「おい、家出坊主!」
背後からの声に、咄嗟に振り返った。
目線の先には陽気に笑う中年のおっちゃんが一人。
「よく戻ってきたなあ! 悪運の強い奴め!」
体格の大きなおっちゃんは俺の背中を強く叩くと、これまた大きな声で笑った。
正直、名前は思い出せなかった。親父だけでなく自分のことも知っているというのだから、おそらく〈紅の鴉〉の古株か、あるいは古い付き合いのあった友人なのだろう。とはいえそういう人間がこの国に果たして何人いるのか。親父の交友関係はあまりにも広すぎて俺には到底追いきれそうにない。
おっちゃんは俺に「おっきくなったなあ」とか「たくましくなったなあ」とかまるで親類のようなことを言った。
「それにしてもあの英雄一行の仲間とは、ジルファも誇らしいだろうよ」
その言葉には思わずぎくりとする。
「ジルファのことは残念だったが、その分お前さんが頑張ってくれよ。じゃないと、ジルファが報われねえだろ?」
おっちゃんの言葉に俺は「ああ、任せてくれよ」と言って、ウルベゼクを後にした。
「ちょっと、ロウ!」
名を呼ぶ声が聞こえて、顔を上げる。
「何ぼーっとしてるの? そんな亀みたいに歩いてたら置いてっちゃうよ」
目の前でそう言ったのはリンウェルだった。ふと視線を上げるとアルフェンたちはもうずっと先を行っていて、時折こちらを振り返っては様子を窺うような素振りを見せている。どうやら歩みの鈍い俺を見かねて、リンウェルがわざわざ声を掛けに戻って来たらしい。
「ああ、悪い。すぐ行く」
「どうしたの? 何か考え事?」
リンウェルがそう訊ねてきたが、俺は首を振った。
「いや別に。なんでもねえよ」
前を行くアルフェンたちに追いつこうと少し足を早めたところで、
「おい、家出坊主!」
リンウェルが言った。
驚いてそちらを向くと、リンウェルはふふっと小さく笑う。
「気にしてるでしょ、さっきの」
こんなあからさまな反応を見せておいて、違うとは言えなかった。とはいえ素直に頷くこともできず、つい視線を逸らしてしまう。
「やっぱり。なんか様子が変だと思ったから」
リンウェルは緩く唇に弧を描いたまま、そんなことを言った。その表情がどこか得意げにも勝ち誇ったようにも見えるのは、今の俺の心が荒んでしまっているからか。
「ロウってば、案外繊細だよね」
「……案外は余計だ」
俺は小さく呟く。これではまるでふてくされた子供みたいだ。
なぜ気付かれたのだろう。歩くのが遅くなっていたとはいえ、例えば腹が痛いとか戦闘が上手くいかなかったとか、他にも理由は考えられるはずだ。リンウェルはどうして、あの言葉が俺の心に引っかかっていると思ったのだろう。
思えばこいつはいつもそうだ。俺の押し隠した気持ちに気付いて、なんでもお見通しみたいに笑って。
それでいてそこに悪意はないから余計に質が悪い。押し殺そうとした心の中を暴かれるのはそれなりに恥ずかしいことだというのに。
気まずさに口を閉じる俺に、リンウェルはこちらを覗き込んで言った。
「あれを気にするってことは、まだ後悔してるんだ?」
「そりゃあな、しないはずないだろ」
何を、なんて聞く必要はなかった。俺の過去において後悔していないことなどひとつもないからだ。
「家を出て国も捨てて、シスロディアじゃ自分の命惜しさに同胞を裏切って、」
蘇るのは思い出したくもない記憶ばかり。
「しまいにゃ親父まで手にかけて、復讐だっつって鬼の首とったような気になって、ほんっとバカみてえ」
バカみたい、ではなく、バカだったのだ。どうしようもなく救いのない、大バカ野郎。
その罪は今でも重たくのしかかり、時折呼吸もできなくなるほどに俺を苦しめる。手足には枷が嵌められているんじゃないかと錯覚することもあった。そう、ちょうど今のように。
あのおっちゃんは知らないのだろう。どうして親父が死んだのか。そのすべての元凶は俺で、大元を辿れば俺が何も知らずに、知ろうとせずに家を出たことにあると。
