習作③
私は夜が好き。
真っ暗な静寂の幕が下りて、街も森も、生きとし生けるものすべてただ星に見守られるだけのこの時間が好きだ。
私が生きる世界には、最初からごく当たり前のように夜しかなかった。だから闇は恐ろしいものじゃなく、ただいつもそこにある空気や水と同じような存在で、時には深い悲しみさえも覆ってくれる頼もしい友人のようでもあった。
むしろ、陽の光の方が苦しく感じられるくらい。心に隠してきた影をはっきりと浮き彫りにしてしまうそれは、暗い闇の中を彷徨い続けてきた私にとってはあまりに眩しすぎるものだった。
「心に染みひとつない奴なんかいない」
この言葉に、私はどれだけ救われただろう。仲間の皆はおろか、自分とさえも向き合えないでいた当時の私に、不意に放たれたこの言葉は大地に吹きすさぶ風のように響いた。同時に自分の心にある何もかもを赦された気がして、すうっと胸が軽くなったのを覚えている。
その言葉を放った張本人といえば、今は私の隣で何やらむにゃむにゃと寝言混じりになっているけれど。休む準備を終えてベッドの上に転がり込んできたのも束の間、ロウはそれから数分も経たないうち、重たい瞼に抗えなくなってしまった。
夢と現実の狭間、いやもうほとんど夢の側に落ちてしまったロウは、穏やかな寝顔を覗かせていた。「眠いの?」「寝るなら毛布被って」という私の問いかけにも「うん……」「そうかもな……」などと曖昧な返事をして、そのくせ身体を持ち上げようとはしない。
まったくもう、ロウってばいつもこうなんだから。私は呆れ半分に息を吐き、まだ読みかけの本をサイドテーブルに置いた。下敷きになっている毛布を無理やり引っ張り上げ、それをロウの体へと被せてやる。イモムシのように丸まった背中と、お風呂上がりで萎れた前髪が、そのあどけない寝顔をどうにも幼くさせていた。
以前、街で女の子たちがロウの話をしているのを聞いたことがある。基本的にロウの周りにいるのは男性ばかりだが、その分け隔てない親切さゆえか、たまに一部の女の子から密かな人気を集めることがあるのだ。
彼女たちはロウの髪をオシャレだと言っていた。
「あの髪って、いつも自分で整えてるのかな」
「変わった色してるよね。ほかじゃなかなか見ないっていうか」
ロウの髪に関しては、私もまあまあオシャレなんじゃないかと思っている。色はともかく、毎朝早起きしてきちんと髪型を整えているのを見ると、健気だなあとまるで親のようなことを思わないでもない。元はモテたかったからなどという何の捻りもない理由がきっかけだったらしいが、私という存在がある現在に至ってもその習慣を続けているのは、もはやそうするのが体に染みついてしまっているからのようだ。
「身だしなみには気を付けねえとな」
そんなことを鼻を鳴らして言うロウだったが、だったら先にその裾のほつれたズボンをなんとかした方がいいと思う。ついでに言えば、今日穿いている靴下に穴が空きかけていることも私はよく知っていた。
まだまだ脇が甘いロウ。格好のつけ切れないロウ。
夜、お風呂から上がってタオルで髪を拭っているロウを見ると、私はいつも口元が緩みそうになる。ふとした視線にロウは「なんだよ」と首を傾げるが、私はううんと首を振ってみせる。「なんでもない」と口にした唇の端が僅かに持ち上がっているのを、開いた本で覆い隠しながら。
優越感とは違う。だって、別にあの女の子たちはロウのこういう姿を見たいわけでもないだろう。
ただ私は嬉しく思うのだ。外で皆のため、世界のために力を尽くすロウ。そして私の部屋で肩の力を抜き、一日を終えようとしているロウ。ロウが昼と夜で異なる顔を持つということを、この世で私だけが知っている。
へたり込んだ前髪はまるで一日中気を張り続けていたロウそのもののようで、朝にはきっちり整えられていたそれも、夜になった途端こんなふうに萎れてしまうのだと思うと可笑しくて堪らなかった。
それくらい毎日頑張っているんだよね。私はその努力を知っている。できることは全力で、できないことにもできないなりに必死になって手足を動かすロウは、きっと少しずつでも世界を動かしている。「自分にそんな力はない」とよく遠慮がちに言うけれど、そんなことはない。そう思っているのはおそらく私だけじゃなく、周りの皆も同じはずだ。
何故なら、世界を動かす人は言葉通りの力を持っているわけじゃなく、世界のために人を動かす力を持っている人のことだと思うから。
今夜のロウの眠りも深いようだ。私がどれだけ近づこうと、頬にかかった前髪を指で払おうと、その瞼はぴくりとも動かない。案の定、頬に唇を触れさせたって、ロウの寝息は規則正しいままだった。普段外で行動している時は、あんなにも周りの気配に敏いのに。
それくらい、安心して眠ってくれているということかな。あるいはただ本当に、身体の芯から疲れ切っているだけかもしれないけれど。
どっちだって良い。ロウが心も体も休められているのなら。それが私の隣でというなら。
私はやっぱり、夜が好きだ。
フルルと本と、そして傍らで眠るロウ。
星が見守る私の世界は、こんなにも満ちている。
明日が来るのが惜しいと思えるくらい、今日が幸福なのだ。
終わり畳む
#ロウリン
私は夜が好き。
真っ暗な静寂の幕が下りて、街も森も、生きとし生けるものすべてただ星に見守られるだけのこの時間が好きだ。
私が生きる世界には、最初からごく当たり前のように夜しかなかった。だから闇は恐ろしいものじゃなく、ただいつもそこにある空気や水と同じような存在で、時には深い悲しみさえも覆ってくれる頼もしい友人のようでもあった。
むしろ、陽の光の方が苦しく感じられるくらい。心に隠してきた影をはっきりと浮き彫りにしてしまうそれは、暗い闇の中を彷徨い続けてきた私にとってはあまりに眩しすぎるものだった。
「心に染みひとつない奴なんかいない」
この言葉に、私はどれだけ救われただろう。仲間の皆はおろか、自分とさえも向き合えないでいた当時の私に、不意に放たれたこの言葉は大地に吹きすさぶ風のように響いた。同時に自分の心にある何もかもを赦された気がして、すうっと胸が軽くなったのを覚えている。
その言葉を放った張本人といえば、今は私の隣で何やらむにゃむにゃと寝言混じりになっているけれど。休む準備を終えてベッドの上に転がり込んできたのも束の間、ロウはそれから数分も経たないうち、重たい瞼に抗えなくなってしまった。
夢と現実の狭間、いやもうほとんど夢の側に落ちてしまったロウは、穏やかな寝顔を覗かせていた。「眠いの?」「寝るなら毛布被って」という私の問いかけにも「うん……」「そうかもな……」などと曖昧な返事をして、そのくせ身体を持ち上げようとはしない。
