「世の中にはね、『YES/NO枕』なるものがあるらしいよ」
夕飯を食べている最中、リンウェルがそんなことを言った。
なんでもそれは夜のアレコレについて相手に意思を示すものなのだとか。その気があれば「YES」の面を、なければ「NO」の面を表にして置いておく。晴れて「合意」に至れば、心置きなくそういうことができるという仕組みらしい。
俺はそれを話半分で聞いていた。世間にはそういう面倒な手続きをしなければならない恋人がいるのかと、まるで他人事のように思っていた。
「だから、表と裏面の違いがわかりやすい枕カバーを買ってきたんだ」
「へえ、そうか」
「……一応聞くけど、言ってる意味わかる?」
リンウェルに顔を覗き込まれ、カレーを掬う手を止める。
「うちにも導入するからねってことなんだけど」
「……へ?」
そこまで言われてようやく、俺は事の重大さに気が付いたのだった。
リンウェルの言い分はこうだ。
「だってロウが来るたび寝不足になるんだもん。そりゃあ1日くらいはいいけど、ロウがこっちにいる間中ずっとそうなってるのは体力的にもキツいっていうか……」
「それに私も最近忙しくてロウが来る日に合わせて体調管理するのも難しくなってきてるし、ロウだって仕事で疲れてるのに私が寝るまで待たせた挙句、『今日はそんな気分じゃない』なんて言うのもアレじゃない? だから、枕が裏返ってるときは先に寝てていいよってことで」
わかりやすいし、面と向かって言いにくいことも伝えられて一石二鳥でしょ、なんてリンウェルは朗らかに言ったが、そのどれも俺にとっては寝耳に水の新事実ばかりだった。リンウェルが寝不足に苦しんでいることも、体力的に辛いと思っていることも今の今まで知らなかった。確かに少し無理をさせているというか、ちょっとばかり歯止めがきかなくなって夜更け過ぎまで愉しんでしまうことは少なからず身に覚えのあることだったが、とはいえそれもある意味致し方のないことだろう。何せ普段はメナンシアとカラグリアで離れて過ごしているわけで、可愛い恋人と久々に顔を合わせようものならそれはもう燃え上がらない方がおかしい。ついつい夢中になってしまうのも、リンウェルをくたくたにするまでやめられないのも、この身に宿る大きすぎる想いゆえのことなのだ。まあつまりはそれがリンウェルの負担になっているわけだが。
加えて、リンウェルが誘いを断ることに負担を感じているらしいということも初めて知った。情けなくもそれについてはまったくと言っていいほど気が付いていなかった。リンウェルに誘いを断られることはこれまでも何度かあったが、「今日はムリ」「眠いからヤダ」などとそっけない物言いをしてはこちらに背中を向けて寝てしまうことがほとんどで、断りの文句を言いにくそうにしているようには到底見えなかったからだ。リンウェルの中ではそれが心に引っかかっていたらしく、リンウェルが見せるそっけない態度はあるいはその気まずさからくるものだったのかもしれないと思うと、得心するところがないわけでもなかった。とはいえ、断られてしまった時はもちろん悲しいことには変わりないが、だからと言って無理に付き合ってもらいたいとも思わない。気分が乗らないままそういうことをしたって残るのが独りよがりな満足感とリンウェルの疲労感なら、俺はただ数分の孤独な物悲しさを選ぶだろう。
足りない頭でいろいろと考えてみると、腑に落ちることがいくつもあった。自分はこれまであまりリンウェルのことを気遣ってやれていなかったかもしれない。ありあまる想いが募ってのことだったとはいえ、それが相手に伝わらない、かえって苦しめているだけなら何の意味もなさない。この辺で自分は一旦頭を冷やすべきなのかもしれない。
俺は覚悟を決めると「わかった」と頷いた。
「そのナントカ枕ってやつ、使ってみようぜ」
「YES/NO枕。本当なら、枕におっきく『YES』『NO』って書いてあるらしいんだけど」
それはさすがに恥ずかしいから、と言ってリンウェルが買ってきたのは、真っ白な布地の隅にピンクのリボンがひとつ縫い付けてあるものだった。控え目ではあるが印としては充分で、裏面に何の装飾が施されていないのもわかりやすかった。
「私の分しか買ってないけど……ロウのも必要だった?」
「いや、要らねえ」
首を横に振る。なんてったって俺には夜の意思表示など必要ない。リンウェルからお誘いが来ようものなら、昼だろうが夜だろうがいつだって飛びつく準備はできているのだ。
そんな俺の誇らしげな視線はそっちのけでリンウェルは寝室のベッドに枕を並べた。真っ白なシーツに1か所だけ飾られたピンクのリボンがよく映える。これなら合図を取り違える、なんて事故は起きなさそうだ。
「リボンの面なら『OK』ってことだから。次来た時忘れないでよ」
おう、と頷いて、そこでふと疑問に思った。
「あれ、じゃあ今夜はどうなるんだ?」
今表に出てるのはリボンの面だから、『OK』ってことか? と訊ねると、リンウェルは顔を真っ赤にして、
