セフレのロウリン。ロウの元カノの話。モブ(元カノ)が出ます。

 これでもう何度目の寝返りだろう。どれだけ体勢を変えても睡魔は訪れない。その気配すら感じない。苛々として、とうとう目を開ける。
 窓の外の様子はベッドに入る前と何ら変わっていなかった。暗がりに風が吹いて、ちりちりと砂の舞う音がした。まだそれほど時間は経っていないのだろう。安堵が半分、ため息が半分。これから眠りに就けたのなら充分休息も取れるだろうが、就けなかったらこの長い夜を一人で過ごすことになる。そうなれば明日の仕事にも支障が出てしまいそうで、ますます気分は憂鬱になる。
 こういった夜は今日が初めてではない。むしろここひと月ほどはそういう日の方が多かった。上手く寝付くことができても途中で覚醒したり、眠りが浅かったり。リンウェルがいた日はよく眠れたんだけどな。そんなことをふと思ったりもする。それももう一週間も前のことだ。リンウェルがメナンシアに帰ってからは、またあまり眠れない夜が続いている。
 忘れられていないのか、あいつのことが。
 いや、そうじゃない。忘れられていないのはあいつじゃなくて、あいつのしたことだ。

 旅の終わりが見えてきた頃、ぼんやり考えることがあった。この旅が終わったら。世界とシオンを救ったら、どこへ行こう。
 もちろん、その前提条件が達成されなければ全ては破滅に飲み込まれることも分かっていた。先のことを考えるよりもまずは目の前の目的に向かって努力すべきということも。
 分かっていたからこそ未来を思い描くのを止められなかった。自分たちは必ずやそれを成し遂げられると心の底から信じていたのだ。実際、目的は果たした。まさかそれがダナもレナも救うなんて方向に向かうとは思いもしなかったが。
 結果的にダナとレナは一つになって、世界を取り巻く環境は大きく変わった。そこに住む人々はそのままに、世界の様相だけが変化した。そこに生まれた戸惑いも混乱も当然のものではあったが、生きる人間というのは強い。数か月もすれば多くの住人が事実を受け入れようと前を向き始め、各地で進められていた復興の機運も高まっていった。
 世界を変化させた当事者であるとはいえ、俺たちも元はといえば双世界の住人だ。目的を遂げた後は各々がそれぞれの目標に向かって歩み始めた。テュオハリムはダナとレナの仲介役として奔走し、キサラはそれを支えながらメナンシアの発展に力を注いだ。アルフェンとシオンは二人での新しい生活をスタートさせ、リンウェルも何かと都合がいいからとヴィスキントに居を構え宮殿に通い始めていた。
 それなのに俺はというと、しばらく迷っていた。自分がどこに行けばいいのか、何をするべきなのか。世界を救う前から考えを巡らせていたはずなのに、いざ旅を終えてみると目の前にもやがかかったみたいになって行先が見えずにいた。
 とはいえ何もしないというわけにもいかない。幸いヴィスキントでは仕事に困るということもなく、荷運びやその護衛など手さえ挙げればいくらでも役目はあった。そうして何か貢献しているような気になったまま、ふらふらとした日々を送っていた。
 メナンシアにいたのは半年ほどだったか。その後〈紅の鴉〉のネアズに声を掛けられたのをきっかけにカラグリアに行くことにした。打診されてその場で返事をするくらいにはあっさり心は決まった。以前ぼんやり思い描いていた自身もカラグリアに身を置いていたからだ。自分は迷っていたのではなく、尻込みしていたのだとその時気付いた。故郷であるとはいえ、一度捨てた国に戻る覚悟ができていなかったのだ。
