なんだか嫌な予感がする。リンウェルがそう感じたのは、本を床に落としてしまった時だった。
しかも結構お気に入りの本だ。表紙や背に傷がついていないか、あちこちを慎重に確認する。どうやら幸いにも目立った損傷はないようだ。
ひとまずほっとして胸を撫で下ろすが、油断はできない。こういう時の予感はなぜかよく当たるのだ。割った卵の黄身が双子であっても良いことはほとんど起こらないのに、悪いことは次から次へと重なって起きる、気がする。
だから今日は慎重になった方がいい。予定はといえば食材の買い出しに行く程度しかないが、それでも気を付けるに越したことはない。それも早々に済ませてしまって、あとは部屋でのんびりするのが良いかもしれない。
そう思って身なりを整えていると、突然部屋のベルが鳴った。
「おーい、リンウェル。いるかー?」
この声は、と思ってドアを開けると、そこには「よお」と手を上げるロウの姿があった。
「え、なに、どうしたの急に」
「あーいや、午後の仕事なくなったからよ。お前どうしてるかなーって思って」
なんか用あったか? と訊ねられ、リンウェルは首を振る。
「特にないけど、今から食材の買い出し行こうと思ってたの」
「お、じゃあ付き合うぜ。重たいもんでもなんでも持ってやるよ」
そういえば最近お米や小麦粉が減っていたなと思い出し、リンウェルはその申し出をありがたく受け入れることにした。
二人で外に出ると、辺りには心地よい風が吹いていた。空には雲一つない。遠くにもその白い影は見当たらない。
「どうした? きょろきょろして」
「いや、雨降ったりしないよねって」
「雨ぇ?」
ロウも同じく上を見上げるが、その気配すらない空に首を傾げるばかりだ。
「いや、降らねえだろ」
「そうだよね、」
それならいいんだけど、と口では言いつつも、油断は禁物だとリンウェルは心の中で己に言い聞かせた。
街に着くと、広場では市が開催されていた。こうして定期的に開催される市にはダナ中から集められた特産品が並び、中には珍しい掘り出し物なんかもあるので、毎回多くの人で賑わっている。
今日の市も盛況なようだった。広場の中も外も人がいっぱいで、売り子や店主の客を引く声が響いている。
「少し見てもいい?」
「おう」
人の間を縫って広場に入ると、そこにはやはりリンウェルの興味をそそるものがたくさん並んでいた。ガラス製の砂時計、ダナフクロウの木彫り、熱帯植物の鉢植え。どれもこれもメナンシアではあまりお目にかかれないものたちばかりだ。
中でもリンウェルの目を引いたのは、琥珀を用いた髪留めだった。小さな粒に加工されたそれらが、花のモチーフの金具に埋め込まれている。そっと宙に透かしてみれば、中にはかすかに模様が浮かんでいた。
いいな、ほしいな、と思ったが、生憎今日は手持ちがない。これから食材を買いに行くことも考えればなお厳しそうだ。こういうのは一期一会ではあるものの、手に入れられないのもそういう巡り合わせのもとなのだろう。そう思ってリンウェルは踏ん切りをつけると、再び人混みの中を抜けて市を後にした。
通りを進んで次に向かったのは、ヴィスキントの市場だった。入ってすぐのところで青果店を見かけ、まず野菜を中心に品定めをする。といっても実りの豊かなメナンシアではその質に大差もなければ、ハズレを掴まされる心配もいらないのだが。
レタスやトマトをいくつか購入したところで後ろを振り返ると、辺りにロウの姿はない。ついさっきまでそこにいたのに、と周囲をぐるりと見回したところで、額に軽く汗をかいたロウがそこの角からひょっこり現れた。
「もう、どこ行ってたの」
「悪い悪い、ちょっとな。お、それ荷物か?」
持つぜ、と言って、ロウが手元から紙袋をさらっていく。
「次はどこ行くんだ?」
「えーと、果物とお米と」
「おう、じゃああっちだな」
そう言うとロウは何事もなかったかのようにして市場の通りを歩き始めた。リンウェルも特にロウの様子を気に留めることもなく、すぐにその背中を追った。
その後の買い出しも順調だった。いや、順調を通り越していた。
