双世界狼梟目撃談③
宿屋という客商売をやっている以上、客をもてなし、いかに気持ちよく滞在してもらえるかってのは何よりも重視すべき点だ。
だから客に何か頼み事をするってえのは根本からして間違っちゃいるんだが、あいつ――ロウの場合は少し違うんだ。
ロウとの付き合いはそれなりに長い。あいつが〈紅の鴉〉に入ってからすぐのことだから、もう数年になる。まあ、「金がない」が口癖みたいなあいつがこの安宿を拠点にするのは必然だったかもしれないな。
ヴィスキントの中でも外れた路地にあるこの宿はなかなか人目にはつきにくい。だからといって品質が悪いとは思っちゃいない。金額の割には充分な設備を整えている自負はある。
ロウの奴はどこから聞いてきたのか、大通りにあるような立派な宿でなく、この宿を使うようになった。あの英雄様御一行のお仲間が、だぞ。初めてロウを見た時は(本当にこんなヒョロヒョロのガキが?)とも思ったが、街での仕事ついでにあらゆる依頼をこなして回っていると聞けば嫌でも信じざるを得なくなった。
何よりあいつは人懐っこく、人当たりが良かった。俺がほんの冗談交じりに「こいつを市場の奴に届けてきてくれる奴はいねえかな」などと言ってみたところ、ロウはその場ですぐさま手を挙げ、風を切る矢のごとく依頼を終わらせてしまった。本当にあっという間の出来事だったよ。
恐る恐る報酬について聞けば「そんなのは必要ない」などと言う。
「困ってたんならお互い様だろ。別に市場なんてすぐそこだしよ、ついでに薬の買い出しもできてラッキーだったぜ」
なんと、あの時間で買い出しまでしてきたのか。と、驚くのはそこではない。
なんて人が良い奴なんだ。良すぎて、これからの行く先が恐ろしい。すぐ人に騙されるぞ、こいつ。
気が付けば俺はロウを気にかけ、声まで掛けるようになっていた。常連曰く強面でなかなかとっつきづらいと言われる俺が、自分からロウに気を回すようになっていたのだ。
そうは言うものの、話題がなければ話しかけることもしづらい。思いついた先の苦肉の策がロウに依頼を出すことだった。内容は荷物を市場から運んできてほしいとか、書類を送り届けてほしいとか、そんな類のものばかりだ。普段はズーグルを倒してばかりだという身分にはなんともつまらないものだろうが、それでもロウは文句ひとつ言わずに黙々とこなしてくれた。
「あんたからの依頼は気楽でいいぜ。ケガとかする危険もねえし」
そんなふうに言ってはけらけら笑うロウはやっぱり人が良い。報酬は要らないと言われるがそういうわけにもいかず、ロウには宿賃をまけてやることで納得してもらっている。本当ならば食事を豪華にしてやったり、サービスを良くしてやるべきなんだろうが、ここも零細経営でなかなか心苦しいというのが本音だ。
いつかロウには本気で恩返ししねえとな、と思っていたある日のことだ。ロウがいつにもまして上機嫌で宿を出て行くのが見えた。
心なしか髪型もいつもより気合が入っていた。とはいえそれはほんの些細な違いだから、俺ぐらいロウと顔を合わせていないと気が付かないだろう。
その日は午前はよく晴れていたが、午後から雲行きが怪しくなってきていた。あっという間に空を覆った雲は、まもなくシャワーのような雨を降らせ始めた。
とうとうきたか、と窓からその様子を眺めていると、通りの向こうから見慣れた人影が走ってくるのが見えた。
ロウだった。その後ろにはもう一人、青い服を着た女の子が付き従っていた。
二人はどうやら街を歩いている途中で雨に降られてしまったらしい。急遽雨宿りを、ということでこの宿の軒下を使いに来たらしかった。
雨の勢いはそれほどでもなかったが、まだ雲は消えていなかった。長雨になったら良くないと思い、俺はとりあえず棚から大きめのタオル2枚を用意すると、ガラス窓をコンコンと軽く叩いた。
ロウはすぐに気付いた。ドアを開けて入ってきたロウに、タオルを手渡す。
「濡れただろ、これ使え。風邪でも引いたら大変だ」
「けど……」
どこか遠慮がちなロウに「いいから」と半ば強引にそれを押し付けながら、ふと視界の端に映ったものに気が付いた。
「それと、それも持ってけ」
指さしたのは、一本の傘だった。いつか自分で買ったか、あるいは客の誰かが忘れていったか。それすらも思い出せない傘だ。
それでも使えないということはないだろう。開いてみれば、中身はまだ新品のように新しかった。