まったくもう、ロウってばいつもこうなんだから。私は呆れ半分に息を吐き、まだ読みかけの本をサイドテーブルに置いた。下敷きになっている毛布を無理やり引っ張り上げ、それをロウの体へと被せてやる。イモムシのように丸まった背中と、お風呂上がりで萎れた前髪が、そのあどけない寝顔をどうにも幼くさせていた。
以前、街で女の子たちがロウの話をしているのを聞いたことがある。基本的にロウの周りにいるのは男性ばかりだが、その分け隔てない親切さゆえか、たまに一部の女の子から密かな人気を集めることがあるのだ。
彼女たちはロウの髪をオシャレだと言っていた。
「あの髪って、いつも自分で整えてるのかな」
「変わった色してるよね。ほかじゃなかなか見ないっていうか」
ロウの髪に関しては、私もまあまあオシャレなんじゃないかと思っている。色はともかく、毎朝早起きしてきちんと髪型を整えているのを見ると、健気だなあとまるで親のようなことを思わないでもない。元はモテたかったからなどという何の捻りもない理由がきっかけだったらしいが、私という存在がある現在に至ってもその習慣を続けているのは、もはやそうするのが体に染みついてしまっているからのようだ。
「身だしなみには気を付けねえとな」
そんなことを鼻を鳴らして言うロウだったが、だったら先にその裾のほつれたズボンをなんとかした方がいいと思う。ついでに言えば、今日穿いている靴下に穴が空きかけていることも私はよく知っていた。
まだまだ脇が甘いロウ。格好のつけ切れないロウ。
夜、お風呂から上がってタオルで髪を拭っているロウを見ると、私はいつも口元が緩みそうになる。ふとした視線にロウは「なんだよ」と首を傾げるが、私はううんと首を振ってみせる。「なんでもない」と口にした唇の端が僅かに持ち上がっているのを、開いた本で覆い隠しながら。
優越感とは違う。だって、別にあの女の子たちはロウのこういう姿を見たいわけでもないだろう。
ただ私は嬉しく思うのだ。外で皆のため、世界のために力を尽くすロウ。そして私の部屋で肩の力を抜き、一日を終えようとしているロウ。ロウが昼と夜で異なる顔を持つということを、この世で私だけが知っている。
へたり込んだ前髪はまるで一日中気を張り続けていたロウそのもののようで、朝にはきっちり整えられていたそれも、夜になった途端こんなふうに萎れてしまうのだと思うと可笑しくて堪らなかった。
それくらい毎日頑張っているんだよね。私はその努力を知っている。できることは全力で、できないことにもできないなりに必死になって手足を動かすロウは、きっと少しずつでも世界を動かしている。「自分にそんな力はない」とよく遠慮がちに言うけれど、そんなことはない。そう思っているのはおそらく私だけじゃなく、周りの皆も同じはずだ。
何故なら、世界を動かす人は言葉通りの力を持っているわけじゃなく、世界のために人を動かす力を持っている人のことだと思うから。
今夜のロウの眠りも深いようだ。私がどれだけ近づこうと、頬にかかった前髪を指で払おうと、その瞼はぴくりとも動かない。案の定、頬に唇を触れさせたって、ロウの寝息は規則正しいままだった。普段外で行動している時は、あんなにも周りの気配に敏いのに。
それくらい、安心して眠ってくれているということかな。あるいはただ本当に、身体の芯から疲れ切っているだけかもしれないけれど。
どっちだって良い。ロウが心も体も休められているのなら。それが私の隣でというなら。
私はやっぱり、夜が好きだ。
フルルと本と、そして傍らで眠るロウ。
星が見守る私の世界は、こんなにも満ちている。
明日が来るのが惜しいと思えるくらい、今日が幸福なのだ。
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#ロウリン
習作②
どちらかと言えば、朝が好きだ。
確かに、カーテンを突き抜けて目を刺してくる光や、どこかから聞こえてくる甲高い鳥の声には思わず顔をしかめたこともあった。今だってもう少し毛布に包まっていたいと思う日がないわけでもないが、それでもやっぱり身体の重たくなる夜よりはすっきり目覚めて疲れの取れた朝の方が好ましい。
そんなふうに思うのは、もしかしたら幼い頃の習慣によるものかもしれない。朝は新しい1日の始まり。1日の始まりは新しい鍛錬の始まり。親父の振るう拳に憧れ、1日でも早くそれに近づきたかった俺は、朝起きてから夜眠るまでのほとんどの時間を体を鍛えることに費やしていた。本当は眠る暇さえ惜しかったが、それではいけない、成長出来ないと親父に言われ、渋々寝床で目を瞑っていた。とはいえ疲れ切った体が夢に落ちるまでに、そう時間もかからなかったが。
早朝に目を覚ましては日差しを浴びながら親父と一緒に体を動かす。前日に教えてもらったことができていないと容赦なく拳が飛んできた。今思えばなかなかに理不尽かつ厳しい毎日だったが、それでも口元が緩みそうになるのは、決してそれが辛い思い出ではなかったということだ。あのカラグリアの燃える朝日に貫かれながら突き出した拳は、今も確実に自分の中に息づいていた。
そういう意味では、この地――シスロディアの朝はちょっと違うかもしれない。カーテンを開けて射しこんでくる光は、どちらかと言えば、太陽の光が雪に反射したものだ。
その眩しすぎる光に目を焼かれながら、俺は今朝もそっと寝室を抜け出した。洗面台で顔を洗い、用意されている服に着替えを済ませる。
リビングの暖炉の火がくすぶっているのを見て、俺はまたその上に新たな薪を組んで火を点した。たちまち、パチパチという音と共に小さな炎が上がる。真っ赤に染まるそれはかつて故郷で見た太陽の色にも似ている気がした。
暖炉など生まれ故郷ではほとんど馴染みがないものだった。当然使い方も知らなかったが、ここで暮らし始めた時に同居人にみっちり扱かれることになった。
「きちんと覚えてね。本当に命にかかわることだから」
明るい調子で言うものの、それが大げさでないということはすぐにわかった。何せここの寒さは尋常ではない。薪を切らそうものなら部屋どころか、そこで過ごす自分たちまで凍えて動けなくなってしまうだろう。
それでいて手入れにもなかなか手間がかかってしまうのも難点だ。掃除を怠れば逆に煙が充満して、それこそ命が危ないのだという。
なんてものを使わせるんだ、これならレナの技術でなんとかした方がいいんじゃないか、などと思いながら、それでも温かみのある炎にはつい見入ってしまう。暖炉の揺らめく炎の前で本を読むのが好きだというあいつの主張が、ここに住むようになってなんとなくわかった気がした。
点きたての暖炉の火が消えないよう目を配りながら、キッチンで朝食用のパンを切り分けた。コンロで卵とベーコンを端がカリカリになるまで焼き、カットしたトマトや果物を皿に一緒に盛り付ける。