ある意味、それは幸いだったのかもしれない。おっちゃんが何も知らないでいてくれたおかげで罵倒されずに済んだわけだ。とはいえそれも今回だけ。次に会った時には分からない。
「それでも周りは期待するだろ。ジルファの息子が英雄の仲間だって。何かやってくれるって信じてんだ」
俺が今ここにいるのは、親父が死んだからなのに。そしてその親父が死んだ理由が、俺。
まるで騙しているみたいだと思う。そんなつもりもなければ、できるだけ応えたいとも思っているが、果たして先は分からない。そもそも自分の背後に連なる足跡を思えば、そんな資格ははなから存在しないのかもしれない。
「任せろって大口叩いておいて、その実頭ん中は不安ばっかなんだ」
情けねえ、と落ちたため息はカラグリアの風に吹かれて消える。やたらと砂っぽいそれが、今日はやけに目に染みた。
「なるほどね」
リンウェルは小さく息を吐いた。
「確かに、あの人には悪気はなかったように思う。ロウがそれを気にしてるってこと知らなくて、ただ軽口で冗談を叩いたつもりだったんだろうね」
ああ、と俺は頷いた。じゃなきゃあんなふうに声を掛けてきたり、優しい目で俺を見つめてきたりはしないだろう。
「それでも、これからはそうじゃない人に会うかもしれないよね」
リンウェルはまっすぐ前を見て、そう言った。
「あの人とは違って、悪意を持ってる人に会うかもしれない。そういう人と一緒に行動しなきゃいけなくなることもあるかも。感情とは別に協力しなくちゃいけない時もあるから」
ニズの時みたいに、とリンウェルは困ったように笑った。あの時はリンウェルも随分傷ついたと思う。命を救ってなお遠ざけられる辛さは計り知れない。
「でもね、」
リンウェルの声が静かに響く。
「私たちは前を向いて歩いていかなきゃいけないんだよ」
穏やかで、それでいて強い声だった。
「生きてるから。それは、ジルファにはできないことでもある」
その言葉にはっとした。
親父はもういない。俺たちが進む先に親父は存在しないのだ。
死んだ人間とは一緒に歩いていくこともできなければ、その喜びも苦しみも分かち合えない。それは今生きている人にしか許されない。
「ロウにいくら許せない過去があっても、それは消えないし、消せないんだよ。過去はどうにもならないし、だからこそ重要じゃない。もっと大事なのはこれから何をするか」
そうだった。俺が見るべきは後ろじゃない。前だ。
この先何をするのか。守りたいと思うもののために、何ができるか。
「だからさ、」
リンウェルは前に大きく一歩踏み出して言った。
「これからいっぱい胸張れること成し遂げて、いろんなこと笑い飛ばせるくらいになろうよ。そんなこともあったなって」
過去は過去。もちろん胸に留めておくべきことはそうして、笑えるものは笑い飛ばす。例えば『家出坊主』に凹んだことや、故郷にしょぼくれた情けない背中を見せてしまったことも。
その先にいるのはきっと、胸を張れる自分だ。背中を丸めて笑うやつなんかどこにもいない。笑ったら笑った分だけ、俺は胸を張ったことになる。
「ああ、そうだな」
そう頷くと、なんだか胸のつかえが取れた気がした。足も軽い。これならすぐにアルフェンたちに追いつけそうだ。
「ありがとな」
俺の言葉にリンウェルはううんと首を振った。
「ロウが元気ないのはこっちまで調子狂うから。難しいことは考えないで、能天気なままでいてよ」
「なんだよそれ。誰が能天気だって?」
「一応褒めてるんだけど。ね、フルル」
「フル!」
こんな時ばかり元気に返事をしてリンウェルのフードからフルルが顔を出す。まったく、こいつらは俺を何だと思っているんだ。
それでも不思議と悪い気分ではない。さっきよりも、昔この国を出た時よりもずっと清々しい気持ちだ。
振り返ると、ウルベゼクの門は随分遠ざかっていた。こんな光景をいつか親父も見たのかもしれない。
でももうそれも過去のこと。俺たちが向くべきは、前だ。
「行こうぜ」
俺の声に、リンウェルが頷く。
「私たちはここから、だからね」
砂の混じったカラグリアの風が、急に強く背中を押した。
終わり