ネアズ×ネームレスオリ夢主。ティルザ視点。捏造とか夢いっぱい。
ティルザはその日、久々にカラグリアに戻っていた。
ガナスハロスに出向くようになって早1年以上。普段はぺレギオンの住民たちのメンタルケアに努める自分だが、数か月に一度は帰郷を許される。許される、といっても誰かからの許可が下りるわけではなく、それを決めるのは自分と、自分と同様ガナスハロスにて医療に従事している皆のスケジュールの兼ね合いだ。
今回は前回の時よりも帰郷が早まった。レネギスから来たという医師が新たに複数人、仲間に加わったのだ。彼らは意外と言っては失礼かもしれないがかなり協力的で、仕事を率先して引き受けてくれた。さらにほかの医師からの提案もあり、自分を含めほかにも数人がこの機会にと帰郷することになった。皆当然ながら自領のことも日ごろから気にかけており、人手が足りていないのだと常々口にしていた医師たちは足早にペレギオンを去っていった。
ティルザはと言えば、故郷に対してさほど心配はしていなかった。確かに人手は足りていないし、物資だって豊かじゃない。それでいて自分たち〈紅の鴉〉にかかる負担は大きく、何かあればすぐに民はこちらを頼ってくる。もっと自分の頭で考えてくれ、と愚痴をこぼしていたのはまとめ役のネアズだった。
とはいえそれはそれだけこちらを信頼してくれていることの証でもあると思う。たとえそうでなくたって、最終的に拠り所となる場所があるかどうかで民の心持は随分と違うはずだ。それはガナスハロスにいて痛感したことでもあった。
医療にだってそれほど不安は抱いてはいない。確かに〈紅の鴉〉では自分が主に医療担当ではあったものの、モスガルにはドクもいるしウルベゼクには私の優秀な弟子がいる。自分がいなくたってカラグリアは充分上手く回るはずだ。
そういうわけでほんの休暇のような気持ちでウルベゼクの集会所に顔を出すと、迎えてくれたのは満面の笑みの弟子だった。
「あっティルザ先輩! 帰ってたんですね!」
「久しぶり。元気してた?」
はい! と元気よく返事をした弟子は、尾を振る子犬のごとく目を輝かせた。再会をこれだけ喜んでくれる人がいるのなら帰郷も悪くない。
この後輩兼弟子は以前自分が出向いた土地にて見つけてきた、いわば逸材だ。出会った頃にはすでに基本的な応急処置の仕方などは習得しており、その慣れた手つきには自分も舌を巻いた。両親が医師のようなことをしていて、それであらゆる処置の仕方を一通り叩き込まれたのだという。
その両親も亡くしてからはレナの兵士に隠れて人々のケガなどを診てきたのだと彼女は言った。年齢は自分よりも少し下くらいだろうか。それでも経験値はかなりのものだ。
その頃すでに自分はぺレギオンに出向いていて、カラグリアを空けることが多かった。モスガルにはドクがいたが、高齢なことを考えるとどうしても若い医師がもう一人は欲しかった。
彼女を後継者にしたい、と肚はすぐ決まった。彼女を組織に引き入れようとしたが、彼女はすぐには頷かなかった。まだ自分は医師としては未熟だからと、首を横に振るばかりだった。
それでも意欲がないわけではないところを見ると、諦めるわけにはいかなかった。帰郷のたびに彼女の元まで通い、ガナスハロスからも手紙を書いた。組織についてや医師の仕事、あるいは日々の他愛無い話などありとあらゆる話をした。彼女の真面目過ぎる人柄も、一つのことに夢中になれる性格も好ましいと思った。勉強を嫌がらないし思いやりの気持ちもあって、やはり医師に向いている。
そうしてしばらくやり取りが続いた頃、彼女は言った。
「私に課題を課してください」
それをクリアしてからでないと、組織に入ることはできないという。
ティルザは驚いた。組織に入ってほしいと頼んでいるのはこっちなのに、むしろ課題を与えてくれなんて。同時に、その度が過ぎるほどの真面目さに笑ったのだった。
ティルザが与えたのは薬学の本だった。薬学というのは少し大げさかもしれない。それは本というより分厚いメモの集合体で、過去カラグリアにて医療を施してきた人間が書き留めた薬の知識や、カラグリアで採れる薬草に関する知見をまとめたものだった。
ティルザはそれを彼女にすべて覚えるよう言った。人の命を預かるのだから間違えて覚えようとは言語道断だとも。