それをテーブルに2人分用意した後で、小皿には専用の餌を入れてやった。ビスケットのような見た目をしたそれは思った以上にカロリーが高いらしく、与える量には気を付けるよう言われていたが、それを口にする本人は皿の中身を覗いてはいつもどこか不満そうにしているのだった。
あとはミルクを温めるだけという段階に来たところで、俺はもう一度寝室に向かった。こんもりと盛り上がった毛布の中。表面を覆うそれを1枚めくり上げれば、いまだすやすやと穏やかな寝息を立てる彼女の寝顔が覗いた。
「リンウェル、朝だぞ」
名前を呼ばれたことに一瞬だけ反応を見せたと思ったのも束の間。リンウェルは眉間の辺りにしわを寄せた後で、またすぐに毛布の中へと引っ込んでいってしまう。
こんな小動物どこかにいたよなと思いつつ、俺はさらにその毛布を剥ぎ取った。たちまち険しい顔をしたリンウェルだったが、その目はまだ開かれない。それと同時に伸びてきた手は普段よりもずっと強い力が込められていて、全力で俺から毛布を奪い返そうとしてくる。
朝のリンウェルはいつもこうだ。拒否、拒絶。絶対にベッドから出てやらないという強い意思を持って、親切にも起こしに来た俺に必死の抵抗を見せる。具合が悪いわけでもなければ、結果として一日中そこに居るわけでもないのに。
「もう5分……」
「んなこと言って、起きたためしねえだろ」
「今日は起きるもん……」
「5分も今も同じだ。なら今起きろ」
それでも俺は根気よく交渉を続ける。時には厳しく毛布を剥ぎ取り、時には優しく声を掛けては、リンウェルが起き上がるのを辛抱強く待ち続ける。
「うー……まだ寒いじゃん……」
「暖炉ならつけたぞ。部屋もあったまってきてる」
「ご飯だって……」
「それももうできた。あとは飲み物だけだ」
望むものはすべて用意してやったというのに、それでもリンウェルは「うーん……」だの「もうちょっと待って……」だの駄々をこねる。今朝はどうやら厄介なパターンに入ったらしい。だったら――。
「なら仕方ないか。俺先食うな。お前の分はちゃんと残しといてやるから、安心しろよ」
その言葉を聞いた途端、
「それは、嫌……」
リンウェルがむくりと起き上がった。
「一緒に食べる……」
半分寝ぼけながらも口はへの字に曲がっていた。と思うと、腕を伸ばして俺の首へと巻き付けてくる。
「……このまま向こうの部屋に連れてって」
無茶言うなあ、と思わず笑った。これではまるで幼子だ。とはいえ俺が子供の時よりも随分と質が悪い気もするが。
こんなこと言うくせに、本当に連れていったら怒るんだよなあ。照れ隠しなのか何なのかは知らないが、運びながら腕やら背中やらを抓られたこともあった。痛くはないが、その後のリンウェルがどうにも不機嫌なので苦労した。
それでもこみ上げてくる気持ちは暖炉に負けず劣らず温かい。俺は首にしがみついたままのリンウェルを一度強く抱き締めると、その額にひとつキスを落とした。
「――!」
たちまちリンウェルの目が見開かれ、その指は戸惑ったように額を撫で始める。どうやらここに来てようやく覚醒したようだ。
「やっと起きたな。早く顔洗って、着替えて来いよ」
「う、うん……」
わかった、と寝室を出たリンウェルの背中を追って、俺も再度キッチンへと向かう。先にテーブルについていたフルルにミルクを出し、自分たちの分をコンロの鍋に掛けた。
いつも通りの朝。明日も繰り返されるであろう朝。
俺はどちらかと言えば、朝が好きだ。
太陽の光が眩しいから。昔のことを思い出せるから。かわいい彼女の無防備な姿を見ることができるから。
大切なものに囲まれて1日を迎えられることがどれだけ幸福か、知ったから。
終わり畳む
#ロウリン
どちらかと言えば、朝が好きだ。
確かに、カーテンを突き抜けて目を刺してくる光や、どこかから聞こえてくる甲高い鳥の声には思わず顔をしかめたこともあった。今だってもう少し毛布に包まっていたいと思う日がないわけでもないが、それでもやっぱり身体の重たくなる夜よりはすっきり目覚めて疲れの取れた朝の方が好ましい。
そんなふうに思うのは、もしかしたら幼い頃の習慣によるものかもしれない。朝は新しい1日の始まり。1日の始まりは新しい鍛錬の始まり。親父の振るう拳に憧れ、1日でも早くそれに近づきたかった俺は、朝起きてから夜眠るまでのほとんどの時間を体を鍛えることに費やしていた。本当は眠る暇さえ惜しかったが、それではいけない、成長出来ないと親父に言われ、渋々寝床で目を瞑っていた。とはいえ疲れ切った体が夢に落ちるまでに、そう時間もかからなかったが。
早朝に目を覚ましては日差しを浴びながら親父と一緒に体を動かす。前日に教えてもらったことができていないと容赦なく拳が飛んできた。今思えばなかなかに理不尽かつ厳しい毎日だったが、それでも口元が緩みそうになるのは、決してそれが辛い思い出ではなかったということだ。あのカラグリアの燃える朝日に貫かれながら突き出した拳は、今も確実に自分の中に息づいていた。
そういう意味では、この地――シスロディアの朝はちょっと違うかもしれない。カーテンを開けて射しこんでくる光は、どちらかと言えば、太陽の光が雪に反射したものだ。
その眩しすぎる光に目を焼かれながら、俺は今朝もそっと寝室を抜け出した。洗面台で顔を洗い、用意されている服に着替えを済ませる。
リビングの暖炉の火がくすぶっているのを見て、俺はまたその上に新たな薪を組んで火を点した。たちまち、パチパチという音と共に小さな炎が上がる。真っ赤に染まるそれはかつて故郷で見た太陽の色にも似ている気がした。
暖炉など生まれ故郷ではほとんど馴染みがないものだった。当然使い方も知らなかったが、ここで暮らし始めた時に同居人にみっちり扱かれることになった。
「きちんと覚えてね。本当に命にかかわることだから」
明るい調子で言うものの、それが大げさでないということはすぐにわかった。何せここの寒さは尋常ではない。薪を切らそうものなら部屋どころか、そこで過ごす自分たちまで凍えて動けなくなってしまうだろう。
それでいて手入れにもなかなか手間がかかってしまうのも難点だ。掃除を怠れば逆に煙が充満して、それこそ命が危ないのだという。
なんてものを使わせるんだ、これならレナの技術でなんとかした方がいいんじゃないか、などと思いながら、それでも温かみのある炎にはつい見入ってしまう。暖炉の揺らめく炎の前で本を読むのが好きだというあいつの主張が、ここに住むようになってなんとなくわかった気がした。
点きたての暖炉の火が消えないよう目を配りながら、キッチンで朝食用のパンを切り分けた。コンロで卵とベーコンを端がカリカリになるまで焼き、カットしたトマトや果物を皿に一緒に盛り付ける。
