とある夜のベッドでの話。(約4,300字)

2023-08 お礼SS

 リンウェルが自分の方へと身を寄せてきたのは、部屋の明かりを消してこれから眠ろうという時になってだった。
 まだ暗闇に慣れていない視界の中で何かがもぞもぞと動き、右肩に温いものが触れる。それは俺の右腕を取ったかと思うと、重たいものを持ち上げるような動きで半ば強引に肘を曲げさせた。指にさらりとした髪の感触がする。手のひらが乗せられた先はどうやらリンウェルの頭らしい。
「撫でて」
 口元まで毛布にくるまったままなのか、くぐもった声が聞こえた。言われた通り手のひらをゆっくりと動かして表面をさらうように頭を撫でてやると、リンウェルはそれに摺り寄せるようにして顔をわずかに持ち上げた。
「何かあったのか?」
 そう訊ねると、リンウェルは小さく首を振った。
「別に。大したことじゃないけど」
 けど、という言葉で止めるのがリンウェルらしい。自分の前でまで、それもこんな甘えたになってまで強がる必要なんかどこにもないというのに。
 敢えてそうとは口にせず俺はリンウェルの方へと向き直る体勢になると、頭を撫でる手を右から左へと変えた。指の間から細い髪がすり抜けるたび甘い香りがふわりと舞う。浴室にあるシャンプーの香りだが、自分の知るそれよりももっと甘い気がした。
「……今日」
 そうしてリンウェルはようやく口を開いた。不機嫌とまではいかないもののちょっと拗ねたような、そんな声だ。
「昼間、街道に出たの。そしたら農場の人が畑にズーグルが出て困ってるっていうから、私が追い払ったんだ。すごい術使ったとかじゃなくて、ちょっと脅かして追い払っただけ。それなのに、あとから来た兵士に『ダナのくせに』って言われて」
「ああ……」
 なるほど、と息をついた。いまだダナを下に見ている奴らが手柄を取られて恨み言ならぬ負け惜しみを言った、ということらしい。
「別に、慣れてるよ。今までもそういうこといっぱい言われてきたから。でもわざと聞こえるような声で『本当に目光ってなかったぞ』とか『気持ち悪い』とか言われて……そんなの、私の知ったことじゃないのに」
 リンウェルはそう言うと、自分の胸へと顔を埋めてきた。見なくてもわかる。リンウェルの口は今、見事なへの字を描いているに違いない。
「そいつは気分悪かったな」
 俺はリンウェルを腕に収めながら、その背をぽんぽんと優しく叩いた。まるで泣いている幼子をあやすかのようだ。別にリンウェルは泣いているわけではなかったが。
 残念ながら、夜明けを迎えたばかりのこの世界にはいまだ夜に埋もれたままの人間がたくさんいる。自分たちの常識が次々に覆されて、何を信じればいいのか分からないまま道を彷徨う連中が大勢いるのだ。
 そうして矛先を誤った方向に向けてしまっているのがリンウェルに心無い言葉を放った兵士らなのだろう。感じた憤りを他種族に向けることでしか発散できない奴ら。彼らはきっと、そもそもルーツを辿ればダナもレナも同じ一つの種族だという事実さえ受け入れられなかったに違いない。ここまでくると、彼らには何より先に憐れみを感じてしまう。
 それはきっとリンウェルも同じだった。ぶつぶつと文句を言ってはいるが、声色に怒りはさほど感じられない。怒りというよりも悲しみ、悲しみというよりも疲弊が色濃く出ている。
 これまで幾度も重ねられたそれは、確実にリンウェルの心を擦り減らしていた。そんなリンウェルに自分ができることと言えば、その摩耗した部分をこうして優しく撫でてやることだけだ。
「お前は、そうやって言われても何も言い返さなかったんだろ」
 腕の中でリンウェルが、うんと頷く。
「だって、言い返して言い争いになっちゃったら農場の人が困るじゃない。自分のせいでいざこざがあったのかって思っちゃうでしょ」
 だからリンウェルは、まるで何事もなかったかのようにして畑を後にしたのだという。
「でもなんかちょっと気付いてはいたみたい。農場のおばさんがごめんなさいねって、カゴいっぱいにイチゴくれたんだ。さっきもアイスたくさん食べて、結構すっきりしたつもりでいたんだけど」
 ああ、だから夕飯にイチゴが出てきたのか。リンウェルがデザートのアイスクリームをいつもより随分多く盛り付けていたのにも合点がいった。あれはリンウェルなりのストレス解消法だったのだ。
「寝ようと思って目閉じたら、また思い出しちゃって。頑張って我慢した自分を褒めてもらいたくなったの」
「そうか」
 俺はまたリンウェルの頭に手をやると、ゆっくりと丁寧に髪を撫でつけた。何度も何度も、手のひらの温度が移ってしまうくらいそれを繰り返す。しつこい、と言われるかと思ったが、リンウェルはただ黙って受け入れるだけだった。曰く、「あったかくて気持ちいい」らしい。
「えらかったな。俺なら先に口とか手が出ちまいそうだけど」
「そうならないような世界を作るって話でしょ。私たちが破ってどうするの」
「それはそれだろ。手が出そうなのは恋人としての俺だな。その場にいたら確実にシバいてた」
「ふふ、なにそれ。でもありがと。気持ちだけ受け取っておく」
 先ほどよりも随分柔らかくなった口調で、リンウェルが言った。
 そうしてしばらくリンウェルの髪を撫でていると、ふと笑みがこみ上げてきた。
「なに? どうかした?」