「見映えは良くないかもしれないが、雨避けには充分だろう」
俺の言葉にロウは照れくさそうに笑うと、「ありがとな」と言って再び外に出て行った。
しばらくして窓の外に目を向けると、ロウが傘の下に女の子を入れ、いまだ降りしきる雨の中を通りの向こうへと歩いていくのが見えた。あいつのトレードマークの狼は不自然に傘からはみ出し、透明な水滴を被っている。おいおい、そんなんじゃお前が濡れちまうだろうが。もっと身を寄せて歩け。もちろんそんな俺の心の声はロウには届かない。
結局ロウは角を曲がるまで、肩を濡らしたまま歩いていった。そんな小さい傘でもなかったろうに、これであいつが本当に風邪でも引いたら目も当てられない。
思わずこみ上げてきた笑みで一人笑いしてしまう。どうにも、年頃のあいつらしい不器用さだなと思った。
それでも、ひとつ手助けはできただろうか。もちろんすべて返せたとは思っちゃいないので、残りの恩返しはこれからぼちぼちやらせてもらうことにする。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
宿屋という客商売をやっている以上、客をもてなし、いかに気持ちよく滞在してもらえるかってのは何よりも重視すべき点だ。
だから客に何か頼み事をするってえのは根本からして間違っちゃいるんだが、あいつ――ロウの場合は少し違うんだ。
ロウとの付き合いはそれなりに長い。あいつが〈紅の鴉〉に入ってからすぐのことだから、もう数年になる。まあ、「金がない」が口癖みたいなあいつがこの安宿を拠点にするのは必然だったかもしれないな。
ヴィスキントの中でも外れた路地にあるこの宿はなかなか人目にはつきにくい。だからといって品質が悪いとは思っちゃいない。金額の割には充分な設備を整えている自負はある。
ロウの奴はどこから聞いてきたのか、大通りにあるような立派な宿でなく、この宿を使うようになった。あの英雄様御一行のお仲間が、だぞ。初めてロウを見た時は(本当にこんなヒョロヒョロのガキが?)とも思ったが、街での仕事ついでにあらゆる依頼をこなして回っていると聞けば嫌でも信じざるを得なくなった。
何よりあいつは人懐っこく、人当たりが良かった。俺がほんの冗談交じりに「こいつを市場の奴に届けてきてくれる奴はいねえかな」などと言ってみたところ、ロウはその場ですぐさま手を挙げ、風を切る矢のごとく依頼を終わらせてしまった。本当にあっという間の出来事だったよ。
恐る恐る報酬について聞けば「そんなのは必要ない」などと言う。
「困ってたんならお互い様だろ。別に市場なんてすぐそこだしよ、ついでに薬の買い出しもできてラッキーだったぜ」
なんと、あの時間で買い出しまでしてきたのか。と、驚くのはそこではない。
なんて人が良い奴なんだ。良すぎて、これからの行く先が恐ろしい。すぐ人に騙されるぞ、こいつ。
気が付けば俺はロウを気にかけ、声まで掛けるようになっていた。常連曰く強面でなかなかとっつきづらいと言われる俺が、自分からロウに気を回すようになっていたのだ。
そうは言うものの、話題がなければ話しかけることもしづらい。思いついた先の苦肉の策がロウに依頼を出すことだった。内容は荷物を市場から運んできてほしいとか、書類を送り届けてほしいとか、そんな類のものばかりだ。普段はズーグルを倒してばかりだという身分にはなんともつまらないものだろうが、それでもロウは文句ひとつ言わずに黙々とこなしてくれた。
「あんたからの依頼は気楽でいいぜ。ケガとかする危険もねえし」
そんなふうに言ってはけらけら笑うロウはやっぱり人が良い。報酬は要らないと言われるがそういうわけにもいかず、ロウには宿賃をまけてやることで納得してもらっている。本当ならば食事を豪華にしてやったり、サービスを良くしてやるべきなんだろうが、ここも零細経営でなかなか心苦しいというのが本音だ。
いつかロウには本気で恩返ししねえとな、と思っていたある日のことだ。ロウがいつにもまして上機嫌で宿を出て行くのが見えた。
心なしか髪型もいつもより気合が入っていた。とはいえそれはほんの些細な違いだから、俺ぐらいロウと顔を合わせていないと気が付かないだろう。
その日は午前はよく晴れていたが、午後から雲行きが怪しくなってきていた。あっという間に空を覆った雲は、まもなくシャワーのような雨を降らせ始めた。