果物を買った時は店主のおばさんがオマケだと言ってリンゴやイチゴをサービスしてくれて、小麦粉を買いに行った時も店に入るなり「来店1000人目のお客様!」と言われ、砂糖1袋と焼き菓子のセットを貰った。
お米屋さんでは店のおじさんとロウが知り合いということで割引までしてもらって、帰りにふと寄ったドーナツ屋ではラスト1個をゲットすることができた。
「今日すげえツイてたな」
のほほんとロウがそんなことを言う一方で、リンウェルは頭の中で懸命に考えを巡らせていた。
今日は家を出る前、確かに嫌な予感を感じ取っていた。こういう時の予感はよく当たるし、注意しなければとずっと警戒していた。
それなのに実際は不運どころか、この上ない幸運ばかりに恵まれていた。通り雨もなければ買い出しも順調。加えてオマケと割引の嵐で、ラッキーだらけだ。
ここまでくると逆に怖くなってくる。もしかして、自分にはこの後とんでもなく大きな不幸が待っているんじゃないか。それは一体何なのか。事故か、事件か。ひとり背筋を凍らせながら、リンウェルは家までの道をやはりどこか注意しながら歩いたのだった。
結局事件も事故も起きなかった。家に着くと、ロウが抱えていた両手いっぱいの荷物をテーブルへと置く。
「これで全部か。買い忘れとかねえよな」
「うん。今日は本当助かっちゃった」
ありがとね、と礼を言うと、そこでロウは何かを思い出したように鞄から何かを取り出した。
ロウが差し出したのは小さな箱だった。ふたを開けると、そこには市で見かけたあの髪留めが入っている。
「え、これ……」
「お前、欲しそうにしてただろ? せっかく気に入ったのに買わないのは勿体ねえなって思って」
どうやらロウは自分が買い物をしている隙を見て市に戻り、これをわざわざ買ってきてくれたらしかった。あの時ロウの姿が見えなかったのは、そういうことだったのだ。
「でもこれ、値段けっこうしたんじゃ……」
「いいって、お前にはいつも世話になってるし、日ごろの礼ってことで」
ロウは微塵も気にしていないように、からりと明るい笑顔を見せる。
そこでリンウェルの不安はついに決壊した。
「ロウ、どこか行っちゃうの?」
「……へ?」
「どこに行くの? もう会えないようなところ?」
ロウに迫り、一息にまくし立てる。
「行くって、俺が? どこに?」
「分かんないけど! だからそれを聞いてるの!」
「お、落ち着けって。いきなりどうしたんだよ」
リンウェルは今日のことを洗いざらい話した。家を出る前から嫌な予感がしていたこと。それをずっと注意していたこと。でも何も起きなくて、むしろラッキーばかりだったこと。そしてトドメのロウからのプレゼントだ。
「だったらもう、それが全部ひっくり返っちゃうくらいの悪いことが起きるんだって思って」
「それで俺がどっか行くって?」
リンウェルは小さく俯いた。あまり考えたくはないことだが、ロウが離れていってしまうことは今自分の中で考えうる最悪の不幸だと思った。
「どこも行かねえよ。そんな予定もねえし」
ロウはごく軽い調子で言った。笑い、半分くらいは呆れているのかもしれないが、その口調はどこか柔らかくもある。
「考えすぎなんだよ。本落としたくらいで」
その言葉にロウをじろりとにらみつければ、ロウは慌てて口を閉じた。
「き、気のせいだったんじゃねえのか。嫌な予感ってやつは」
「そう、なのかな」
「あるいは俺が全部書き換えちまったのかもな!」
書き換える。確かにそうかもしれない。幸運に恵まれていた時は全部、ロウが隣にいた時だ。
「でもなんで全部ひっくり返るほどの悪いことが、俺がいなくなることなんだ?」
え、と小さく声が出る。たちまちリンウェルの頬に熱がこもっていく。
「もしかしてお前……」
どきりと心臓が跳ねる。
「俺に頼みたいことでもあったんだろ?」
それなら早く言えよ、と笑うロウは、本当に何にも気が付いていないようだ。それは不運か、はたまた幸運か。
あるいはそのどちらもロウには関係ないのかもしれない。
ロウは「書き換えられる」。ロウの笑っている顔を見ていると、分厚い雨雲だって遠くに飛んで行ってしまいそうな気がした。
終わり