 唯一後ろ髪を引かれたのは、リンウェルのことだった。旅の時間プラス、余計に過ごした半年で募らせた想いはそれなりのもので、大きく重たくなったそれをどうするかでまた頭を悩ませた。何も言わなかったのは告げる機会がなかったから、というのは建前で、結局は度胸がなかっただけだ。万一良い返事を貰ったとしてカラグリアとメナンシアで離れてやっていける自信もない、そもそも今生の別れでもない、なんて、自分を納得させるための言い訳には事欠かなかった。
 カラグリアでは〈紅の鴉〉メンバーを中心に世話になった。住居に職場、近隣の食堂まで紹介されて、新しい生活環境としてはかなり恵まれていたと思う。
 ネアズたちが手を回していたのだろうが、親父のこともあまり気を遣われずに済んだ。大抵は皆「よく戻ってきた」とか「懐かしいな」と声を掛けてくれて、かえってその温かさに心がチクリと痛んだほどだ。とはいえ俺に恨みを持つ連中も全くいなかったわけではない。街を歩いていても、食堂で食事を摂っていても白い目がどこかでちらついていた。表立って嫌味を言われることもあったが、それはそれで当然のことだと思った。それくらいのことをした自覚もあったし、むしろそういう存在がいてこそ背筋が伸びる気がした。もうほとんど意地になっていた部分もなかったわけではないが。
 親父の影に追われつつ、カラグリアの復興・発展を目指して毎日をがむしゃらに生きる。その中で出会ったのが、あいつ――元彼女だった。
 出会いはウルベゼクの食堂で、見慣れない店員がいるなと思ったのが最初だった。気難しい店主が新人を雇ったらしい、それも結構可愛いらしい、と噂が立つと、彼女はたちまち店ごと注目を浴びた。実際その存在は目を引いた。むさ苦しい男ばかりが通う店だったからか、その立ち姿は砂漠に咲く一輪の花のようにも思えて、自分も胸をときめかせる男の一人であったことには間違いない。とはいえ話したこともない店員にすっかり惚れ込んでしまったとかそういうわけではなく、単純に世界の一部が潤ったようなそんな気持ちになっただけだ。
 当時俺はカラグリアに来て四年目に入っていた。同僚たちと酒を酌み交わすようにもなり、ウルベゼクの数少ない店をローテーションで回りながらしけた夜を過ごしていた。
 遺伝か、あるいは生まれつきの体質か、俺は周りの人間と比較しても引けはとらない程度には酒に強かった。そんな人間の役目といえば、大体後片付けになる。
 その夜も食堂で同僚二人と飲んでいた。仕事の愚痴や将来への不安を垂れているうち、気が付いたときには目の前の二人はすっかり酔い潰れてしまっていた。一人はうとうととして、もう一人はテーブルに突っ伏して、正気であるのは自分一人だけだ。
 またこうなってしまった、と心の中でため息を吐いた。どう見ても二人とも自力で歩いて帰れる状態ではない。とはいえ騒いだり店を汚したりとそういうことをする連中ではなかったのは幸いだった。俺は店主に声を掛けて一人を近くの家まで送り、もう一人も同様にして部屋に帰してやった。後で運搬料を貰おう、多少多く吹っ掛けても罰は当たらないはずだ、などと考えながら肩を貸した。
 店に戻ると、テーブルの瓶の中にはまだ酒が残っていた。少量ではあるが料理も余っている。腹は八分目ほどには満たされていたが、折角作ってくれたものを、もっといえば金を払ったものを放置して帰るという気にはなれなかった。ダナの出身であればこそなおさらだったかもしれない。
 俺はひとり席に着くと、それをフォークでつつき始めた。料理はすっかり冷めてしまっていたが、それでも美味い。この店が愛されているのも納得がいく。酒を煽り、瓶の残りを注ごうとした時、目の前に影が過った。
「おつかれさま」
 影は向かいの席に座り、横から瓶をかっさらっていく。瓶の口がグラスに傾いたと思うと、中の酒が音を立てて注がれていった。
「お酒強いと大変だよね。後片付けも介抱も、支払いまで任されがちだし」