とうとうきたか、と窓からその様子を眺めていると、通りの向こうから見慣れた人影が走ってくるのが見えた。
ロウだった。その後ろにはもう一人、青い服を着た女の子が付き従っていた。
二人はどうやら街を歩いている途中で雨に降られてしまったらしい。急遽雨宿りを、ということでこの宿の軒下を使いに来たらしかった。
雨の勢いはそれほどでもなかったが、まだ雲は消えていなかった。長雨になったら良くないと思い、俺はとりあえず棚から大きめのタオル2枚を用意すると、ガラス窓をコンコンと軽く叩いた。
ロウはすぐに気付いた。ドアを開けて入ってきたロウに、タオルを手渡す。
「濡れただろ、これ使え。風邪でも引いたら大変だ」
「けど……」
どこか遠慮がちなロウに「いいから」と半ば強引にそれを押し付けながら、ふと視界の端に映ったものに気が付いた。
「それと、それも持ってけ」
指さしたのは、一本の傘だった。いつか自分で買ったか、あるいは客の誰かが忘れていったか。それすらも思い出せない傘だ。
それでも使えないということはないだろう。開いてみれば、中身はまだ新品のように新しかった。
「見映えは良くないかもしれないが、雨避けには充分だろう」
俺の言葉にロウは照れくさそうに笑うと、「ありがとな」と言って再び外に出て行った。
しばらくして窓の外に目を向けると、ロウが傘の下に女の子を入れ、いまだ降りしきる雨の中を通りの向こうへと歩いていくのが見えた。あいつのトレードマークの狼は不自然に傘からはみ出し、透明な水滴を被っている。おいおい、そんなんじゃお前が濡れちまうだろうが。もっと身を寄せて歩け。もちろんそんな俺の心の声はロウには届かない。
結局ロウは角を曲がるまで、肩を濡らしたまま歩いていった。そんな小さい傘でもなかったろうに、これであいつが本当に風邪でも引いたら目も当てられない。
思わずこみ上げてきた笑みで一人笑いしてしまう。どうにも、年頃のあいつらしい不器用さだなと思った。
それでも、ひとつ手助けはできただろうか。もちろんすべて返せたとは思っちゃいないので、残りの恩返しはこれからぼちぼちやらせてもらうことにする。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
双世界狼梟目撃談②
職業柄、お客さんの顔を覚えるのは得意なの。常連さんには「いつもありがとうございます」ってお礼が言いたいじゃない?
でも、その子はこの辺ではあまり見慣れない格好をしているから、2、3回店に来ただけで覚えちゃったわ。おまけに後ろのフードからいつも可愛いフクロウちゃんが覗いているんだもの。印象に残るのは当たり前よね。
ある時、彼女が男の子を連れて店に来たの。
「いい匂いがするでしょ? 私のお気に入りのパン屋さんなんだ」って言って、二人でパンをいくつか買って帰っていったわ。男の子の好みが偏っているからか、彼女が注意していることもあったわね。それくらい二人の間は近しくて、気軽なものだったようね。
そういった光景を何度か見かけてしばらくした時、彼女が一人で店に飛び込んできたことがあったのよ。
急に雨が降り出したわけでもないの。ただ、ちょっと焦った様子で店に駆けこんできた彼女は少し息を切らしていたわ。
まさか悪漢に追われているのかとも思ったけれど、違ったみたい。彼女は店の外の様子を窺いながら、何かに悩んでいるみたいだった。何度も何度もガラス窓から外を気にして、それでいて一歩踏み出せないでいるみたいだった。
どうしたのかしら、と様子を窺っていたんだけれど、彼女は少し考えてからパンを選んで買っていったわ。うちでも売れ筋のパンを2つ。
それを見て、わたしは納得したの。それからそのパンを丁寧に包んで、「いつもありがとうね」と声を掛けたの。
彼女は少し照れくさそうに笑って、ぺこっと頭を下げていったわ。フードの中にいたフクロウちゃんも、嬉しそうに目を細めていた。
あのパンはきっと仲直りのパンだったんじゃないかしら。男の子と二人で食べるために買ったパン。
彼女が買っていったのは、いつも彼女が好んで食べるような甘いパンじゃなくて、男の子の好きな大きなソーセージが乗ったパンだったから。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
職業柄、お客さんの顔を覚えるのは得意なの。常連さんには「いつもありがとうございます」ってお礼が言いたいじゃない?