それをテーブルに2人分用意した後で、小皿には専用の餌を入れてやった。ビスケットのような見た目をしたそれは思った以上にカロリーが高いらしく、与える量には気を付けるよう言われていたが、それを口にする本人は皿の中身を覗いてはいつもどこか不満そうにしているのだった。
あとはミルクを温めるだけという段階に来たところで、俺はもう一度寝室に向かった。こんもりと盛り上がった毛布の中。表面を覆うそれを1枚めくり上げれば、いまだすやすやと穏やかな寝息を立てる彼女の寝顔が覗いた。
「リンウェル、朝だぞ」
名前を呼ばれたことに一瞬だけ反応を見せたと思ったのも束の間。リンウェルは眉間の辺りにしわを寄せた後で、またすぐに毛布の中へと引っ込んでいってしまう。
こんな小動物どこかにいたよなと思いつつ、俺はさらにその毛布を剥ぎ取った。たちまち険しい顔をしたリンウェルだったが、その目はまだ開かれない。それと同時に伸びてきた手は普段よりもずっと強い力が込められていて、全力で俺から毛布を奪い返そうとしてくる。
朝のリンウェルはいつもこうだ。拒否、拒絶。絶対にベッドから出てやらないという強い意思を持って、親切にも起こしに来た俺に必死の抵抗を見せる。具合が悪いわけでもなければ、結果として一日中そこに居るわけでもないのに。
「もう5分……」
「んなこと言って、起きたためしねえだろ」
「今日は起きるもん……」
「5分も今も同じだ。なら今起きろ」
それでも俺は根気よく交渉を続ける。時には厳しく毛布を剥ぎ取り、時には優しく声を掛けては、リンウェルが起き上がるのを辛抱強く待ち続ける。
「うー……まだ寒いじゃん……」
「暖炉ならつけたぞ。部屋もあったまってきてる」
「ご飯だって……」
「それももうできた。あとは飲み物だけだ」
望むものはすべて用意してやったというのに、それでもリンウェルは「うーん……」だの「もうちょっと待って……」だの駄々をこねる。今朝はどうやら厄介なパターンに入ったらしい。だったら――。
「なら仕方ないか。俺先食うな。お前の分はちゃんと残しといてやるから、安心しろよ」
その言葉を聞いた途端、
「それは、嫌……」
リンウェルがむくりと起き上がった。
「一緒に食べる……」
半分寝ぼけながらも口はへの字に曲がっていた。と思うと、腕を伸ばして俺の首へと巻き付けてくる。
「……このまま向こうの部屋に連れてって」
無茶言うなあ、と思わず笑った。これではまるで幼子だ。とはいえ俺が子供の時よりも随分と質が悪い気もするが。
こんなこと言うくせに、本当に連れていったら怒るんだよなあ。照れ隠しなのか何なのかは知らないが、運びながら腕やら背中やらを抓られたこともあった。痛くはないが、その後のリンウェルがどうにも不機嫌なので苦労した。
それでもこみ上げてくる気持ちは暖炉に負けず劣らず温かい。俺は首にしがみついたままのリンウェルを一度強く抱き締めると、その額にひとつキスを落とした。
「――!」
たちまちリンウェルの目が見開かれ、その指は戸惑ったように額を撫で始める。どうやらここに来てようやく覚醒したようだ。
「やっと起きたな。早く顔洗って、着替えて来いよ」
「う、うん……」
わかった、と寝室を出たリンウェルの背中を追って、俺も再度キッチンへと向かう。先にテーブルについていたフルルにミルクを出し、自分たちの分をコンロの鍋に掛けた。
いつも通りの朝。明日も繰り返されるであろう朝。
俺はどちらかと言えば、朝が好きだ。
太陽の光が眩しいから。昔のことを思い出せるから。かわいい彼女の無防備な姿を見ることができるから。
大切なものに囲まれて1日を迎えられることがどれだけ幸福か、知ったから。
終わり畳む
#ロウリン
小ネタ①
初めて手に入れた端末は、最新の機種だった。
努力の末の勝利だった。周りの友人は皆持っているのに自分だけどうして、勉強頑張るからお願い、と両親に必死に頼み込んでようやく了承を得たのだ。
言われた通りの成績を保ち続けること約半年。手のひらサイズのそれへと形を変えた努力の結晶は、今私の手の中で光り輝いていた。
早速連絡先を登録していく。両親の番号とアドレスを打ち込み、次はと考えて思いついたのは、幼馴染のあいつだった。
既に番号は聞いていた。今日両親と一緒に買い物に行くことを伝えた際、すぐに登録できるようメモをもらっていたのだ。
番号を打ち込んでロウの名前を登録する。そういえば、アドレスの方は聞いていなかった。まあいいか、それはまた今度でも。ロウの家は目と鼻の先。アドレスくらい、聞きに行こうと思えばいつでも、すぐにでも会いに行けるのだから。
そこでふとイタズラ心がわいた。今電話を掛けたら、ロウはびっくりするんじゃないか。まさかすぐそばに暮らしている私から突然電話が掛かってくるとは夢にも思うまい。
ついでにこちらの番号も教えられてちょうどいい。私は迷うことなく、電話帳から登録したばかりのロウの名前を引っ張り出してきた。
通話ボタンを押すことにもためらいはなかった。数回の呼び出し音の後で、プツッとそれが途切れる音がした。
〈――もしもし?〉
「……――!」
聞こえてきた声に、私は思わず端末を耳から離してしまっていた。咄嗟に通話終了のボタンを押してしまう。
もう一度メモと履歴の番号を見比べる。間違いはない。でもあの声は――。
そこで画面が切り替わった。表示された『ロウ』の文字に驚きながらも、そっと通話ボタンを押す。
「も、もしもし……?」
〈もしもし?〉
聞こえてきた声は、やっぱり馴染みのないものだった。
〈お前、リンウェルだろ。いきなりかけてきたと思ったらすぐ切りやがって〉
呆れたような声色にいつもの調子。これは、この声は間違いなくロウだ。
〈知らない番号ですぐ切るなんて、イタズラかと思っただろ。端末買うって話聞いてなきゃ迷惑電話に登録するところだったぜ〉
「ご、ごめん。まだ操作に慣れてなくて、間違って切っちゃったの」
私がそう言うと、端末の向こうでロウが笑った。
〈お前意外と機械オンチなのか? 前から俺のいじってたりしてたくせに〉
「うるさいな。ロウのとは違って最新の機種だから、いろいろ慣れてないだけ!」
言いながら、私は緊張と戸惑いを必死に抑えていた。向こうから聞こえてくるのは確かにロウの声だ。でも、なんだかそれはいつもとはまったく違って、まるで別の人のように聞こえるのだった。
そういえば、と思い出す。こういう端末を通して聞こえる声は、本人の声とは違うものじゃなかったっけ。機械の中で限りなく近い音声を合成しているとかなんとか。詳しくはよくわからないが、この世の技術の集合体みたいな端末ならそれも可能だろう。
それにしたって、その声は――。
〈リンウェル?〉
(……――ちょっと、かっこよすぎない?)
