ご出身は?」
「俺?K市だけど」
リンウェルは県外の出身で親戚もこの土地にはいない。K市というのも初めて聞く。
「昔どこかでお会いしました?」
「いいや、ないと思う」
自分の記憶にないだけで幼い頃と旅行先などで出会っているのかとも思ったがどうやら違うらしい。会ったことはない、と断言する男の言葉にリンウェルの頭から疑問符が消えることはなく、むしろ増えていくばかりだ。
ならば一体どういうことかと視線で問いかければ、男は困ったように頭を掻いた。
「あー……なんだ、今それを話すのは俺の方も心の準備ができてねえっつーか」
やっぱり意味が分からないとリンウェルは心の中で嘆息する。
「そんなこと言われると気になるじゃないですか」
男だけが事情を知っているなんて不愉快だった。後ろめたいことはリンウェルにはないはずだが、何か重大な秘密を握られているような感覚がして落ち着かない。
「今度話す」
「今度って」
「またメシ行こうぜ」
「それはちょっと……」
「なんでだよ!」
そこは流れ的に違うだろ!と言う男はどこか楽しそうでもある。
「でも、バイト代が入ったら今日のお金はお返しします」
「それはいいって」
「でもそれじゃあ……」
そもそもリンウェルは奢ってもらうためでなく、お金を借りるつもりでここに来たのだ。
なんとなく貸しは作りたくないし、そのままはいそうですかと引き下がるわけにもいかない。
「じゃあ今度奢ります!」
「……言ったな」
「……あ」
「楽しみにしてるぜ」
口を滑らせたのはリンウェルの方で、ついノリでそんなことを言ってしまった。
ちょっと後悔はしたが、振り返ってみればそんな不快な時間でもなかったことに気付く。
何を根拠にそう思っているのかは自分でもわからなかったが、男に危害を加えられるかもという身の危険も感じなかった。
食事くらいいいかとリンウェルが思っていると、会計を終えた男が思い出したように言う。
「それと、ロウ“さん”はやめろよな。呼び捨てでいい。敬語もやめてくれ、なんか気持ち悪いから」
前言撤回。リンウェルは一瞬で不快な気持ちになる。
女の子に向かって気持ち悪いとは何事だと言い返してやりたかったが、確かにこんな男に敬語は必要ないなとリンウェルは理解すると、今日はありがとう、とだけ言ってロウと別れたのだった。
ロウとはそれから何度か食事に行った。奢って奢られての食事は飽きることなくいつもファミレスで繰り広げられた。
会うのに決まったルールがあるわけでもなかったがその誘いの多くはロウの方からで、連絡不精なリンウェルが予定の空きを確認して返事をするという流れだった。といってもリンウェルにはアルバイト以外の予定なんて大学の授業だけで、あとは気分が乗るかどうかそれだけなのだが。
それなのに会った時に話すのは主にリンウェルの方で、なぜかロウの前だと饒舌になってしまう自分にリンウェルも驚いていた。大学ではろくに友人もいないリンウェルが会話をするのはアルバイトの時と遠方に住む両親と電話をする時くらいで、話し相手が欲しかったのだろうなとリンウェルは客観的に分析する。またあるいはロウが聞き上手というやつなのかもしれない。
ロウから何度目かの誘いが来たとき、ちょうどリンウェルは大学における初めての期末試験期間を迎えようとしていた。レポートの準備は日々コツコツと進めてはきたが、提出の締め切りと試験の日程が重なるものも多く、リンウェルには精神的に余裕がなかった。
「試験期間に入ります」とだけ返信すると、リンウェルはスケジュール帳を開く。夏休みに入る前の2週間にはぎゅうぎゅうに文字が並んでいて、これをこなすのはなかなか骨が折れそうだと思った。幸い最終日は試験が朝から二つあるだけで、レポートの締め切りとも重なっていない。この日なら会えそうだなとリンウェルは続けてロウに向けてメッセージを送ったのだった。
怒涛の試験期間を終えてリンウェルは疲れ切ってはいたが、それよりも解放感が勝っており、ファミレスでもいつもよりも豪華な料理をチョイスした。
「試験お疲れ、ってわりには元気そうだな」
「まあね、多分単位は取れてるだろうし」
正式な発表があるまではわからないが追試がないというのは気持ちが楽になるものだ。あと数日もすればリンウェルは夏休みを迎える。しばらく大学に行かなくてもいいと思うと心は自然と晴れやかになる。