 残りの一滴が縁を伝って中に落ちた。そのグラスをどうぞとこちらに寄越したのが、この食堂で店員として働く彼女だった。
「はじめまして、でもないか。いつもご飯食べに来てくれてるしね」
 柔らかい笑みを浮かべて彼女が言う。頬には浅いえくぼが見える。
 俺は驚いた。まさか認知されていたとは。ここに来る客はそれなりに数もいるはずだ。
「よく知り合いの介抱もしてるよね……って、気を悪くしないでね。どれだけ飲んでも涼しい顔してるから、覚えちゃったの」
「いや、別に。そんなことはねえけど」
 咄嗟に口にした言葉にはやや愛想がなかったかもしれない。グラスに口をつけて誤魔化そうと試みるが、彼女はそんなことまるで気にしていない様子だった。
「今日も見事に介抱役だったね。あ、支払い大丈夫? 手持ち足りないならツケることもできるけど」
「さすがにそれくらいは払える。けど、あいつらからはちょっと多めに巻き上げるから、その辺は内緒にしといてくれよ」
「りょーかい。秘密は守るよ」
 くすくすと笑って、彼女は唇に人差し指を当てた。
「店の方は? まだ仕事終わってないんだろ。いいのか、こんなとこで油売ってて」
「いいの。お客さんもほとんどいないし、店長も奥で休んでるから。もう注文も入らなさそうだしね」
 辺りを見回すと、確かに客はいなかった。自分の他にはカウンターに座る老人一人と、話に夢中になっている二人組の若い男たちだけ。
「そんで会計して後片付けか。店閉めてからが本番だな」
「そういうこと。だから今は休憩みたいなものだよ。あ、店長が来たら教えてね、怒られるから」
 肩をすくめた彼女に、俺は分かったと言って笑った。
 それから彼女と少し話をした。話といってもどこで働いているかとか、家はどこかとか、彼女から次々投げつけられる質問に答えるだけ。不思議なもので、たったそれだけのことが楽しかった。まともに会話をするのは初めてのはずなのに、まるでそんな気がしない。彼女は俺の口から紐を引っ張るように、するすると言葉を引き出していった。
「ロウくんはお酒好きなの?」
「それなりにな。じゃなきゃこんなに頻繁に飲んだりしねえよ」
「そっか、そうだよね。こっちとしては毎日来てもらいたいくらいなんだけど」
「毎日?」
「えっと、ほら、売り上げのためにもね。お酒は儲かるんだよ、知らないでしょ」
 無邪気な笑顔で彼女が言う。そんなことを言って、これまでどれだけの酒を貢がせてきたのだろう。
「なんで男の人ってお酒飲むのかな」
 ふと彼女が呟いた。
「なんであんなになるまで飲まなきゃいけないんだろ」
 あんな、というのは先ほど潰れた二人のことを言っているのか。あるいはこれまでこの店で酩酊していった人たちを指しているのかもしれない。
「さあな、いろいろあるんだろ。忘れたいこととか、薄めたい記憶とか」
「ロウくんも? 忘れたいことあるの?」
「そりゃあ、たくさんある」
 ふっと笑みが零れた。思えば恥ずかしいこと、悔やまれることばかりしてきた。そんな改めて振り返るほど長く生きてもいないのに。
「でも酒で忘れようとは思わねえな」
「どうして?」
「忘れたいことは、大抵忘れちゃいけないことだろ」
 その言葉に彼女はふうん、と言って微笑んだ。
「ロウくんって、かっこいいね」
「そ、そうか? ありがとな」
 かっこいいだなんてほとんど言われたことはない。言われ慣れていなさすぎて、つい動揺が出てしまった。これも客に対しての世辞だと思えば、すっと醒めていく。
 そこでふと思った。
「……あれ、俺名前言ったか?」
 疑問符を浮かべる俺に彼女はいたずらっぽく笑った。そしてまた浅いえくぼを作って、
「内緒」
 と言ったのだった。
 店を出た俺に彼女は言った。
「ねえ、今恋人とかいるの?」