いつもより低くて落ち着いた声。それがすぐ耳元で鳴り響くものだから、緊張しないわけがない。
機械越しとはいえ、本人のとはまったくの別物だとはいえ、あのロウにドキドキさせられるなんて。
私はロウの見えないところで密かに口をへの字に曲げたのだった。
「ところで、ロウ」
〈なんだ?〉
「ロウの番号知ってる人って、他に誰がいるの?」
〈なんだよ急に〉
「いいから。どんな人に教えてるんだろうなって」
〈そうだな……まずは親父だろ、あとはその会社の奴らと、お前〉
「うん」
〈あとは、部活の奴と、バイト先の先輩とか。それとクラスの奴らもだな〉
「それって女子も含めて?」
〈? そうだな。たまにクラスで集まる時とか連絡もらうからよ〉
「そっか」
〈それがどうかしたか?〉
「ううん、別に」
〈?〉
「……でも、あんまり電話はしないでね」
〈……え?〉
終わり畳む
#ロウリン #学パロ
初めて手に入れた端末は、最新の機種だった。
努力の末の勝利だった。周りの友人は皆持っているのに自分だけどうして、勉強頑張るからお願い、と両親に必死に頼み込んでようやく了承を得たのだ。
言われた通りの成績を保ち続けること約半年。手のひらサイズのそれへと形を変えた努力の結晶は、今私の手の中で光り輝いていた。
早速連絡先を登録していく。両親の番号とアドレスを打ち込み、次はと考えて思いついたのは、幼馴染のあいつだった。
既に番号は聞いていた。今日両親と一緒に買い物に行くことを伝えた際、すぐに登録できるようメモをもらっていたのだ。
番号を打ち込んでロウの名前を登録する。そういえば、アドレスの方は聞いていなかった。まあいいか、それはまた今度でも。ロウの家は目と鼻の先。アドレスくらい、聞きに行こうと思えばいつでも、すぐにでも会いに行けるのだから。
そこでふとイタズラ心がわいた。今電話を掛けたら、ロウはびっくりするんじゃないか。まさかすぐそばに暮らしている私から突然電話が掛かってくるとは夢にも思うまい。
ついでにこちらの番号も教えられてちょうどいい。私は迷うことなく、電話帳から登録したばかりのロウの名前を引っ張り出してきた。
通話ボタンを押すことにもためらいはなかった。数回の呼び出し音の後で、プツッとそれが途切れる音がした。
〈――もしもし?〉
「……――!」
聞こえてきた声に、私は思わず端末を耳から離してしまっていた。咄嗟に通話終了のボタンを押してしまう。
もう一度メモと履歴の番号を見比べる。間違いはない。でもあの声は――。
そこで画面が切り替わった。表示された『ロウ』の文字に驚きながらも、そっと通話ボタンを押す。
「も、もしもし……?」
〈もしもし?〉
聞こえてきた声は、やっぱり馴染みのないものだった。
〈お前、リンウェルだろ。いきなりかけてきたと思ったらすぐ切りやがって〉
呆れたような声色にいつもの調子。これは、この声は間違いなくロウだ。
〈知らない番号ですぐ切るなんて、イタズラかと思っただろ。端末買うって話聞いてなきゃ迷惑電話に登録するところだったぜ〉
「ご、ごめん。まだ操作に慣れてなくて、間違って切っちゃったの」
私がそう言うと、端末の向こうでロウが笑った。
〈お前意外と機械オンチなのか? 前から俺のいじってたりしてたくせに〉
「うるさいな。ロウのとは違って最新の機種だから、いろいろ慣れてないだけ!」
言いながら、私は緊張と戸惑いを必死に抑えていた。向こうから聞こえてくるのは確かにロウの声だ。でも、なんだかそれはいつもとはまったく違って、まるで別の人のように聞こえるのだった。
そういえば、と思い出す。こういう端末を通して聞こえる声は、本人の声とは違うものじゃなかったっけ。機械の中で限りなく近い音声を合成しているとかなんとか。詳しくはよくわからないが、この世の技術の集合体みたいな端末ならそれも可能だろう。
それにしたって、その声は――。
〈リンウェル?〉
(……――ちょっと、かっこよすぎない?)
いつもより低くて落ち着いた声。それがすぐ耳元で鳴り響くものだから、緊張しないわけがない。
機械越しとはいえ、本人のとはまったくの別物だとはいえ、あのロウにドキドキさせられるなんて。
私はロウの見えないところで密かに口をへの字に曲げたのだった。
「ところで、ロウ」
〈なんだ?〉
「ロウの番号知ってる人って、他に誰がいるの?」
〈なんだよ急に〉
「いいから。どんな人に教えてるんだろうなって」
〈そうだな……まずは親父だろ、あとはその会社の奴らと、お前〉
「うん」
〈あとは、部活の奴と、バイト先の先輩とか。それとクラスの奴らもだな〉
「それって女子も含めて?」
〈? そうだな。たまにクラスで集まる時とか連絡もらうからよ〉
「そっか」
〈それがどうかしたか?〉
「ううん、別に」
〈?〉
「……でも、あんまり電話はしないでね」
〈……え?〉
終わり畳む
#ロウリン #学パロ
習作①
静かな夜だった。
風の音ひとつ聞こえない、穏やかな夜。辺りに人の気配はなくて、向こうの通りの喧騒も今夜はひと際遠いように感じられた。
窓から見上げた空には星たちが瞬いていた。きらきらとした粒は一瞬の瞬きの間にも消えてしまいそうなほど儚い。それなのに、実際は大きな石の塊が煌々と燃え滾っているというのだから驚きだ。おまけに今私たちが見ている光は何百年も前のもので、その強さもまちまちで――。
つまり空には不思議がたくさん溢れているのだ。星だけじゃない。単純に、今こうして見上げている空の色も昼間とはまるで違った。日中はあれほど透き通って見えた空も、今は底なし沼のように深い色をしていた。同じ空なのに、こんなにも違う。あのどこまでも高くて清々しい青空はいったいどこへ。
今日は、ロウと会っていた。一緒に農場に出かけて動物たちの世話をして、街に戻ってきてからは買い出しに付き合ってもらった。少なくなっていたお米や小麦粉を買い足して、野菜も多く買った。ロウがいるといつもよりもたくさん荷物が持てるし、買いまとめるには都合が良い。
一旦部屋に荷物を置いてからは、広場で一緒にアイスクリームを食べた。期間限定のイチゴ味は、味も見た目もとても良かった。適度に甘酸っぱいのがロウも気に入ったらしい。「これはまた食べたくなる味だな」と、甘いものにそれほど興味のないロウにしては珍しい感想を言っていた。
そうして別れたのが夕暮れの頃。私をこの部屋の前まで送って、ロウはいつも使っている宿の方へと去って行った。
