強い風の吹きすさぶ、冷えた夜のことだった。
リンウェルは自室でいつものように机に向かい、読みかけの本を開いている途中だった。レナの星霊術について書かれたそれは、先日図書の間にてたまたま見つけたものだ。『レナと星霊術』と単純なタイトルで題された本はその厚みの割に簡素なつくりで、表紙もほかのものと違ってやや厚めの紙で覆われているだけだった。レナ人の司書曰く、「レナの人間はこれで星霊術の基礎を学ぶのですよ」とのことで、あちらの言葉で「教科書」や「参考書」と呼ぶものらしい。レネギスに生まれた者ならば誰しも一度は開いたことのある本であり、珍しさで言えば最低ランク。確かに、言われてみればその書架には新古の差はあれど、ほかにも同じタイトルのものがいくつも並んでいた。
何の気なしに借りてきたそれをいざ開いてみて驚いた。それに書かれていた内容は、自分たち――〈ダナの魔法使い〉にとってごく常識とも呼べるものばかりだったからだ。それもそのはず、扱う属性に違いがあるとはいえ元は同じ星霊術なのだから当然の結果と言われればそうだ。だがリンウェルにとっては忘れられていたものを無理やり思い出させられたような、見ないふりをしてきたものを眼前に突きつけられたような、そんな心地がした。
この本に書かれていることはレナの人なら誰しも知っている。でも、ダナの人にとってはそうではない。レナ人にとって星霊術がいかに普遍的なものであるか。逆に言えばそれは、星霊術がダナ人にとっていかに異質なものであるかを強めているとも言えた。
古びたページをめくり上げるたび突きつけられる現実に、胸の奥底が焼かれる思いがした。やっぱり私は、魔法使いは、ダナから見れば特殊でしかない――。窓の外でごうごうと音を立てている風も、自身が手ずから生み出した風も、他の人から見れば同じ災いをもたらす〈風〉に過ぎないのだ。
そこでふと身震いを起こして初めて、リンウェルは部屋に滞った寒さに気が付いた。思わず羽織っていたカーディガンを首元に引き寄せ、身を縮こめる。先ほどまで煌々と燃えていたはずの暖炉の火は、いつの間にかすっかり小さくなってしまっていた。
新たな薪をくべようと立ち上がろうとした時、部屋のドアがノックされた。キイ、と音を立てるドアから現れたのは、湯気の立つマグを手にしたロウだった。
「今日は冷えるな。ホットミルクいれたけど、飲むだろ?」
頷く前に差し出されたそれを両手で受け取って、リンウェルは「ありがとう」と呟いた。
「この部屋すげえ寒くねえか? って、火ぃ消えかけてるじゃねえか」
風邪引くぞ、と顔を大げさにしかめながら、ロウが暖炉に薪をくべる。
「もう少ししたら風呂も沸くから、早めに入れよな」
じゃあな、と言ってそのまま去っていったロウの挙動は、まるで突然湧いて出たつむじ風のようだ。それもおそらく本に集中している自分を邪魔しないようにと気を遣ってのことだろうとリンウェルには察しがついていた。普段はデリカシーのないことばかり口にするのに、こういう時のロウは誰より気配りができる。
それにしたって、少しやりすぎというか、気を遣われすぎのような気もするけれど。
温かいマグの中身をすすると、舌先にほんのり香るのはハチミツの甘さだとすぐに分かった。以前「ハチミツ入りのホットミルクは安眠に繋がるんだよ」と教えたことがあったが、それをきちんと覚えていての仕業だろうか。あるいは「早めにベッドに入れよ」というロウなりのメッセージなのかもしれない。
おまけに部屋の寒さに気付いて薪もくべてくれるし、風呂の用意までしてくれるしで、至れり尽くせりのフルコースは恋人にしたって些か度が過ぎていると言えなくもない。せめて主張しておきたいのは、決してこれが毎晩続いているわけではないということだ。
ロウはああ見えて、世話を焼くのが意外と嫌いではないのだろう。面倒ごとにはあまり手を出さないが、面倒だと感じなければ進んで行動するタイプだ。
旅をしている時からおそらくそうだった。でも、それにまだ気づかずにいたあの頃の自分は、ロウの取る行動の意味がよく理解できずにいた。
昔からリンウェルは子供扱いされるのが嫌いだった。相手が自分よりもずっと年上でもそうでなくても関係ない。ただ単に、未熟であると思われるのが嫌だった。
それを逆撫でするようなロウの発言にはたびたびイライラしていた。例えば、街に寄って買い出しに行くとリンウェルが手を挙げた時に、ロウはよくそれに付いてきた。手伝ってと頼んだ覚えもないのに、忠犬のごとく一定の距離を保ちながら背後を付いて回るのだ。
その理由を訊ねると、ロウは視線を逸らしつつぶっきらぼうな口調で言った。
「お前、なんか危なっかしいから」
それが買い出しの荷物のことを指すのか財布の中身を指すのかは知らない。問いただそうとも思わなかった。ただ猛烈に腹が立って、ロウをその場に置いて早足で立ち去ったことだけは覚えている。
ほかにも、道を歩いていて少しでも遅れると声を掛けに戻ってきたり、夜、焚火を明かりに本を読んでいると早く寝ろと促してきたり、とにもかくにもロウの言動がすべて「余計なお世話」に思えて仕方なかった。そうして躍起になることが一番子供であると気が付かないでいるあたり、どうしようもなく、間違いなく子供だった。