 好きな食べ物は何? くらいの気軽さだった。
「いや、」一瞬過った何かを頭から振り払って俺は答えた。「いない」
「じゃあ今度、ロウくんの家にご飯作りに行ってあげる」
「えっ」
 ダメ? と問われると、もちろんそんなことはない。首を横に振る。
「良かった。心配しないでいいよ。ただの店員とはいえ、そこそこ上手く作れるから」
 じゃあねと言って、彼女は店へと戻っていった。後ろで高く束ねられた髪が跳ねるのを、俺はしばらくぼんやりと眺めていた。
 そうして始まった交際は、ありきたりに楽しかった。毎日慌ただしく走り回る〈紅の鴉〉メンバーと、人気の食堂の店員。忙しい中でも、互いに時間を見つけては会いに行った。ようやく重なった休みの日には街に出かけたり、家でだらだらしたりして一緒の時間を過ごした。くだらない話題も自分たちの間では立派な笑い話にも、やっぱりつまらない与太話にもなった。元々の波長が似ていたのだろう、笑いどころが同じであることも嬉しかった。人と話していてこんなに気が楽だと思ったのは久しぶりだ。
 狭い街では噂が広まるのも一瞬だ。俺が彼女と付き合い始めたと知れ渡れば、さすがに気恥ずかしくなって店にはなかなか行けなくなった。とはいえ彼女が作る料理は店主の味をよく再現しているのもあって恋しくはならなかった。むしろ、それよりずっと美味いとさえ感じていた。生まれて初めてできた恋人が作ってくれているのだから、当然といえばそうだ。
 彼女が俺の名前を知っていたのは、やはり店の客の話を聞いていたかららしい。
「荷物に紛れて国を出て行った人がいるなんて、そんな話聞いたら興味持っちゃうでしょ。しかも生きて帰ってきたんだからますます気になっちゃって」
 店で見かけるたびに声を掛けようとしていた、夜に仲間の介抱を嫌な顔一つせずにしているのを見て優しいと思った、とそんなようなことを言われた。
「でも、付き合ってみたらちょっと違った。優しいのはもちろんだけど、それよりかっこいいなあって思うよ。身体も頭も使うのに、愚痴ひとつ言わないで毎日頑張ってるの見ると、わたしも頑張らなきゃって思うんだ」
 これまで言われたことのない言葉を、心の中で欲していた言葉を全てくれる、俺には勿体ないくらいの彼女だった。
 その言葉を信じて、拠りどころにした自分が間違っていたのだろうか。
 彼女にそんな姿を見せたいと、見せ続けたいの一心で俺は努力した。仕事に明け暮れ、次第に疲れ果てて会いに行けなくなる日が多くなった。休日も部屋で過ごすことが増えて、それもきっと不満を溜めてしまう一因となったのだろう。
 こまめに会いに来てくれた彼女もその頻度を落としていった。あれ、と思った時には遅かった。
「わたしと別れて欲しいの」
 久々に会った彼女からそう切り出された時、俺はあまり驚かなかった。むしろそう言われるだろうと予想すらしていた。彼女が自分の日常から消えつつあったように、彼女の日常からも自分は消えかけていたのだろう。俺は黙って頷いた。
 別れたからといって彼女を嫌いになったわけではなかった。彼女の方も怒りの様相など微塵も見せなかった。最後にはちょっと笑って「楽しかったよ」とさえ言ってくれた。
 別れても友人、いや知人程度には関係が続くのだろうと思っていた。店員と客として、軽く世間話をするくらいには付き合いがあるものと思い込んでいた。
 彼女がカラグリアを去ったと聞いたのはそれから二週間ほど経った頃だ。店員を辞めたどころか、まさかこの国から姿を消してしまうとは想像すらしていなかった。
 その原因を作ったのは、などとほんの一瞬でも考えてしまった自分が恥ずかしい。彼女が国を去ったのは自分のせいでも何でもなく、ただ単に他の男に付いていくことに決めたからだった。つまりは浮気、不貞。俺が汗水流して働いている間、彼女はあろうことか店で出会った他の男にうつつを抜かしていたのだった。