「昨日もしたでしょ! ロウだって明日朝早いんだから今日はナシ!」
とつかつかベッドに歩み寄り、乱暴に枕をひっくり返してしまったのだった。
次にメナンシアを訪れるまでにはそれなりに間が空いてしまった。カラグリアのあちこちにズーグルが現れ、その対応に追われていたのだ。
カラグリアには戦闘面において俺ほど経験のある者はそういない。乞われるままほぼすべての現場に出向いていたがようやくそれも落ち着き、ほとんど皆勤賞の俺にネアズから与えられたのは多めの報酬と、いつもよりも長い休暇だった。
「お疲れ様。話は聞いてたよ、大変だったね」
リンウェルからあたたかく迎えられると、ようやく息をつくことができた。ズーグルの相手には慣れているとはいえ命の危険がないわけじゃない。ケガなくリンウェルに再会できたことと、もう一つ、リンウェルに愛想を尽かされないで済んだことに心からほっとした。
「こっちもいろいろ大変だったんだろ? 噂で聞いたぜ」
「まあね。そうはいっても騒がしくなってるのは私の周りだけだよ。新しい遺跡が見つかった、なんて言っても大抵の人は興味ないだろうし」
とはいえそれまでただの廃墟だと思っていた場所が、実はかなり古い時代の遺跡だと知ったら誰でも驚くだろう。フィールドワークの休憩によく使用するお馴染みの場所がそうであったならなおさら。
この出来事は研究者の間でたちまち話題となった。ヴィスキントからそう遠くない場所なら調査もしやすいと、もうすでに何組もの連中が調べに入ったらしい。みるみる物資が売れて懐があたたかくなったというのは、旅商人から聞いた話だ。
「手伝ってほしいって言われて私もこの間行ってきたよ。今は結果を詳しく調べてるとこなんだ。これがなかなか読み解けなくて難しいんだよね」
肩をすくめながらそう口にするリンウェルの口調はごく愉快そうだった。うずうずとどこか落ち着かない様子は知りたいという欲求を抑えきれない時のもので、机の上にいくつも本が積み重なっているところを見れば今はその新しい遺跡とやらに夢中なのだろう。こうして顔を合わせている限りでは寝不足のようには見えないが、もしかしたらいつかのように夜更かしをする毎日を送っているのかもしれない。自分が来たからには睡眠も食事も誤魔化させはしないが、それでもリンウェルの邪魔になるようなこともしたくない。何より今回の休暇は期間もあるので、連日の戦闘による疲れを癒しつつ、のんびりリンウェルとの日々を楽しめればいいと思っていた。
例の枕のことは忘れていなかった。いや正しくは、寝室に入って白いシーツの中に1点ピンクのリボンを見つけた瞬間、思い出さざるを得なかった。
そういえばそんな約束をしたんだったな、と思いながら、あれ、でもこっちの面が表になっているということは今夜は『OK』ということか? とも思った。とはいえ話を聞くに最近は忙しいらしいし、俺はともかく、リンウェルは疲労が溜まっているんじゃないだろうか。こっちの面が表になっているのはきっとひっくり返し忘れたとか、うっかりしていたとかそういうことだろう。まったく、リンウェルからあんな提案をしておいて自分の方が忘れてしまうなんて。そうはいっても人間だしな、と大ざっぱな理由をつけて、俺はその日の夜を何事もなかったかのように過ごしたのだった。
ところが驚いたことに例の枕は翌日になっても表面のままだった。朝からリンウェルが今日は図書の間に行くと言ったので、俺はその間闘技場やら街の中やらをぶらついていたわけだが、帰ってみていつの間にか整えられていたベッドにはピンクのリボンがちょこんと揺れていた。まさかと思い、リンウェルに直接訊ねようともしたが、以前の自分の行いを振り返ればそんな気も失せてしまった。あいつは断る文句が言いづらくてあんな枕を投入したのだから、ここでそれを繰り返させては意味がないと思った。
翌日になっていまだ忘れ去られている健気なリボンを見て、いよいよと思った。これはいよいよ指摘してやらねばならない。忘れているなら口で言って思い起こさせるまでだ。
夕飯前、部屋で調べ物をしているリンウェルに俺は言った。
「お前、あの枕のこと忘れてるだろ」
え、とリンウェルが本から顔を上げる。
「ずっとリボンの面になってるぞ。まったく、自分から言い出したんだからひっくり返すの忘れんなよな」
混じったため息には少々嫌味も含まれていたかもしれない。思わせぶりなことをするな、というささやかな嫌味だ。
するとリンウェルはぽかんとした表情を見せた後で、
「別に、忘れてないけど」
と言った。
「…………え?」
沈黙が流れる。遠くの喧騒が窓一枚を通り抜けて耳に届いた。
首を傾げたままの俺に、リンウェルはばたんと勢いよく本を閉じて言った。
「……二度は言わないからね」
そのまま立ち上がり、逃げるようにして部屋を後にする。覗いた耳は明らかに赤く染まっていた。
それってつまり……?
追う先は寝室だ。それの意味するところも、あいつはわかっていると信じたい。
終わり