彼女はきちんとそれに応えた。ほんの1か月余りで用意した試験に合格した彼女は、晴れて正式に〈紅の鴉〉の一員となったのだった。
とはいえ彼女曰く「まだまだ未熟」だそうで、見習い医師の肩書を外そうとはしない。後継に〈見習い〉を置いていくというこちらのきまり悪さも考えてほしいところだが、彼女は自分が納得いくまでそう名乗り続けるのだろう。
「今は何やってたの?」
「医薬品のチェックです。少し減ってるものがあったので、気を付けておかないと」
そう言って弟子は古びたノートに薬品の名前を書きつける。自分がそう教えたとはいえ、まさか普段使わない棚の端から端までもいちいち確認するとは。それもおそらく毎日そうしているのだろう、脚のがたつく梯子をこれほど危なげなく上り下りするなんて。まったく、相変わらずの生真面目で安心するところだ。
とはいえ以前と少し変わった部分もあるような気がする。それは見た目? 体型? 髪型……は変わっていないか。それでもなんとなく、彼女を取り巻く雰囲気というか、空気が変化したような気がした。
「あら、新しく買ったの?」
気付いたのは、その口元だった。微かに色づく唇は可愛らしいコーラルピンクを纏っている。
そういえばどこかで聞いたことがあった。メナンシアでは今そういった色付きのリップが流行っているらしい。
「あ、そうなんです。この間来ていた商人の方から勧められて、」
つい買っちゃいました、と弟子ははにかみながら言った。
へえ、そういうものにもちゃんと興味があったのね。
ティルザは得心しながら、どこかほっと胸を撫で下ろしてもいた。
弟子は普段、お洒落や美容に頓着する方ではない。もちろん人と携わる職に就いているのだからみすぼらしい恰好は当然NGだが、そういう意味では弟子はいたって普通の格好をしていた。普通過ぎて、特筆すべき点がどこにも見当たらないほど。
とはいえ年齢でいえばそういうのに心躍らせてもいい時期だ。仕事に邁進しているのも感心はするが、もっとはしゃいでしまってもいいのに。街の医師が多少明るい服を着たり、髪型を変えたりしたところで誰も文句は言わない。なら気分が上がる方を選んだ方がいい。色付きリップを纏った弟子が心なしか弾んでいるように見えるからこそなおさら。
「ティルザ、戻ってきてたのか」
ふと医務室に顔を出したのはネアズだった。
「予定よりも早いな。何かあったのか」
「応援が増えてね、急遽決まったの。連絡するより直接向かった方が早いって、荷馬車に乗せてもらったのよ」
夜中に着いたのもあって今日は重役出勤させてもらった。とはいえ元々頭数には入っていないので、誰にも咎められることはない。
「お前がいるならちょうどよかった。シスロディアから手配してもらう薬のことなんだが」
それでもこの男の頭には仕事がこれでもかと詰まっているようだ。できるだけ効率的にタスクを減らそうとしていることが早くなっていく口調からも窺える。
「リスト出してくれるか。それと」
「あー、今来たばかりだからまだ把握できてないの。薬のことはその子に聞いてちょうだい。ちょうど在庫チェックしてたとこみたいだし」
そう言って視線を投げると、弟子は何かに貫かれたように背筋をピンと伸ばした。ネアズの方も「そうか」と納得して請け合う。
「それじゃあ、少しいいか」
「は、はいっ」
少し無茶ぶりだったかもしれないと、弟子の上ずった返事を聞いてティルザは思った。それでなくともネアズは愛想が良い方ではないし、声色にだってどこか威圧感がある。本人にはそんなつもりは一切ないのだろうが、彼と話していると怒られている気分になるという人もいた。自分はすっかり慣れてしまったが、その眉間に寄ったシワも彼をどこか近寄りがたくさせる一つの要因なのだろう。
そんなネアズといきなり二人で話せと言っても緊張してしまうに決まっている。とはいえこう見えて彼は組織のまとめ役でもあるし、ここに所属している以上話す機会も増えていくわけで、今のうち慣れておくに越したことはない。弟子が人見知り属性持ちであればこそ早く克服しておかないと。
老婆心とも言える気持ちを胸に、ティルザは改めて二人を視界の中に捉えた。緊張する弟子と、何事もないように話を続けるネアズ。想定通りの絵面ではあるが、何か違う。