「いや、ちょっと昔のこと思い出した」
 ふいに脳裏に過ったのは、かつて自分が抱いた願いだ。旅の途中、リンウェルの努力する姿に心打たれた自分は、そこで初めて抱く感情に出会った。
 自然と湧き出たような思いの根本には何があったのか、今となってはもうわからない。ただその研鑽を称えたいだけだったのか、あるいはリンウェルよりもやや年長であるがゆえに兄のような気持ちになってしまったのか。そのどちらも正しいような気もするし、正しくないような気もする。
 結局自分は旅の間、その密かな野望を叶えることはできなかった。その頃にはもう純粋な気持ちでリンウェルに触れることはできなくなっていたのだ。仲間でありながら距離を取らなければどうにかなってしまいそうだった。それこそ若さ、青さゆえの苦渋の判断だった。
 それが今こうして腕の中にリンウェルを抱いていると言えば、当時の自分はどんな反応を見せるだろう。全く、人生とは何があるか想像もつかない。
「お前のこと、こういうふうにできるまで結構時間かかったなって」
 再び髪を撫でながらそんなことを言うと、リンウェルは、
「私のこと、そんな前から好きだったの?」
 と小さく首を傾げた。どうやらリンウェルは、俺の言う「時間」を片思いの期間ととったらしかった。あながち間違ってはいないものの、自分の思うそれとは似て非なるものだ。
 とはいえここで否定するのもどうだろう。実はずっと前からお前のことを撫でてやりたかったのだと今更打ち明けるのも照れくさいし、実際にそれが叶うようになった今、敢えて話すこともない。むしろ、引いたリンウェルが髪を触らせてくれなくなる可能性だってある。
「さあ、どうだったっけな」
 とりあえずと言葉を濁し、適当な相槌を打った。リンウェルに話を合わせようと、自分がいつからリンウェルを想うようになったのかと改めて考えてみる。が、なかなかそのきっかけは思い出せない。そもそもリンウェルのことを何とも思っていなかった時の記憶自体が、初めから存在していなかったかのように思い出せないのだ。
 それほどにはこの気持ちは大きくなりすぎた。あるいは本当に、出会った時からリンウェルのことが好きだったのでは、というような気もしてくる。そんなことを言えばリンウェルはまた、「何言ってんの」と呆れるのだろうが。
「ねえ、いつから私のこと好きなの」
 こういう時に限ってリンウェルは執念深い。ちょっと弾んだような、面白がるような口調で俺に迫ってくる。
「いつからったってなあ」
「あれ? 照れてるの?」
 別にそういうわけじゃない。本当に思い出せないので困っているだけだ。
 少し考えた後で、
「少なくとも、お前が思ってるよりは前からなんじゃねえの」
 と答えた。これもまたその場しのぎの適当な返答ではあるものの、それほど間違ってはいないだろう。
「ふうん」
 すると腕の中にいたリンウェルがこちらをじいっと見つめてきた。大きな瞳にカーテンの間から漏れた星明かりが反射している。
「ロウは、自分の方が頑張って振り向かせたって、そう思ってるでしょ」
 口元に緩く弧を描いてリンウェルは言った。穏やかな笑みの中にほんの少しだけ呆れが混じっているような、そんな口調だった。
 俺はそれを聞いて、何をいまさらと思った。そんなの自分たちを知る人なら誰だって迷うことなく肯定するような事実だろう。
 旅を終えてから、何とかリンウェルの気を引きたかった俺はメナンシアに拠点を置いた。依頼でどこかへ行く以外は基本的にヴィスキントで過ごしていた。リンウェルが部屋を借りたのがヴィスキントだったからだ。
 暇を見つけてはリンウェルに会いに行き、食事に行かないかと誘った。一緒にいる時間を増やしたかったのだ。
 リンウェルはというと、大抵はOKしてくれた。シオンやキサラと予定がある以外は断られなかったと思う。でも、それだけだ。
「お前、全然そんな素振り見せなかっただろ。好きなやつがいるのかそうじゃねえのかもわかんねえし」
 食事に行っても『次の休みに遺跡付いてきて』『買い物付き合って』などと言われるだけで、進展らしい進展はほとんどなかったように思う。
「お前を送って宿に戻って、今日もダメだったかって落ち込んでたんだぜ」
「ロウはそれを脈ナシってとってたわけ」
 はあ、とリンウェルがため息をつく。
「そういうところが、ロウのモテないところだよね」
「え?」
「ううん、それがロウのいいところだよねって言ったの」
 そのままでいてね、とつけ足して、今度はリンウェルが俺の髪を撫でた。
「でもロウは気付いてないんだね。私が今まで生きてきた中で一番努力して、頑張った時のこと」
「はあ? なんだよそれ」
「いいの、知らないなら知らないままで」
 リンウェルはごろりと横に寝がえりを打つと、二人用ベッドの自分の寝床へと帰っていく。
「ひとつ言うなら、頑張ってたのはロウだけじゃないってことかな」
 その言葉ではっとする。
「それって、お前も」
「はい、もうこの話はおしまい! 明日も朝早いんでしょ。寝ないとね」
 おやすみ、と背中を向けた恋人をみすみす逃すわけにはいかない。
 ベッドが軋むのも構わず、勢いよくリンウェルを後ろから丸ごと抱きすくめる。「暑苦しい!」と上がった声はわかりやすく照れ隠しだった。

終わり