それが少し違って見えるようになったのは、シオンが放った一言がきっかけだったと思う。旅もそれなりに長くなり、一度情報を整理しようということでヴィスキントに宿を取った夜のことだ。
リンウェルが図書の間から借りていた本を読み終えた時、外はすっかり暗くなってしまっていた。窓から覗く星々に一瞬迷いもあったものの、翌日は朝が早いということでその日のうちに返却に行くことを決めた。
宿を出た時、ちょうどそこで宿に戻るロウと出くわした。やや上がっている息を見るに、どうやら闘技場の帰りらしい。
「なんだお前、今からどっか行くのか?」
そう訊ねられて、リンウェルはうんと頷いた。
「ちょっと宮殿にね。本返したくて」
そう言って、手元の本にちらりと目配せをする。
「へえ」とか、「そうか」とかその程度の返事が返ってくるものかと思っていた。だがロウは突然表情を曇らせたと思うと、「俺も行く」などと言い出した。
「え、なんで」
「なんでって、危ねえだろ。今何時だと思ってんだよ」
正確な時刻は分からなかったが、少なくともまだベッドに入るような時間ではない。そもそもロウの言っている「危ない」の意味が分からなかった。
それでもロウは「ついていく」と言って聞かなかった。結局折れたのはリンウェルの方で、片道10分もかからない宮殿までの道をお節介なロウとともに歩く羽目になったのだった。
宿に戻ると、シオンとキサラも夕飯の片付けを終え、部屋でくつろいでいるところだった。その間を縫い、リンウェルは自分のベッドに軽くダイブする。
「あら、随分お疲れね。何か用事でもあった?」
「おや、リンウェルには昼間買い出しに行ってもらった分、何も頼まなかったはずだが」
ううん、と重い声を出しつつ、リンウェルは枕に埋めていた顔を上げる。
「疲れたのとは違うんだけど、ちょっとイライラしちゃって」
リンウェルは先ほどの出来事を二人に話して聞かせた。二人は何を言うでもなく、ただ黙って話を聞いてくれた。
「もう、ロウってば、いつも私のこと子供扱いしてくるんだから」
ふん、と鼻を鳴らした時、そこで初めてシオンがふふっと笑い声を上げた。
「リンウェル、それは違うわね」
「え?」
首を傾げたリンウェルに向かって、シオンは愉快そうに、しかし確信を持った表情で言った。
「それは子供扱いじゃなくて、女の子扱いじゃないかしら」
◇
浴室を出て休む準備を済ませると、リンウェルは寝室に向かった。慎重にドアを開けたが、まだ枕元のランプは点いたままだった。
ベッドに入ろうとして、向こう半分の毛布がもぞもぞと動くのが見えた。こちらに寝返りを打ったロウは半分くらい寝ぼけ眼だった。
「……風呂、入ったか?」
「うん、温度もちょうど良かった。ありがとね」
まだ熱のこもる足先を毛布の中に差し込んで、枕に頭を沈める。ふかふかの羽毛の感触が心地良かった。
「ねえ」
リンウェルはどこか浮ついた頭のまま、ふと気になったことをロウに訊ねた。
「ロウって私のこと、どういうふうに思ってるの?」
「……え?」
ロウの瞳が大きく見開かれたのを見て、リンウェルは思わず我に返る。
「いやその、思うっていうか、扱うっていうか……ほら、さっきも飲み物用意してくれたり、お風呂の用意してくれたりしたでしょ」
ちょっとお姫様扱いされてるみたいだなって、と自分で口にしながら、違和感が沸いて出た。お姫様なら、食事から着替えまで何もかもお世話されなくてはならない。
恋人扱い、と言われればそれまでだが、それも少し違う気がした。ロウの気遣いはそこまで甘ったるいものではないし、どちらかと言えば保護者のそれに近い。
だからといって以前のように子供扱いを受けているとは微塵も思わなかった。ならばロウの方は一体どんな気持ちでこちらに接しているのだろう。
「そうだな……」
ロウは少し考えて、
「魔法使い扱い……? 努力家扱い……いや違うか」
ぶつぶつ呟いた後、急に何かを思いついたかのように、
「あえて言うなら、リンウェル扱い、かもな」と言った。
「なにそれ、よくわかんない」
「なんでだよ、すげえわかりやすいだろ」
楽しげに言って、ロウはこちらに視線を寄越す。
「お前は特別ってこと」
小さく笑うと、ロウは天井を向いた。寝るぞ、といつものように言って、目を閉じる。
リンウェルも同じように天井を向くと、そっと目を閉じた。安寧に満ちたなんでもない一日の幕を閉じるように。
ほんの少し前まで心に吹き荒んでいた風も、いつの間にか止んでいた。いや、たった今止んだのかもしれない。あれほど苦手だった「特別」という言葉が、今は違った響きで聞こえる。じわりとパンにしみるバターのように自分の中に溶けていく。
お前は特別だと、まるで特別でないように言う人がいる。その人と同じくらいの強さで、自分もまたその人を特別だと思っている。
幸せなことだと思った。特別が当たり前だなんて。
明日も明後日も、それが続けばいい。強い風の吹きすさぶ、ある冷えた夜のことだった。
終わり