ネアズはいつも通り早口であれやこれやと述べているものの、どこかその口調は穏やかだった。弟子の方も彼を恐れるどころかはきはきと受け答えをしていて、なんというか、会話し慣れているような気がした。それは逆に、時折泳ぐ視線が不自然に見えてしまうほど。
あれ、この二人こんなに距離が近かったかしら。
そんな疑問には、その後割とすぐに答えが出ることになる。
昼過ぎのことだった。ティルザは昼食を外で摂ると、そのまま集会所へと戻って来た。階段を上った辺りで何やら親し気に会話をする二人の姿が見える。弟子とネアズだ。
「芽は出たんですけど、ここからまた元気なものを選んで間引きしないといけないみたいで」
「へえ。全部咲くわけじゃないのか」
「なんだか勿体ないですよね。自分の家の前にもう一つ花壇作ろうかなとか思ったりして」
「それもいいんじゃないか。上手く咲けば、家も華やかになる」
「上手く咲けば、ですけどね」
話し込む二人は終始柔らかい雰囲気に満ちていた。あのネアズの眉間からシワが消え去っていることもそうだが、何より目を引いたのは染まった弟子の頬だ。
艶めく唇のコーラルピンクよりもささやか。それでいてはっきりと色づくそれは、どこかお伽話に出てくる可憐な花を思わせた。
そうして慎ましく咲く花が示すもの。目線の先の人物。もしかして、なんて言うまでもない。弟子は、あのネアズに恋をしている。
医務室で二人になったのを見計らうと、ティルザは直接訊ねてみた。
「いつからそんなに仲良くなったの?」
「……え?」
顔を上げた弟子は一瞬きょとんとした表情を見せたものの、そのあとすぐあからさまに動揺し始めた。
「な、何のことですか?」
「え、言ってもいいの? ネ」
「わーーっ! ダメです、言っちゃダメです!」
弟子はいつもより大きな声を出してその名前を掻き消すと、辺りをきょろきょろと見回し始めた。どうやら噂の本人がいないかを心配しているらしい。
「大丈夫よ。ネアズならさっき、どこかの現場に出ていったから」
「わあっ、名前言わないでください! 誰かに聞かれたらどうするんですか!」
そんな呪われた人物みたいに扱わなくても。
ティルザは苦笑しつつ、テーブルに頬杖をつく。
「それで、私がいない間に何かあったの?」
その言葉に弟子は小さく首を振って言った。
「別に何もないですよ。ただ、私が自覚したってだけで……」
「ネアズが好きだって?」
はっきり言葉にしてあげただけなのに、弟子はみるみる顔を真っ赤に染め上げた。あらあら、これは思ったよりも重症だ。
「そ、そんな分かりやすかったですか?」
「まあ、そうね。見ててなんとなくそうかなって」
えっ、と弟子は今度は顔を青ざめさせる。
「じゃあ、もしかしてネアズさんも」
「それはないわね。彼、こういうことには鈍いから」
それを聞いてほっとしたのか、弟子は胸を撫で下ろしていた。
「最初は、声が好きだなってそれだけだったんです」
聞けば集会所の掃除をしがてら朝会を覗いているときに話しかけられたのが最初だったらしい。早起きしてまで盗み聞きしにいくとは我が弟子ながらなかなかやる。
「それで笑った顔にやられた、と」
「そ、そうなんですけど、でもたぶん、前から好きだったんじゃないかなとは思います」
「へえ……」
ティルザは自分の頬が緩むのを感じた。あのネアズにこんな熱い気持ちを持つ子が現れるなんて。それがまさか自分の弟子だなんて。
「告白は? しないの?」
「こっ……」
その言葉に弟子は一瞬息を呑んだ後で、視線を落とした。
「告白とかは、考えてないです」
「どうして?」
「どうしてって、私はまだ医者として半人前だし……」
「半人前は恋しちゃいけないの?」
「そ、そうとは言わないですけど、そんな半端者じゃいけないだろうなって」
言葉尻を小さくする弟子に、ティルザはため息を吐いた。どうもこの子は変なところで自信を失くしてしまう傾向にある。睡眠時間を削る程度には惹かれているのに、どうしてそれをつまらない理由で諦めなければならないのか。
ここはきちんと言っておかないと。ティルザは幼子を諭すような口調で言う。
