「ロウくんって、優しいよね」
ある日、友人の一人からそんなことを言われた。
なんでも先日、街で重たい荷物を抱えている時にロウがそれを運ぶのを手伝ってくれたらしい。古書が山ほど載った荷車をずるずる引いていると、突然ロウの方から声を掛けてきたのだとか。
「俺で良けりゃ手伝うって言って、代わってくれたの。急いでたから助かっちゃった」
ロウは目的地に着くと、礼は要らないと言って笑ったらしい。
「リンウェルの友達ならなおさらだろって。私のこと覚えてるんだって、驚いたよ」
その場でも言ったんだけど、改めてリンウェルからも伝えてくれる? あの時は助かりました、ありがとうございましたって。
友人からの頼みに頷いて宮殿を出ると、私はそのまま帰路についた。
道中、ふと考える。
ロウは優しい。親切だ。友人だったり、旅先で知り合った人だったり、ロウをなんとなく知っている人は皆そう言う。
確かにそれは否定しない。けれど、私の知っているロウはもうちょっとこう、なんというか、違うところもある。
それは決して、ロウは本当は意地悪だとか腹黒いことを考えているとか、そういうことではない。そういうことではないけれど、ロウが皆には見せないもう一つの顔があることを私は知っている。
後日、部屋のドアが乱暴に叩かれる音がして、私は目を覚ました。
「おーいリンウェルー。いるかー」
その声を聴いて反射的に「まずい」と思ったけれど、時すでに遅し。こちらに呆れた視線を送りつつ、フルルがその鍵を開けてしまった。
入るぞ、と言ってドアを開けたロウは、起き抜け、かつ机に居座る私の姿を見て目を見開いた。そして大きなため息を一つ。
「……またかよ」
シャッという鋭い音とともに開け放たれたカーテンは遮っていた光を一気に取り込み、まだ半開きの私の眼をこれでもかと灼いた。
「ちょっと~……まぶしいよ~……」
「何言ってんだ、もう朝だぞ。つーかいつからそこにいるんだよ」
昨日の夜から、なんて言うまでもない。夜更かしに夜更かしを重ねた結果、私は机の上で一晩を明かしてしまったのだ。
「これで何回目だ? メシは? さては昨日から何も食ってないとか言うんじゃねえだろうな」
「そんなことないもん。ちゃんと食べたよ」
私は口をへの字に曲げて答えた。新しく見つけた文献に夢中で夕飯をバナナ一本で済ませたことが果たして「ちゃんと」に該当するのかはともかく。
「ったく、お前は毎回そうだよな。俺が来るたびまともな生活してたことあったか?」
「もう、余計なお世話。ロウがいない時はもっとしっかりやってるんだから」
たまたまだよと言って私は椅子から立ち上がると、そのまま洗面台の方へと向かう。その間もロウはこれ見よがしにフルルのご飯を用意したり部屋の片付けを始めたりするものだから、それを見てまた私はむっとしてしまうのだった。
ロウはいつもこうだ。部屋に突然訪ねてきたかと思うと、私の生活にあれやこれやと口を出してくる。やれちゃんとメシは食えだの、寝る時はベッドに行けだの、まるで私の保護者にでもなったかのように口うるさくする。
もう何度同じ文句を聞いただろう。ロウは飽きもせず口を酸っぱくして私に〈普通〉の生活をしろと言ってくる。これが私の〈普通〉であることにいつになったら気付いてくれるのか。
ロウは優しいし、親切かもしれない。だけど私にはこうして小言を垂れるし、不機嫌そうにため息を吐くこともある。つまり親切なロウは、あくまで外の顔に過ぎないのだ。
顔を洗って部屋に戻ると、ロウがちょうどグラスにミルクを注いでいるところだった。また勝手に保存庫開けて! と文句を言おうとして、テーブルに並べられた紙袋を見て思いとどまる。
「これ、ロウが買ってきたの?」
そう訊ねると、ロウは「おう」と頷いた。
「そこのパン屋、開いたばっかだったんだよ。朝メシにちょうどいいかと思って」
袋の中には美味しそうなパンがいくつも入っていた。クリームパンにメロンパン。タマゴサンドにハムとレタスのサンド。甘いものからそうでないものまで種類は様々だ。
その中の一つに、さらに白い箱が入っているものがあった。それを何の気なしに開けてみて、私は思わず声を上げた。
「これ! フルーツサンド!」
「お前好きだって言ってただろ。ほかの客がどんどん買ってくから、俺の前でなくなるんじゃねえかって焦ったぜ」
フルーツサンド、とりわけあの店のものはヴィスキントでも人気がある。可愛らしい見た目も相まって、店頭に並んだ瞬間すぐに売り切れてしまうと有名だった。
「ありがとう! なかなか買えないから嬉しい!」
「お、おう。そんだけ喜ばれると並んだかいがあったな」
少し照れくさそうに頭を掻くと、ロウは小さく笑った。続いてテーブルに着いて袋の中を覗き込み、きょろきょろと視線を動かす。はじめにどれを食べようか迷っているようだ。
私は(もちろん)フルーツサンド、ロウはタマゴサンドを手にすると、二人で「いただきます」と声を合わせた。口にしたフルーツサンドは甘みと酸味がいっぱいに広がって、とても美味しかった。ロウには一口分あげて、残りは全部自分で食べたけれど、もう2つくらいならぺろりと食べられそうだ。
「そういえば、」
2つ目に選んだクリームパンを頬張りながら、私はふと思い出したことを口にした。
「友達がロウにお礼言ってたよ。街で荷物運び手伝ったんだって? 急いでたから助かったって」
それを聞いてロウは少し考える素振りを見せた後、「ああ、あれか!」と思い出したような顔をした。