でも、その子はこの辺ではあまり見慣れない格好をしているから、2、3回店に来ただけで覚えちゃったわ。おまけに後ろのフードからいつも可愛いフクロウちゃんが覗いているんだもの。印象に残るのは当たり前よね。
ある時、彼女が男の子を連れて店に来たの。
「いい匂いがするでしょ? 私のお気に入りのパン屋さんなんだ」って言って、二人でパンをいくつか買って帰っていったわ。男の子の好みが偏っているからか、彼女が注意していることもあったわね。それくらい二人の間は近しくて、気軽なものだったようね。
そういった光景を何度か見かけてしばらくした時、彼女が一人で店に飛び込んできたことがあったのよ。
急に雨が降り出したわけでもないの。ただ、ちょっと焦った様子で店に駆けこんできた彼女は少し息を切らしていたわ。
まさか悪漢に追われているのかとも思ったけれど、違ったみたい。彼女は店の外の様子を窺いながら、何かに悩んでいるみたいだった。何度も何度もガラス窓から外を気にして、それでいて一歩踏み出せないでいるみたいだった。
どうしたのかしら、と様子を窺っていたんだけれど、彼女は少し考えてからパンを選んで買っていったわ。うちでも売れ筋のパンを2つ。
それを見て、わたしは納得したの。それからそのパンを丁寧に包んで、「いつもありがとうね」と声を掛けたの。
彼女は少し照れくさそうに笑って、ぺこっと頭を下げていったわ。フードの中にいたフクロウちゃんも、嬉しそうに目を細めていた。
あのパンはきっと仲直りのパンだったんじゃないかしら。男の子と二人で食べるために買ったパン。
彼女が買っていったのは、いつも彼女が好んで食べるような甘いパンじゃなくて、男の子の好きな大きなソーセージが乗ったパンだったから。
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#モブ視点 #ロウリン
双世界狼梟目撃談①
まさかこんなところに天使がいるなんて。
だってあのダナだぞ。野蛮で下劣な民族が住んでいるともっぱら噂のこの地に、こんな美しい子がいるとは思わなかった。
まあ確かに、ダナとはいえこのヴィスキントの街並みは素晴らしい。聞けばここを統治していたのはあのイルルケリス家のテュオハリム様だというのだから納得した。彼は力があるだけでなくこういったセンスもしっかり持ち合わせているのだ。
きらびやかな宮殿も気に入った。中に多くのダナ人がいるのには驚いたが、これも寛大なテュオハリム様の方策だろう。
廊下の装飾や整えられた中庭も実に美しい。え? ダナ人が管理している? ま、まあダナ人にもレナの美的感覚が伝わっているのだと思えばそれも悪くない。どうかこのまま精進してほしい。
そうして興味本位で訪れた図書の間で、僕は運命の出会いを果たした。
その辺の書架を覗きながら、ふらりと部屋を巡っている時だった。
「何か探し物?」
「え……」
話しかけてきたのは、世にも珍しい衣服をまとった少女だった。
いや、少女というのは些か失礼か。おそらく年齢は僕より少し下くらいで、首元の大きなフードからは大きな目をくりくりさせた真っ白なフクロウがこちらを覗いていた。
「い、いや、別にそういうわけじゃ」
「そんな身構えなくてもいいよ。ただ、あなたが少し困ってるように見えたから」
そんなことを言われ、僕は純粋に驚いた。そんなつもりはなかったが、どうやら自分は周りからそういうふうに見えていたらしい。
とはいえダナ人の言うことだ。ここで「構わなくていい」と跳ねのけてしまうこともできたはずなのに、どうしてか僕は彼女の言うことを素直に聞き入れてしまっていた。
「探し物があるなら手伝うよ」
「探し物というほどでもないが……なら、レナの歴史関係の本があれば紹介してほしい」
「歴史! あなたも歴史が好きなの? 私もそうなんだ。っていっても、私が読むのはダナのものばかりなんだけど」
照れくさそうに彼女は笑い、目的の書架まで案内してくれた。
それだけじゃない。彼女はここのルールや使い方についても詳しく説明してくれた。僕は再び驚いた。ここへ来てこんなに親切にされたのは初めてだった。
「あ、ありがとう」と言うと、彼女はにっこり笑って、
「どういたしまして」
と言った。その笑顔の眩しさと言ったら。その日から彼女は僕の天使となったのだ。
それからは足しげく図書の間へ通った。もちろん本を読みたいのもそうだが、目的の半分、いや8割は彼女に会うためだった。
僕が訪れると、彼女もまた必ず図書の間に居た。どうやら本当に本が好きらしく、いつも分厚い本を立ったまま長時間眺めていたり、それらを何冊も借りていったりする姿も見受けられた。