「私から言いたいことは二つ。まず、あなたは立派な医者になる。真面目で、適性もあって、何よりこの私が教えてるんだから。出来ないとは言わせないわよ」
少し気圧され気味に、弟子は「はい」と返事をした。
「そしてもう一つは、必ずしも明日が来るとは限らないってこと。私にもあなたにも、彼にも。これはこの世界の人間全員に言えることよ」
昨日まで一緒に戦っていた仲間がいなくなっていた。今朝まで笑っていた人が突然病に倒れ息を引き取った。これまで自分は何度も、何人もそういう人を目の当たりにしてきた。
抵抗組織に所属しているからとか、医師だからとかじゃなく、そういうことは当たり前に起こり得る。明日でなくとも、一分先にだってそういう可能性は存在しているのだ。
「もし今日で世界が終わるとして、あなたはどうする? それでも何も伝えないでいいの?」
失ってから、後悔してからじゃ遅い。後悔ばかりの人生でも誰も文句は言わないけれど、本当にそれでいいのか今一度よく考えてみて欲しい。
黙りこくってしまった弟子に、ティルザは小さく笑って言った。
「今すぐ告白してきなさいって言ってるわけじゃなくて、先がどうなるか分からないからこそよく考えてみてっていう話。可能性を一つ潰しちゃうのは勿体ないでしょう?」
「可能性って?」
「それはもちろん、あなたとネアズが親密になる可能性よ」
そう言うと弟子は少し戸惑いながら、それでも満更でもない様子で呟いた。
「親密に、なれますかね」
「そんな可能性も、告白しなかったらゼロのまんまよ」
何せあれだけの視線を向けられておきながら微塵も気づかない男だ。はっきり口に出して言わない限り、気持ちが伝わることはないのだろう。
「このままずっとゼロなのは、悲しいです」
何かを決心したような目で、弟子は言った。
「でもまだそんな勇気もないです。なのでとりあえず」
「とりあえず?」
「勉強します」
ご指導よろしくお願いします、と頭を下げる弟子を見て、そういえばこの子はこういう子だったなとティルザは小さく息を吐いたのだった。
夕方になって日も暮れ始めると、ウルベゼクの民家には人が戻り始める。煙突からは煙が立ち上って、魚や穀物の焼ける匂いがするようになると、ああ夜が来るんだなといつも実感した。これは既に身体の奥深くに染みついてしまったのか、どれだけ遠方の地で暮らそうと消えることのない感覚のようだ。
人影の消えた集会所には夕陽が差し込んでいた。木造りの床の上に、窓枠に切り取られた四角い光が射している。そこに浮かぶ影の持ち主は、窓際にひとり佇むネアズだった。
「驚いた。また残業?」
「ああ、今日中にまとめておきたい書類があってな。残業どころか宿泊コースかもな」
はあ、とため息は吐くものの、それにはすっかり慣れも含まれているように思えた。やはり自分がいない間もカラグリアではきちんと仕事が回っていたようだ。
「お前は?」
「ちょっとだけ残業しようかなって。それでも自分がいなかった時の記録を確認したら帰るわよ。明日は遅刻したくないからね」
医師が万一の時に不在であってはならない。とはいえ今は弟子の存在もあるので、そこまで神経質にならなくてもいいのかもしれないが。
大部屋を通り過ぎて奥の医務室に向かおうとした時、ふと窓際に置かれた花瓶の存在に気が付いた。
「あら、きれい」
活けられていたのは、黄色い花弁が目を引くヒマワリだった。大きく開くそれは太陽の光を目いっぱい受けようと、ひたすら真っ直ぐ前を向いている。
「どうしたの、それ」
「これか。お前んとこの弟子が飾ってくれたんだ」
「へえ、あの子が」
「商人からわざわざ買ったんだそうだ。ついでに種も貰ったっていうんで、外に植えたりしてな」
表の花壇も彼女が作ってくれたんだ、とネアズは言った。
なるほど、昼間二人が話していたのはこのことだったのか、とティルザは得心した。どうやらあの時はようやく発芽したというヒマワリを二人で眺めていたらしい。
「同じ花でも、外のはメナンシアで改良されたものだっていうから、いつどんな花が咲くかって話したりするんだ。まあまだきちんと咲くかもわからないがな」
小さく笑みを浮かべながらネアズは花瓶の花を見つめた。その視線はやはりどこか優しい気がする。
「意外ね」
「何がだ?」