私は部屋の中に戻るふりをして、本当は、ロウが通りの角を曲がるまでその背中を見つめていた。姿が完全に見えなくなってしまうまで、こっそり、ロウのことを見送っていた。
その後は、いつも通りの日常を送ろうと努めた。夕飯を作って食べ、その片付けをする。お風呂に入って髪を乾かして、今夜はどんな本を読もうかと考えた。
でも、どこかで何かが欠けていた。遺跡で見つけた古い器のように、まだ完成しないパズルのように、どこかのパーツが足りていない。ヒビのような、穴のような空虚がこの体のどこかにあるのをひしひしと感じていた。
その正体について、上手く説明はできない。でもだからといって、その原因にまったく心当たりがないかといわれたら、それは違うのだった。
私はとっくに気が付いている。気が付いては、いるけれど――。
その時、コンロに掛けていたケトルから真っ白な湯気が上がった。私は火を止め、沸いたばかりの湯をポットに注いだ。
数分も蒸らせばいい香りが部屋中に広がった。カップに注いだ琥珀色の液体が明かりに照らされ、ゆうらり揺れる。
こんな夜、私はハーブティーを淹れる。リラックスできるよう、よく眠れるように茶葉をブレンドした、お気に入りのハーブティーだ。
この香りを嗅いでいると、身も心もふんわりやわらぐ。目を閉じてその香りの中に浸っているだけで、どこか不安定な気持ちが落ち着くのだった。
別に、そこまで悩んでいるわけでもなければ、不安になっているわけでもないけれど。
そう、これはちょっとした息抜き。読書の合間に体を温めつつ、気持ちを休めているだけ。そうすれば、ほら、さわやかで優しい香りが私の記憶を上書きしていってくれる。
どこかの本で読んだことがある。五感のうち、人が最後まで覚えているのは、嗅覚による記憶なんだそうだ。
空の神秘と同じく、それも不思議だなあと思う。たとえ相手の声も手の感触も思い出せなくなったとしても、その人の匂いだけは覚えているかもしれない。目が見えなくなっても、匂いで相手のことを思い出すかもしれないのだ。
それほど匂いによる記憶は強烈に身体に刻み込まれるのだろう。最後まで覚えているというのはすなわち、忘れるのが難しいということでもある。
私は別に、忘れたいわけではない。一緒に嗅いだ牧場の香りも、街道独特の畑の匂いも、街の屋台から流れてくる美味しそうなスパイスの匂いも、口いっぱいに広がるイチゴの香りも、全部全部、ひとつひとつが大切な思い出だと思っている。
できるだけ長く、きちんと覚えておきたいと思っている。一緒に見たもの。歩いた場所。ふと距離が縮まった時に微かに漂ってくる匂いだって、長く記憶に留めておきたい。
それらはいずれ、この先の私を形作るものになるはずだから。人は、出会った人との記憶でできていると言っても過言ではないだろう。
ただ、今だけは、それをほんの少しだけ和らげたかった。
私の脳内にくっきり残った記憶をぼやけさせたい。身体に色濃く刻まれたそれを薄めたい。
じゃないと、私は今夜眠れそうにない。これだけ鋭く募ってしまった思いを放置して眠りにつくことは到底できそうになかった。
情けないな、と思う。別に、今生の別れであるはずもないのに。またあいつはそのうちふらっと現れて、「元気してるか?」なんて呑気に声を掛けてくるに違いないのだ。
そうだとわかっていて、ついため息が出てしまう。フルルが心配そうにこちらを見上げながらその小さな体を摺り寄せてくる。大丈夫だよ、と呟きながらその羽を撫でると、ふわふわであたたかいフルルの体温を感じた。
その時だった。
部屋のドアが叩かれ、向こうから聞き慣れた声が聞こえた。
「リンウェル、いるか?」
思わず心臓が跳ねた。カップをテーブルに置き、一呼吸おいて扉の前に立つ。
ドアを開けると、そこにはぎこちなく頭を掻くロウの姿があった。
「ど、どうしたの?」
私は咄嗟に訊ねた。
「何か忘れ物でもした?」
いいや、とロウは首を振った。「別に、そういうんじゃねえけど」
「じゃあ、どうして?」
するとロウはやや視線を泳がせた後で、
「しいて言うなら、お前が帰り際、寂しそうにしてたから……」
「え……?」
「いや、違うな」
ロウは再び首を振った。
「俺が、お前に会いたかったんだ。お前ともう少し、話がしたかった」
それだけだ、とロウは言った。
「そう、なんだ」
私は呟いた。そうして何度か、瞬きをする。「……うれしい」
たちまちこの胸の内に何かあたたかいものが宿るのがわかった。お風呂で湯に浸かった時より、ハーブティーを飲んだ時よりあたたかいこの気持ち。
「どうぞ、入って」
私はドアを押し広げ、ロウを中へと促した。
気持ちは抑えきれずに溢れ出す。それでも構わないと、私は顔をほころばせながら言った。
「寒かったでしょ。せっかく来てくれたんだから、お茶でも飲んでいって」
いつまでも、いくらでも。口にはしなかったけれど、そう思ったのは本当だった。
終わり畳む
#ロウリン
静かな夜だった。
風の音ひとつ聞こえない、穏やかな夜。辺りに人の気配はなくて、向こうの通りの喧騒も今夜はひと際遠いように感じられた。
窓から見上げた空には星たちが瞬いていた。きらきらとした粒は一瞬の瞬きの間にも消えてしまいそうなほど儚い。それなのに、実際は大きな石の塊が煌々と燃え滾っているというのだから驚きだ。おまけに今私たちが見ている光は何百年も前のもので、その強さもまちまちで――。
つまり空には不思議がたくさん溢れているのだ。星だけじゃない。単純に、今こうして見上げている空の色も昼間とはまるで違った。日中はあれほど透き通って見えた空も、今は底なし沼のように深い色をしていた。同じ空なのに、こんなにも違う。あのどこまでも高くて清々しい青空はいったいどこへ。
今日は、ロウと会っていた。一緒に農場に出かけて動物たちの世話をして、街に戻ってきてからは買い出しに付き合ってもらった。少なくなっていたお米や小麦粉を買い足して、野菜も多く買った。ロウがいるといつもよりもたくさん荷物が持てるし、買いまとめるには都合が良い。
一旦部屋に荷物を置いてからは、広場で一緒にアイスクリームを食べた。期間限定のイチゴ味は、味も見た目もとても良かった。適度に甘酸っぱいのがロウも気に入ったらしい。「これはまた食べたくなる味だな」と、甘いものにそれほど興味のないロウにしては珍しい感想を言っていた。
そうして別れたのが夕暮れの頃。私をこの部屋の前まで送って、ロウはいつも使っている宿の方へと去って行った。