それでいてほかの人への親切は忘れない。困っている人を見つけると真っ先に声を掛け、一緒に本を探したり、司書に手助けを求めたりしていた。あの親切は自分だけに向けられたものでないと知った時は少しショックだったが、それでこそ僕が見初めた天使というもの。心根の優しさこそが天使たる所以なのだ。
彼女をどこかへ誘い出したい気持ちはあったが、なかなか声は掛けられなかった。別に勇気がなかったとかそういうわけじゃない。ただ彼女が本に夢中になっているのを邪魔したくなかっただけだ。
こういう時、紳士は実に損をするなあと思う。育ちが良いばっかりに、相手の気持ちを思いやって、なかなか行動できないなんて。
それなのに最近、彼女に気安く声を掛ける男を目撃した。妙な服を着て、妙な髪形をした男だ。
肩には何故か銀の狼が乗っていた。その狼のつくりがやたらと精巧だったことははっきり覚えている。
奴は彼女が懸命に本を読んでいるのもお構いなしで声を掛けていた。何やってるんだ、彼女の邪魔だろうが。
しかし彼女の方も特に気に留めず、奴の声掛けに返答していた。それも大変可愛らしい笑顔で。それで二人はどうやら旧知の仲らしいということを知った。
誰なんだあいつは。もやもやとしたものが胸に渦巻く。
見るからにあの男は本や知識とは無縁だろう。無駄とも言えるほど鍛え上げられた腕がそれを示している。
それにあの格好。なんて野蛮な。あんな洗練されていない男は彼女には不釣り合いだ。知識欲も高く、女性の喜ぶものを多く知っている僕の方が彼女にふさわしい。絶対に今度こそは彼女を食事に誘ってみせる。
そう心に固く決めたはずなのに、事件は起きた。
街でたまたま彼女を見かけた時だ。思い切って声を掛けようとして、彼女が誰かに手を振ったのがわかった。その視線の先にいたのはなんと、例の狼の男だった。
二人は既にそういう関係だったのか!? いやいや、まだわからない。まだ希望はあるはずだ。僕はその希望を見出すため、二人を尾行することに決めた。
彼女と狼の男は並んで市場に入っていった。と思うとあちこちで買い物をはじめ、その荷物は狼の男に預けられていく。
「お砂糖も多めにもらおうかな。何せ今日は荷物持ちがいるから」
「げえっ、まだ買うのかよ」
「まいど! 兄さん、頑張んなよ!」
仕方ねえな、と男は呆れた様子を見せつつも、その荷物を軽々と持ち上げていく。くっ、なるほど、その筋肉はこういう時のためのものだったのか。自分では到底達成できないものを見せつけられたような気がして、どうにも悔しくなった。
その後も二人は日用品を買ったり、食材を買ったりしていた。屋台で買ったアイスクリームを食べる彼女の表情はそのアイスくらいに甘くとろけそうで思わず目を奪われたが、狼の男といえば、また能天気に相槌を打ってはあちこちを眺めるだけだった。せっかく彼女が話しているというのに、どこまで失礼な奴なんだ。
路地に入ろうというところで、男は何かを思い出したようにはっとした様子を見せた。そして彼女に何か声を掛けると、申し訳なさそうに手を合わせる。何か用事を思い出したらしく、どうやら今日はここで解散のようだ。
彼女も仕方なさそうに頷き、男から荷物を受け取った。少し重たそうにはしていたが、それをひょいと持ち上げる。彼女もそれなりに力があるらしい。
そうして男の後ろ姿を見送った彼女の表情を見て、思わず言葉を失った。
同時に絶望した。絶望してしまうくらいにははっきりと、その感情が読み取れた。
まさか、という思いと、やっぱりな、という思い。今日二人の姿を見た時から、いや、図書の間での仲睦まじい様子を見かけた時から薄々気が付いていた。気が付いていて、認めたくなかっただけだ。
彼女を笑わせることなら僕にだってきっとできる。彼女の好きそうな本なら見当がつくし、それを与えることでただ一時喜ばせることはできるだろう。
それでも彼女の心からの笑顔とあの寂しそうな顔は、僕が何かを与えて得られるものではない。
彼女にあんな顔をさせることができるのは――。
「おい」
突然背後から肩を叩かれ驚いた。振り返るとそこにはなんと、あの狼の男が立っているではないか。
「なっ、なん……っ」
「お前だよな、俺たちをこそこそ付けてたの。なんか用か? スリとかそういうふうには見えねえけど」
男は仁王立ちしながらこちらをまじまじと見つめてきた。やっぱりダナの奴らは野蛮だ。初対面の相手にそんな不躾な視線を送って来るとは。
そうはいってもその迫力には気圧されてしまう。「スリなんかするわけない!」と反論してやりたいのに声が出ない。膝は今にもがくがく震え出しそうだ。
「こういうのに慣れてるってわけでもなさそうだな。いったい何が目的だ? 俺はともかく、あいつに悪さしようもんなら……」
男の声がいっそう低く、鋭くなった。そこではっとする。あいつ。
まさかこの男は、ずっと気が付いていたのか? それで彼女が家に戻る前に解散し、僕を追ってきた。