 相手はどうやら旅の商人で、あちこちを流れるままに行き来する輩だったらしい。しばらくはカラグリアに滞在していたものの、ついにここを離れると知った彼女がそれに付いていくと心を決めて、仕事も国も投げうったというのが事の真相だった。
 それを知って俺は気が抜けた。抜けて抜けて、空気を失った風船のように萎んだ。なんだ、そんなことで俺は別れを告げられたのか。一年以上一緒に過ごした俺よりも、ほんのひととき甘い言葉を囁いた男を選んだのか。バカバカしい。バカバカしすぎて、笑いしか出てこなかった。カラグリアに吹く風よりも、ずっと乾いた笑いだった。
 彼女と別れた事そのものよりも、選ばれなかったという事実が胸に突き刺さった。その原因を突き詰めれば自分の不甲斐なさに辿り着くということを差し引いても、彼女のしたことがどうしても許せなかった。自分勝手もいいとこ、と言われれば全くその通りだと思う。自分のこういうところが彼女は嫌になったのかもしれない。
 心の傷は思ったよりも深く、眠れない日が続くようになった。人前では気丈に振る舞っていても心に嘘はつけない。夜になって目を閉じてみても、意識はどこまでも頭の中でぐるぐると渦を巻いたまま音もなく騒がしさを増した。何もかもに疲れすぎた自分の心は、その休み方さえ忘れてしまったのだ。
 彼女と別れてからひと月と少し。いまだ傷は癒えていない。それも当然か。彼女と過ごした時間は延べ二年近い。それが癒えるとしたら、同等の時間は覚悟した方がいい。
 とはいえこの不眠にも改善の兆しはある。それは、リンウェルが隣にいるとよく眠れるということだ。単に行為の後で疲れているからかもしれないが、普段仕事を終えて眠ろうとしても眠れないことを考えれば、それだけが理由というわけでもないのだろう。
 リンウェルとはあれからまた約束を取り付けた。今度は自分が近々メナンシアに行く予定があるので、それに乗じて会うつもりだ。仕事仲間には適当に理由を付けておけばいい。仕事さえちゃんとこなせば文句を言われる筋合いもない。
 そうまでしておきながら、リンウェルに交際を申し込む気は無かった。まだ無い、といった方がいいかもしれない。自分はいまだ過去の彼女を引き摺っている。心情的にも肉体的にも。不眠を抱えていることが何よりの証拠だ。
 彼女に未練があるわけではない。頼まれたってヨリを戻す気なんかない。だからといってリンウェルで上書きしてしまおうという気持ちにはなれない。そんな不誠実なことができるほど自分は健康でもなければ、図太くもなれなかった。とはいえ今こうして身体で繋いでいる関係と、それのどちらが不誠実であるかは判断のつけようがなかったが。

 結局あれから深く眠ることはできなかった。浅いところをふわふわ揺蕩うだけで、意識は夢か現実か区別のつかない領域を行ったり来たりしているうち、気が付けば朝になっていた。
 昨夜買っておいたパンとミルクで腹を満たすと、仕事に向かうため家を出る。街まで少し距離がある分、少し早い時間に出なければならないのがこの家の厄介なところだ。
 ここに来た当初は、家の周りのこの辺も開発予定地となっていた。住居や店が増えて賑やかな集落になるはずだったのに、人手も資源も足りず開発もすっかり後回しにされている。不便極まりないと街の近くに越していく奴がほとんどで、今となっては自分の他にはほんの数人が暮らすだけの寂れた地域になってしまった。