「あなたが花に興味を示すなんて」
そう言うと、ネアズは苦笑した。
「まったく同じことを彼女にも言われたよ。そんなに変か? 花をきれいだと思うのは万国共通の理解だと思っていたんだがな」
「敢えて口にするのが意外ってことよ。みんな思っていても言わないことがほとんどだから」
なるほどな、とネアズは納得したように頷いた。
その横顔を眺めながら、ティルザに浮かんできたのは一つの懸念だった。もし弟子がこの男に気持ちを打ち明けたとして、果たしてそれは実るのだろうか。実る可能性は如何ほどか。
ネアズという男への告白成功率。それは付き合いの長いティルザから見ても正直、まったくの未知数と言ってよかった。
ティルザはネアズと知り合って久しい。お互い〈紅の鴉〉のメンバーとしてはそこそこの古株であり、ほぼ同年代でもある。酒を頻繁に酌み交わしたわけでもないが、一応気心は知れていると言ってもいいはず、はずだが、その色恋に関する噂ははまったくと言っていいほど聞いたことが無かった。
それは抵抗組織として活動していた頃も、自由な生活を手に入れた今現在でもそうだ。ネアズに関する浮ついた話は風の噂にも存在しない。あまりの無風具合に本人が高い金を払って口止めしているんじゃないかと疑ってしまうほどだ。疑っているのは主にガナルだが。
浮ついた噂がないということは好みの女性像も分からなければ、そもそも恋愛願望すら持たないのかもしれない。間近でジルファという愛に満ちた男の背中を見ていたのだからそれなりに感化されてはいそうなものだが、こればっかりは本人の口から聞かないと何も分からない。こう見えて実は既に恋人がいるということだって充分考えられるし、ある日突然「結婚した」と報告しに来る可能性だってなくはない。情報がないということはそういうことだ。
だからといって今ここで恋人の有無を聞くのも何か違う気がしている。弟子に頼まれたわけでもないし、自分から訊ねるのはさすがにお節介が過ぎるだろう。確かにそういった好奇心がまったくないわけではないとはいえ、ここは何も言わず沈黙を貫くべきだ。
そんなことを考えていると、ふとネアズが思い出したように言った。
「彼女が言ってたんだが、お前が貸してくれた本の中にヒマワリについての記載があったらしい。種から油が取れるとか、それが食用に向いてるとか」
本、と言われてティルザが思い出したのは例の薬学の本だった。確かに、ヒマワリについてはそういった記述があったのを覚えている。
「随分楽しそうに話すから、俺まで覚えてしまった。彼女、本当に勉強が好きなんだな」
そうだ、だから彼女は逸材なのだ。ティルザは心の中で鼻を鳴らす。
医師に必要なのは優れた記憶力でも鋭い観察眼でもない。一生勉強し続けられる向上心と根性だ。彼女はそれを兼ね備えたうえで、記憶も洞察力も思いやりの心も持っている。これ以上ない資質に恵まれているのだ。
「お前にも感謝していたな。あんな貴重な本を貸してくれるなんて、信頼してもらってる証だって」
おまけに謙虚。弟子として申し分ない。真面目が過ぎるところを差し引いても、充分お釣りが出るだろう。
「いい弟子を持ったな」
「そうなの、いい子なの」
いい子だから、そうやすやすと他人には渡せない。
ネアズはからりと笑う。「はは、羨ましいな」
人の気も知らないで。そんな気持ちを込めて、ティルザはネアズの顔をじいっと睨みつけた。
「な、なんだ?」
たじろぐネアズを見つめると、確かに顔は、顔だけは整っているように思えた。とはいえ愛想はないし、思いやりがあるかと問われると微妙なところだが、デリカシーがないわけではない。どうなんだこれは。可愛い弟子の相手として認められるのか、とても際どいところだ。
それでもティルザは一旦諦めることにした。集会所の大部屋を後にし、仕事の残る医務室へと向かう。
「じゃあね。残業もほどほどにしてよ。朝から機嫌悪いのはごめんだから」
「わかってる。お前もな」
はいはい、とティルザはひらひら手を振った。
ここは一旦諦めて、弟子に任せることにしよう。彼と上手くいくかいかないかは、結局弟子次第なのだ。自分はただ、弟子の選んだ道を見守るだけ。弟子を信じるのもまた、出来る師匠の役目なのだから。
つづく