彼女との時間を短くしてまで。ほかならない、彼女の安全のために。――なるほど、完敗だ。
僕は心の中で(お前なんか!)と悪態をつくと、
「す、すみませんでした――!!」
その場に勢いよく手をついて頭を下げたのだった。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
まさかこんなところに天使がいるなんて。
だってあのダナだぞ。野蛮で下劣な民族が住んでいるともっぱら噂のこの地に、こんな美しい子がいるとは思わなかった。
まあ確かに、ダナとはいえこのヴィスキントの街並みは素晴らしい。聞けばここを統治していたのはあのイルルケリス家のテュオハリム様だというのだから納得した。彼は力があるだけでなくこういったセンスもしっかり持ち合わせているのだ。
きらびやかな宮殿も気に入った。中に多くのダナ人がいるのには驚いたが、これも寛大なテュオハリム様の方策だろう。
廊下の装飾や整えられた中庭も実に美しい。え? ダナ人が管理している? ま、まあダナ人にもレナの美的感覚が伝わっているのだと思えばそれも悪くない。どうかこのまま精進してほしい。
そうして興味本位で訪れた図書の間で、僕は運命の出会いを果たした。
その辺の書架を覗きながら、ふらりと部屋を巡っている時だった。
「何か探し物?」
「え……」
話しかけてきたのは、世にも珍しい衣服をまとった少女だった。
いや、少女というのは些か失礼か。おそらく年齢は僕より少し下くらいで、首元の大きなフードからは大きな目をくりくりさせた真っ白なフクロウがこちらを覗いていた。
「い、いや、別にそういうわけじゃ」
「そんな身構えなくてもいいよ。ただ、あなたが少し困ってるように見えたから」
そんなことを言われ、僕は純粋に驚いた。そんなつもりはなかったが、どうやら自分は周りからそういうふうに見えていたらしい。
とはいえダナ人の言うことだ。ここで「構わなくていい」と跳ねのけてしまうこともできたはずなのに、どうしてか僕は彼女の言うことを素直に聞き入れてしまっていた。
「探し物があるなら手伝うよ」
「探し物というほどでもないが……なら、レナの歴史関係の本があれば紹介してほしい」
「歴史! あなたも歴史が好きなの? 私もそうなんだ。っていっても、私が読むのはダナのものばかりなんだけど」
照れくさそうに彼女は笑い、目的の書架まで案内してくれた。
それだけじゃない。彼女はここのルールや使い方についても詳しく説明してくれた。僕は再び驚いた。ここへ来てこんなに親切にされたのは初めてだった。
「あ、ありがとう」と言うと、彼女はにっこり笑って、
「どういたしまして」
と言った。その笑顔の眩しさと言ったら。その日から彼女は僕の天使となったのだ。
それからは足しげく図書の間へ通った。もちろん本を読みたいのもそうだが、目的の半分、いや8割は彼女に会うためだった。
僕が訪れると、彼女もまた必ず図書の間に居た。どうやら本当に本が好きらしく、いつも分厚い本を立ったまま長時間眺めていたり、それらを何冊も借りていったりする姿も見受けられた。
それでいてほかの人への親切は忘れない。困っている人を見つけると真っ先に声を掛け、一緒に本を探したり、司書に手助けを求めたりしていた。あの親切は自分だけに向けられたものでないと知った時は少しショックだったが、それでこそ僕が見初めた天使というもの。心根の優しさこそが天使たる所以なのだ。
彼女をどこかへ誘い出したい気持ちはあったが、なかなか声は掛けられなかった。別に勇気がなかったとかそういうわけじゃない。ただ彼女が本に夢中になっているのを邪魔したくなかっただけだ。
こういう時、紳士は実に損をするなあと思う。育ちが良いばっかりに、相手の気持ちを思いやって、なかなか行動できないなんて。
それなのに最近、彼女に気安く声を掛ける男を目撃した。妙な服を着て、妙な髪形をした男だ。
肩には何故か銀の狼が乗っていた。その狼のつくりがやたらと精巧だったことははっきり覚えている。
奴は彼女が懸命に本を読んでいるのもお構いなしで声を掛けていた。何やってるんだ、彼女の邪魔だろうが。
しかし彼女の方も特に気に留めず、奴の声掛けに返答していた。それも大変可愛らしい笑顔で。それで二人はどうやら旧知の仲らしいということを知った。
誰なんだあいつは。もやもやとしたものが胸に渦巻く。
見るからにあの男は本や知識とは無縁だろう。無駄とも言えるほど鍛え上げられた腕がそれを示している。
それにあの格好。なんて野蛮な。あんな洗練されていない男は彼女には不釣り合いだ。知識欲も高く、女性の喜ぶものを多く知っている僕の方が彼女にふさわしい。絶対に今度こそは彼女を食事に誘ってみせる。