 それも静かでいいと、今は思う。朝も夜も人影を見かけることはほぼないが、それを寂しく思うこともなくなった。誰かに会いたければ街に出ればいいのだし、仕事では無駄にがやがやと騒がしい中で過ごしているので、むしろこの静けさが心地良いくらいだ。何よりこの地域は人目を忍ぶのに適している。誰かの目を気にせずリンウェルを家に連れ込めるし、多少騒がしくなったところで文句も言われない。大っぴらにできない関係を続けるにはこれ以上ない立地だ。
 ウルベゼクの集会所に行くと、ぽつぽつと人が集まり始めていた。その真ん中でネアズが険しい顔をしていた。見慣れた光景だ。
「はよーさん」
「ロウか、おはよう」
 一度こちらを向いた後で、ネアズは再び手元の紙に視線を落とした。
「また難しい顔してんな」
「まあな。届いたばかりの物資をどこにどう回すか、考えなきゃならん」
 はあ、と息を吐いたネアズは、心底怠そうに額を抑えた。
「そもそも物資が足りてないんだ。これじゃあ人が増えても維持できない。どこかで仕入れるしか……」
 途中からはもうほとんど独り言になったと思っていたのに、
「なあ、」
 突然顔を上げてネアズが言った。
「ロウ、お前交渉役を任されてみないか?」
「俺が? 交渉役?」
「お前はあちこちで顔も利く。言い方は悪いが、それを使わない手はない」
「けど俺、そういう頭使うことは……」
 顔の前で手を振って、ネアズは笑った。
「なに、いきなり一人でやれって訳じゃない。そういうのに長けたやつと組ませるから、ちょっと試してみてくれ」
 それなら、と小さく返事をして肩をすくめる。ネアズは「頼んだぞ」と言って、集まった人たちの輪の中心へと入っていった。
 交渉役か。また面倒なことを任された。部屋の片隅でひとり頭を掻く。そういう仕事はネアズやティルザなど、主に頭の回る奴らが担当するものだ。自分のような肉体仕事向きの人間がやってみようと思ってやれるものではない。
 とはいえ今回はネアズ直々の指名だ。何か考えがあるとか、そういうことなのだろう。例え上手くいかなかったとしても、自分を責めるような連中はまずいないのだろうが。
 そこまで考えて、またため息が出た。いつも自分はこうだ。何か新しいことを始めるとなると、どうにも怖気づいてしまう。分かった、任せてくれ、とその場で即答できたことなど皆無だった。
 その原因には大方察しがついている。失敗が怖いのだ。失敗ばかりしてきたせいで、失敗に繋がりそうなものは全て恐ろしくなってしまった。次の失敗はもっと大きいものかもしれないと思うことで、挑戦すること自体ができないでいる。親を失う以上の失敗なんてそうそうあるはずがないのに。
 そういうことばかりを繰り返してきたからか自信はつかないままだった。ここへ来てもう五年も経つのに、いまだ悩みも迷いも消えない。自分が向いている方向すらよく分からないのだ。
 カラグリアへ行くと決めたときは、何かしら心に秘めた思いがあったはずだった。何かを成し遂げてみせる、両親に恥じない生き方をしてみせる。少なくとも、こんなふうにいちいち後ろを振り返って生きるなんてこと、するつもりはなかったはずだ。
 追いかける背中が大きすぎるのか。偉大すぎるのか。無謀なのか、そうでないのかもわからない。カラグリアに来て良かったのか、いまだに胸を張れない自分がいる。
 でも、何となくそうすべきと思ったあの自分を信じたいとも思う。未来を信じた自分は間違っていなかったのだと思いたい。
 どこまで行っても余裕は生まれない。気配すら感じない。しばらくは自分のことで手一杯だろう。
 ふとリンウェルのことを思い出す。もし俺が弱音を吐いたら、リンウェルはなんて言うだろう。情けない、カッコ悪いと呆れるだろうか。あるいは人間なんだし仕方ないと同情してくれるだろうか。
 他人にかまけている時間などない。それでも誰かに会いたいと思ってしまうあたり、自分という人間はどうしても一人では生きられない生き物なのかもしれない。