私は部屋の中に戻るふりをして、本当は、ロウが通りの角を曲がるまでその背中を見つめていた。姿が完全に見えなくなってしまうまで、こっそり、ロウのことを見送っていた。
その後は、いつも通りの日常を送ろうと努めた。夕飯を作って食べ、その片付けをする。お風呂に入って髪を乾かして、今夜はどんな本を読もうかと考えた。
でも、どこかで何かが欠けていた。遺跡で見つけた古い器のように、まだ完成しないパズルのように、どこかのパーツが足りていない。ヒビのような、穴のような空虚がこの体のどこかにあるのをひしひしと感じていた。
その正体について、上手く説明はできない。でもだからといって、その原因にまったく心当たりがないかといわれたら、それは違うのだった。
私はとっくに気が付いている。気が付いては、いるけれど――。
その時、コンロに掛けていたケトルから真っ白な湯気が上がった。私は火を止め、沸いたばかりの湯をポットに注いだ。
数分も蒸らせばいい香りが部屋中に広がった。カップに注いだ琥珀色の液体が明かりに照らされ、ゆうらり揺れる。
こんな夜、私はハーブティーを淹れる。リラックスできるよう、よく眠れるように茶葉をブレンドした、お気に入りのハーブティーだ。
この香りを嗅いでいると、身も心もふんわりやわらぐ。目を閉じてその香りの中に浸っているだけで、どこか不安定な気持ちが落ち着くのだった。
別に、そこまで悩んでいるわけでもなければ、不安になっているわけでもないけれど。
そう、これはちょっとした息抜き。読書の合間に体を温めつつ、気持ちを休めているだけ。そうすれば、ほら、さわやかで優しい香りが私の記憶を上書きしていってくれる。
どこかの本で読んだことがある。五感のうち、人が最後まで覚えているのは、嗅覚による記憶なんだそうだ。
空の神秘と同じく、それも不思議だなあと思う。たとえ相手の声も手の感触も思い出せなくなったとしても、その人の匂いだけは覚えているかもしれない。目が見えなくなっても、匂いで相手のことを思い出すかもしれないのだ。
それほど匂いによる記憶は強烈に身体に刻み込まれるのだろう。最後まで覚えているというのはすなわち、忘れるのが難しいということでもある。
私は別に、忘れたいわけではない。一緒に嗅いだ牧場の香りも、街道独特の畑の匂いも、街の屋台から流れてくる美味しそうなスパイスの匂いも、口いっぱいに広がるイチゴの香りも、全部全部、ひとつひとつが大切な思い出だと思っている。
できるだけ長く、きちんと覚えておきたいと思っている。一緒に見たもの。歩いた場所。ふと距離が縮まった時に微かに漂ってくる匂いだって、長く記憶に留めておきたい。
それらはいずれ、この先の私を形作るものになるはずだから。人は、出会った人との記憶でできていると言っても過言ではないだろう。
ただ、今だけは、それをほんの少しだけ和らげたかった。
私の脳内にくっきり残った記憶をぼやけさせたい。身体に色濃く刻まれたそれを薄めたい。
じゃないと、私は今夜眠れそうにない。これだけ鋭く募ってしまった思いを放置して眠りにつくことは到底できそうになかった。
情けないな、と思う。別に、今生の別れであるはずもないのに。またあいつはそのうちふらっと現れて、「元気してるか?」なんて呑気に声を掛けてくるに違いないのだ。
そうだとわかっていて、ついため息が出てしまう。フルルが心配そうにこちらを見上げながらその小さな体を摺り寄せてくる。大丈夫だよ、と呟きながらその羽を撫でると、ふわふわであたたかいフルルの体温を感じた。
その時だった。
部屋のドアが叩かれ、向こうから聞き慣れた声が聞こえた。
「リンウェル、いるか?」
思わず心臓が跳ねた。カップをテーブルに置き、一呼吸おいて扉の前に立つ。
ドアを開けると、そこにはぎこちなく頭を掻くロウの姿があった。
「ど、どうしたの?」
私は咄嗟に訊ねた。
「何か忘れ物でもした?」
いいや、とロウは首を振った。「別に、そういうんじゃねえけど」
「じゃあ、どうして?」
するとロウはやや視線を泳がせた後で、
「しいて言うなら、お前が帰り際、寂しそうにしてたから……」
「え……?」
「いや、違うな」
ロウは再び首を振った。
「俺が、お前に会いたかったんだ。お前ともう少し、話がしたかった」
それだけだ、とロウは言った。
「そう、なんだ」
私は呟いた。そうして何度か、瞬きをする。「……うれしい」
たちまちこの胸の内に何かあたたかいものが宿るのがわかった。お風呂で湯に浸かった時より、ハーブティーを飲んだ時よりあたたかいこの気持ち。
「どうぞ、入って」
私はドアを押し広げ、ロウを中へと促した。
気持ちは抑えきれずに溢れ出す。それでも構わないと、私は顔をほころばせながら言った。
「寒かったでしょ。せっかく来てくれたんだから、お茶でも飲んでいって」
いつまでも、いくらでも。口にはしなかったけれど、そう思ったのは本当だった。
終わり畳む
#ロウリン
身体が鉛のように重い。一歩、また一歩、両脚を引きずるようにして前に進む。ただ前進するというだけで、こうも努力が必要なものか。
別に、体調が悪いわけじゃない。ヴィスキントに来るまでの護衛任務だってケガひとつ負わなかったし、熱っぽいわけでもなかった。寝不足でもなければ、休みが取れていないわけでもなく、食事だって毎食きちんと摂れていた。
そもそも、そういうふうに感じること自体に納得がいっていない。何を気を重たくするようなことがあっただろう。振り返ってみても、思い当たることなどひとつもない。いつものように日常を過ごし、いつものように仕事をこなしてきただけ。
そうだ。カラグリアで「さすがジルファの息子だ」などと持て囃されることも、シスロディアで数年前まで同じ隊服を着ていた連中に陰口を叩かれることも、何らいつもと変わらない。すべてよく目にする、耳にする日常の範囲内のはずだ。
言い聞かせて、ひたすら通りを進んだ。市場の喧騒も、客引きの声も聞こえない。ただ風に流される葉のごとく、導かれるまま足を動かす。
やがて辿り着いたドアをノックすると、奥からは拍子抜けするほど明るい声が聞こえた。数秒ののち、ぎいっと開かれた扉の隙間からひょっこりとリンウェルが覗いた。
「いらっしゃい。今日は少し早かったね」
まるで花のような笑みを浮かべてリンウェルは言った。その香りに誘われるかのようにして部屋に足を踏み入れる。