そう心に固く決めたはずなのに、事件は起きた。
街でたまたま彼女を見かけた時だ。思い切って声を掛けようとして、彼女が誰かに手を振ったのがわかった。その視線の先にいたのはなんと、例の狼の男だった。
二人は既にそういう関係だったのか!? いやいや、まだわからない。まだ希望はあるはずだ。僕はその希望を見出すため、二人を尾行することに決めた。
彼女と狼の男は並んで市場に入っていった。と思うとあちこちで買い物をはじめ、その荷物は狼の男に預けられていく。
「お砂糖も多めにもらおうかな。何せ今日は荷物持ちがいるから」
「げえっ、まだ買うのかよ」
「まいど! 兄さん、頑張んなよ!」
仕方ねえな、と男は呆れた様子を見せつつも、その荷物を軽々と持ち上げていく。くっ、なるほど、その筋肉はこういう時のためのものだったのか。自分では到底達成できないものを見せつけられたような気がして、どうにも悔しくなった。
その後も二人は日用品を買ったり、食材を買ったりしていた。屋台で買ったアイスクリームを食べる彼女の表情はそのアイスくらいに甘くとろけそうで思わず目を奪われたが、狼の男といえば、また能天気に相槌を打ってはあちこちを眺めるだけだった。せっかく彼女が話しているというのに、どこまで失礼な奴なんだ。
路地に入ろうというところで、男は何かを思い出したようにはっとした様子を見せた。そして彼女に何か声を掛けると、申し訳なさそうに手を合わせる。何か用事を思い出したらしく、どうやら今日はここで解散のようだ。
彼女も仕方なさそうに頷き、男から荷物を受け取った。少し重たそうにはしていたが、それをひょいと持ち上げる。彼女もそれなりに力があるらしい。
そうして男の後ろ姿を見送った彼女の表情を見て、思わず言葉を失った。
同時に絶望した。絶望してしまうくらいにははっきりと、その感情が読み取れた。
まさか、という思いと、やっぱりな、という思い。今日二人の姿を見た時から、いや、図書の間での仲睦まじい様子を見かけた時から薄々気が付いていた。気が付いていて、認めたくなかっただけだ。
彼女を笑わせることなら僕にだってきっとできる。彼女の好きそうな本なら見当がつくし、それを与えることでただ一時喜ばせることはできるだろう。
それでも彼女の心からの笑顔とあの寂しそうな顔は、僕が何かを与えて得られるものではない。
彼女にあんな顔をさせることができるのは――。
「おい」
突然背後から肩を叩かれ驚いた。振り返るとそこにはなんと、あの狼の男が立っているではないか。
「なっ、なん……っ」
「お前だよな、俺たちをこそこそ付けてたの。なんか用か? スリとかそういうふうには見えねえけど」
男は仁王立ちしながらこちらをまじまじと見つめてきた。やっぱりダナの奴らは野蛮だ。初対面の相手にそんな不躾な視線を送って来るとは。
そうはいってもその迫力には気圧されてしまう。「スリなんかするわけない!」と反論してやりたいのに声が出ない。膝は今にもがくがく震え出しそうだ。
「こういうのに慣れてるってわけでもなさそうだな。いったい何が目的だ? 俺はともかく、あいつに悪さしようもんなら……」
男の声がいっそう低く、鋭くなった。そこではっとする。あいつ。
まさかこの男は、ずっと気が付いていたのか? それで彼女が家に戻る前に解散し、僕を追ってきた。
彼女との時間を短くしてまで。ほかならない、彼女の安全のために。――なるほど、完敗だ。
僕は心の中で(お前なんか!)と悪態をつくと、
「す、すみませんでした――!!」
その場に勢いよく手をついて頭を下げたのだった。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
「誰にも得意分野はあるもんだな」
おれの作った工芸品を見て、地元の奴らはそんなふうに言う。呆れ6割、感心3割の表情で頷き、最後に同情1割の笑みを見せる。
「この熱意がほかにも向けばなあ。引きこもってばっかじゃ、恋人の1人もできないぜ?」
「余計なお世話だ。いいんだよ、おれはこれさえ作っていければ」
「んなこと言ったって、お前のその性格じゃ商売にも向かないだろ? さっきだって、客に声もかけられなかったじゃねえか」
「うぐ……」
口ごもったおれに、友人はまた小さく笑って言った。
「まあ、がんばれよ。今度ヴィスキントに行くんだろ」
強気で行けよな。商売も、それ以外も。記憶の中の友人の言葉に、思わず「わかってるよ」と言い返した。わかっている。本当に頭の中ではわかっているのだ。
でもどうしてか、声はかけられないんだよなあ。
広場のど真ん中でひとりため息を吐く。自作のアクセサリーを並べた露店には、見事に閑古鳥が鳴いていた。