「荷車のやつな。すげえふらついてたから、代わるって言ったんだよ。顔見たらどっかで見たことあるなって思って、ああそういや〈図書の間〉で挨拶したなって」
「それにも驚いてた。まさか覚えてるとは思わなかったみたい」
それも仕方ない。だって彼女がロウと顔を合わせたのはほんの1、2回なのだ。会話だって軽く挨拶を交わしただけで長く話し込んだわけではないから、ここはロウの記憶力が予想を超えたということだろう。
「最近は仕事でいろんな奴と知り合うようになってきたからな。顔は広い方がいいだろ? できるだけ覚えるようにしてんだ」
ロウはそう言って胸を張った。なるほど、人脈作りの一環か。ロウにしては先を見据えた良い考えだと思う。それが努力でどうにかなるものかどうかは別として。
「でもそうやって喜ばれると、こっちとしても嬉しいよな。いやあ、いいことしたぜ」
良かった良かったと言って、ロウは3つ目のパンを手に取った。そうしてまた口を開いたと思うと、今度は最近の出来事やカラグリアの復興事情を話しだす。なんでもない話題が一つ、流れていったかのように。
それほどロウにとって人に親切にするということは当たり前のことなのだった。困っている人がいたら助ける。見返りはあれば嬉しいけれど、強く願うこともない。感謝されればそれだけで充分。
それを何度も何度も繰り返して、ロウはこの街で親切な人として名を馳せつつある。名を馳せるといっても、私の友人たちなど身近な人の間でだけれど。
友人たちだけじゃない。私だって本当は気付いている。ロウの私に対する小言も、根本を辿れば結局その優しさにたどり着くのだと。
ロウが私の生活に口を出してくるのは決して嫌がらせなんかじゃない。日ごろの恨みをぶつけているとかそんなのじゃなくて、ただ私のことが心配で口うるさくなっているだけなのだ。
そんなこと、はじめから分かっていた。分かっていたからこそなんだか照れくさくて、ありがとうと言えないでいた。
だって仕方ない。私は素直じゃない。ロウの前では特に。
でも今日は、今日だけはちょっと勇気を出してみようと思う。ロウが優しいと再確認できたから。それを認めることができたから。
ロウが、私の好きなフルーツサンドを買ってきてくれたから。
「あのね、ロウ」
思い切って口にした声は、思いのほか小さなものになってしまった。
「きょ、今日はありがとう。フルーツサンド、美味しかった」
「おう……」
急にどうした、といった表情で、ロウは頷いた。
私はやっとのことで顔を上げると、ロウの顔を正面から見つめて言った。
「それとね、いつもありがとう。私のこと心配してくれて。今度はもうちょっと気を付けるから、夜更かしもご飯も。……だから、その、」
一瞬言い淀んで、私は続ける。
「また、うちに来てね。いつでも待ってるから」
私がそう言うと、ロウは少し目を泳がせた後で、
「……あ、当たり前だろ。俺が確認しに来てやんねえと、いつぶっ倒れてるかも分かんねえからな」と言った。
「さすがにそれはないと思うけど。フルルもいるんだし」
「……フル」
さてどうだろうね、とまた訝しげな視線を寄越してフルルが小さく肩をすくめる。まったく、最近のフルルは一体どっちの味方なのか分からない。二人に心配されるなんて、私の生活はそこまでひどいものなのだろうか。
そこでふと思った。ロウはほかの人の生活にもこうして口を出すことがあるのだろうか。私以外の誰かを気にかけることがあるのだろうか。
私は少し迷って、
「ロウってほかに……私以外の人にこうすることあるの?」と訊ねた。
「こうって?」
「ちゃんとメシ食えーとか、夜更かしすんなーとか、いろいろ言うじゃない。ほかの人にもそういうこと言ってるのかと思って」
するとロウは呆れたように笑いながら、
「まさか、そんなわけねえだろ。お前以外にこんな生活してるやついるわけ――」
そこまで言って、突然声色を変えた。
「いや、いるな」
「えっ」
「そういやあいつも毎日夜更かしばっかでメシもよく抜くし、何回言っても直らねえんだよな」
あいつ? 毎日? 何回言っても?
そんな近しい存在がいたの? ――私以外に?
「そ、それって、私の知ってる人?」
思わず声が震えたけれど、聞かずにはいられなかった。ロウのことで私が知らないことがあるなんて、そんなの耐えられそうにない。
私の問いに、ロウは明るく頷いた。
「ああ、知ってるも何も話したこともあるだろ?」
「……え?」
「ネアズだよ。あいつ、仕事が忙しいっつって全然部屋から出てこないこともあるんだぜ。俺とガナルで何度メシ屋に引っ張ってったかもう数えきれねえよ」
組織の頭が何やってんだって話だよな、とロウは呆れ半分で笑った。
「~~~~っ! ロウのバカ!」
「えっ、なんだよ。急にどうした」
「もう知らない!」
私は手にしていた残りのパンを口の中に押し込んで、それをミルクで押し流してやった。まったく、ヒヤヒヤさせないでほしい。ロウのくせに。
鼻を鳴らしながら、同時に私はほっと胸を撫で下ろしてもいた。
ロウが優しいのは変わらない。私にも、皆にも。
だからロウがほかの人に優しくするのはちっとも気にならない。ロウにとってそれは当たり前のことだし、むしろ優しくないロウなんてそんなのロウじゃない。泣いている子供に声を掛けずに素通りするロウなんて見たくない。
でも、もし、ロウが私以外の誰かを叱ったり健康を気にかけたりするようなことがあるのなら、それにはなんとなくもやもやしてしまう。
だってそれは私だけの特権なのだ。ロウがそういうことをするのは、そういう顔をすることもあると知っているのは、世界でただ一人、私だけでいい。
終わり