「今日はデザートもつけちゃう!」
リンウェルが追加でアイスクリームを注文するとロウがまたあの瞳を向けていた。
「話、聞いてくれるか」
話、と言われてリンウェルは今の今までそのことをすっかり忘れていたことに気付いた。
「話って、私とどこで会ったかとか、そういうこと?」
そう問えばロウは小さく頷いて、深く息を吐く。
今までにない緊張感にリンウェルは心臓を跳ねさせるが、次に聞こえた言葉は想定の斜め上を行くものだった。
「前世の記憶があるんだよ、俺」
前世の記憶、とロウは確かにそう言った。
「え、何? 宗教の勧誘?」
「馬鹿、こんな頭の悪そうな奴がそんなことするか」
確かに、とリンウェルは納得するがどうも信じられない。
「何言ってんだこいつって思うだろうけど、とりあえず聞いてくれ。そのあとで文句は聞くからよ」
ロウは自嘲気味に言うと、その“前世の記憶”とやらを話してくれた。
ここではないどこかの世界で仲間たちと旅をしていたこと。奴隷を解放するため、仲間にかかった呪いを解くため、世界を救うために強大な敵たちと戦ったこと。それを討ち果たして新たな世界を築いたこと。
まるでファンタジー小説を読んでいるかのように聞こえ、その世界観にリンウェルはただ純粋に惹かれた。これをロウが考えたのだとして、新興宗教に誘い入れようとしているとか、高い壺を買わせようとしているならそれはそれでよくできているなと思った。
だがロウの顔を見ればそうでないことくらいリンウェルにもわかる。
「それで、私もその世界にいたってこと?」
「ああ、一緒に旅した仲間の一人だ」
「なんでそれが私ってわかったの?」
「そりゃ同じ顔で同じ名前してんだから」
確かに顔と名前が一致していたのなら誰だって同一人物だと思うだろう。
だがロウの中でははっきりと残っていたとしても、リンウェルにとっては違う。
「でも、ごめん。私はそんな話知らないし、心当たりもない」
「本当にそうか?」
「今の話聞いても全然、なにもピンとこない」
仲間の名前を聞いても街の話を聞いても、何もかもが初めて耳にする単語だった。本当に自分がその物語の登場人物なら話を聞けばなにか思いつきそうなものなのに。
やっぱり何かの間違いなんじゃないかと疑い始めたリンウェルに、ロウはやや不満そうな顔を覗かせて言う。
「『自分の意志で決めたからこその責任だろ』ってあれ、俺が言ったんだぜ」
「え」
「最初にメシ行ったときに言ってたよな。どこかで聞いたって。あれで確信したんだ、ちゃんとリンウェルだなって」
「ちゃんとって、どういう意味よ……」
ロウの言い方にムッとするリンウェルではあったが、声色とは逆に穏やかに微笑むロウに何も言えなくなってしまう。
「私が仮にそうだったとして、何を望んでるの?私の記憶が戻ること?」
取り繕うようにリンウェルは言ったが、ロウはその答えもすでに用意しているようだった。
「本音を言えばそうだ。でも、実際会えたらどうでもよくなっちまった」
「リンウェルが今こうして目の前にいる、それだけで充分だ」
家に帰ってからもリンウェルの頭はロウから聞いた話でいっぱいだった。
当然だ、前世で知り合いだったから声を掛けたなんて言われたら。
はじめに食事行ったときにロウがまだ心の準備ができていないと言ったのも、今なら何となくわかるような気がした。きっとロウの中で確信はあったものの、こんな話をいきなりするのはいかがなものかと多少の迷いがあったに違いない。
ロウが時折見せる優しい瞳の理由もなんとなくわかった。敢えて本人に聞かなくたって察する。ロウにとって“リンウェル”は大切な存在だったのだ。
二人が両思いだったのか、恋人同士だったのかそこまではわからないがロウは生まれ変わっても“リンウェル”を想い続けていた。記憶を頼りに探して探して、そこでようやく見つけたのが自分ということだったのだろう。
ロウは自分が“リンウェル”と同じ顔をしていると言った。
リンウェルは近くにあった手鏡を手に取ってその中を覗き込んだ。そこには当然ながら見慣れたいつもの自分の姿が映っている。でもきっと“リンウェル”には程遠い。
嫉妬でもなく不満でもなく、リンウェルはただ純粋に思う。
あんな風に想ってもらえる“リンウェル”はどんな子だったのだろう。