人がいないわけじゃなかった。今朝から店を開けてはいるが、広場の周りを歩く人はそれなりにいるし、ほかの露店にはちらほら客が訪れているようだった。向こうの店の店主は若い男女と談笑し、また違う店では新たな商品を並べる作業に入っている。つまりは、自分の店だけが見向きもされていないのだ。
並んでいるものは悪くないと思うんだけどなあ。念願のヴィスキントに行けると決まってから、気合を入れて製作したアクセサリーたち。いつにも増して輝いて見えるのは、もしかしておれだけなのか。
せめて少しくらい、と思う。「ちょっと見ていきませんか?」の一言くらい、気軽に言えたら良かったのに。こういう商売をしていて客に声もかけられないだなんて、あまりに致命的すぎやしないか。
わかっていても、それが実践できたためしはなかった。さっきも通りがかりに一瞥をくれた女性に何も言えずじまい。女性が店の前を通り過ぎるのをぼうっと眺めていただけで、半開きになった口からは薄く息が漏れるだけだった。
結局、あいつの言う通りか。また小さくため息が零れる。こんなんじゃ商売も上手くいかなければ、恋人ができることもないだろう。挨拶ひとつまともにできないおれが、誰かに気の利いた言葉を吐けるなどとは到底考えられない。いつまでもどこまでもひとりきり、ただモノ作りに励むだけ。
今はそれでもいいかと思った。そう思えるほどには、おれはこの工芸品たちを愛していた。
日も高くなり、午前はこれで終わりかと思っていた時だった。
「わあ、きれい!」
目を輝かせた少女が、ふと露店の商品を覗き込んできた。少女は世にも珍しい装飾の上着を纏い、そのフードには目をまん丸にくりくりさせた白フクロウを連れていた。
「お兄さん。これ、手に取って見てみてもいい?」
「あ、ああ、もちろん」
ありがとう、と口にした少女は、早速並んでいた髪飾りに手を伸ばした。装飾を太陽に透かしたり、手のひらで光を反射させたりしながら、色の変わり具合を楽しんでいた。
「なんだお前、そういうのが好きなのか」
横から現れたのは、目立つ髪色をした青年だった。それよりも目立つ銀色の狼を肩に乗せ、いかにも親しげに少女に話しかける。
「さっきの店にも似たようなの置いてただろ。向こうの方のが宝石もついてて高そうだったし、きれいだったじゃねえか」
「まったく、ロウはわかってないなあ。あっちはきれいだけど、こっちは可愛いの。それに宝石よりガラス細工の方が素朴な感じがして、親しみやすいっていうか」
そこまで言ってからおれと目が合った少女は、はっとしたように口元を押さえた。
「ごめんなさい。別にそういうつもりじゃ」
「いや、気にしなくていい。むしろそう言ってもらった方が、こっちとしても嬉しいよ」
よかった、と少女はほっとしたような顔をしてみせた。安堵しながらも少し照れくさそうに笑った表情が年相応に見えて、とても愛らしい子だなと思った。
続いて少女は装飾のついたバレッタを手に取った。こちらもいろいろな角度に傾けながら、宝石顔負けの輝かしい瞳でそれを見つめている。
「さっきのもいいけど、これも可愛いなあ。あ、でも、これだともう少し髪の長さが必要かも」
うーんと顎に手をやり、数秒考えたところで、少女は背後でぼうっと立ちすくんでいた青年に問いかけた。
「ねえ、ロウ。ロウは、どっちがいいと思う?」
「どっちって?」
「これと、さっきの。さっきのは今も着けられるけど、こっちはもうちょっと髪が長くないと着けられなさそうなんだよね」
少女は自身の前髪を指先で弄りながら言った。
「ロウは髪が長いのと短いの、どっちが好き?」
すると青年は、
「俺にそれを聞いて、お前はどうすんだよ」
と言った。
「え?」
「もし俺が、長いのがいいって言ったら?」
少女は指先に絡まった髪と、手元の髪飾りを交互に見ながら、
「……伸ばそっかな」
と呟いた。
「ふーん。ま、俺はどっちも似合うと思うけどな」
ってことで、両方くれ。青年が髪飾りと紙幣を差し出してきたのを見て、ようやくおれはそれが自分に向けられた言葉だと気が付いた。
「あ、ああ。まいどあり」
摘まみ損ねた釣銭を改めて数え直し、青年の手のひらに乗せる。
一連の流れに少女は呆気に取られていたが、
「ほらよ」
「えっ、ちょ、ちょっと!」
青年から2つの髪飾りを受け取るなり、慌てた様子で青年の後を追って行った。2人の背中はすぐに遠ざかり、通りの向こうへと消えていった。
呆然としながら、おれはやっと肩の力を抜いた。なんだかすごいものを見てしまった、そんな気がした。
世界は広いんだな。あんな若くても、あんな言葉が言えるんだ。
おれはまたヴィスキントに商売しに来ようと思った。懲りずに工芸品を作って、懲りずに売りに来よう。そうしていつかは客に声を掛けられるようになりたいと、強くそう思った。
終わり畳む
※付き合ってない
#ロウリン #モブ視点