すぐ前を行くリンウェルの足取りはどこか弾んでいるようにも見えた。何かいいことでもあったのだろうか。横顔からは鼻歌さえ聞こえてきそうだ。
「お仕事お疲れ様。ケガはない? ズーグルには遭わなかった?」
「ああ」
「何か食べる? ってまだ夕飯には早いけど。お茶でも淹れる?」
「……そうだな」
いつもより口数の少ない俺に気付いたのだろう。リンウェルが首を傾げつつ、こちらを覗き込んでくる。
「ロウ? どうかした?」
「……いや、」
なんでもない、と言うつもりで首を振った。そのままいつもみたいに軽く笑って、腹が減っただけだ、とでも誤魔化せばよかったのに。
その大きな瞳に見つめられたら、それまで頭の中にあったものはすべて消し飛んでしまった。
「リンウェル」
返事が返ってくる前に、その肩口に額を押し付ける。
「…………疲れた」
「……そっか」
やがて小さく笑う声が聞こえてきたかと思うと、優しい指が髪を撫でる感触がした。
リンウェルは何も聞かなかった。穏やかに笑みを浮かべながら、いつものようにソファーで本を開いて、「今日だけ特別ね」と肩を貸してくれた。
「ロウがこんなふうになるなんて、結構頑張ったんだね」
別にそうでもない、と言おうとして、声が出ない。口を開くのも億劫で、ただ怠惰なまま頭をもたれかける。
「頑張りすぎは良くないけどね。ロウのことだから、自分の限界を知らないんだろうけど」
言いつつ、リンウェルは本のページをめくった。普段読んでいるものよりは絵が多い気もしたが、それでも隙間には小さい文字がうじゃうじゃと蠢いていた。それらは今にも這い出してきそうで、想像しては背筋が震え上がった。
「でも、爆発する前に言ってくれてよかった。ロウはそういうののコントロールが下手だから」
「……別に、」
そこでようやく声が出た。
「そういうつもりはねえけど」
「そうかな。でもロウ、何かと我慢しがちでしょ? 少しでも自分に非があると思えば、すぐに黙り込んじゃうじゃない」
うっと言葉に詰まったのは、図星を突かれたというよりは、再認識させられたからだ。
自分はどうやら思った以上に人の言葉を気にしていたらしい。それも今は変えられない、過去のことに関してはことさら。
積もりに積もったそれが、こうして身も心も重くしていた。見てみぬふり、感じていないふりなどできないと頭ではわかっていたのに。
情けないな、と思う。いつまでも過去に囚われて、引きずって。
しまいには肩にもたれかかっている。自分よりもずっと薄くて細いリンウェルの肩に。
本当なら逆じゃないのか。俺が肩を貸すべきじゃないのか。思いながら、俺は頭をもたげることもなく、文字を追うリンウェルの指を呆然と眺めた。
「落ち込んでるでしょ」
少し笑いを含んだ声でリンウェルは言った。
「もしくは拗ねてる?」
返事はしなかった。それは返事をしたも同じことだが。
「余計なことを考えちゃう時は、寝た方がいいんだよ」
そんなリンウェルの提案に、けど、と思わず呟く。
「私は大丈夫だよ。本読んでれば、重さとか気にならないし。それにもうすぐ夕方だしね。邪魔になったら、その時起こすから」
邪魔とはまた随分な言い草だ。そう思いつつ、俺はその言葉に甘えて目を閉じることにした。たちまちどこからか睡魔の足音が聞こえてくる。
「じゃあ、少しだけ」
「うん。どうぞ」
おやすみ、と言うと、おやすみ、とすぐに返ってきた。安心する、と思ってから数分も経たないうち、意識はそこでぷつっと途切れた。
目が覚めたのは、スパイスの良い香りがしたからだ。ふと見ると俺はソファーに横になっていて、身体には毛布が掛かっていた。
いつの間に。どうやら一連の流れにまったく気が付かないほどに眠りこけてしまっていたらしい。
「あ、起きた?」
キッチンに立ったリンウェルがちらりとこちらを振り返る。
「あまりにもよく寝てたから、そのまま起こさなかったんだ」
珍しく熟睡してたみたいだね、と言われて、身体が軽くなっていることに気が付いた。ぼうっとしていた頭も冴えて、幾分すっきりしたみたいだ。
「どう? よく休めた?」
「ああ、おかげさまでな」
ありがとな、と言うとリンウェルは鍋の方を向いたまま、「どういたしまして」と言った。
それからはリンウェルの作ったカレーを2人で食べた。デザートが出る頃には散歩に行っていたフルルが窓から帰ってきて、俺とアイスクリームの争奪戦になった。「そもそもそれは俺に出されたデザートだ」と俺が主張する一方、フルルは「お前がいなかったらこれは自分のものになっていたはずだ」と羽をばたつかせた。結局は半分にすることで決着したが、リンウェルはその様子を見て終始くすくすと笑っていた。
後片付けを終える時分には、空には星が瞬くようになっていた。俺は元々取っていた宿に戻るため、どうにも重たい腰を上げた。
玄関先で別れる時、俺はリンウェルに改めて礼を言った。
「今日は、ありがとな。ソファーも、毛布も借りちまって」
肩まで借りたことは、敢えて言わない。
「夕飯の手伝い、何もできなくて悪かったな。せめて土産の1つでも買ってこられたら良かったんだけど……」
今さら自分の気の利かなさに愕然とする。いくら疲弊しきっていたとはいえ、家に上がらせてもらう以上、それなりの礼儀はわきまえるべきなのに。
思えば今日は駄目な1日だった。気分も、リンウェルへの対応も。着いて早々愚痴って、ソファーを独り占めして眠ってしまうなんて。
それこそ反省すべきじゃないのか。俺の人生は丸ごと反省と後悔に染まっているのかもしれない。
項垂れていると、
「いいよ、そんなの」
リンウェルが首を振った。
「別にお土産があるとか気にしてないし。あ、もちろんもらえたら嬉しいけどね? でも、それありきでロウが来るのを楽しみにしてるんじゃないんだよ」
思わず顔を上げた。リンウェルは俺が来るのを楽しみにしてくれているのか。
胸が小さく高鳴ったかと思ったのに、リンウェルは続けて思いついたように言った。
「もう1つ言っておくと、かっこいいロウにも期待してないから」
「え」
「だってそうでしょ。そんなのロウであってロウじゃないよ。無理してかっこつけたロウなんか、ロウじゃない」
リンウェルが小さく口を尖らせる。
「私の前ではそんなふうに取り繕わないでよ。今日みたいに、がっくりもたれかかってくれればいいの」
「けど……」
俺は決まり悪くなって頭を掻いた。
「お前にあまり情けないところ見せたくないっつーか」
意を決して言ったのに、
「私が言ってるんだからいいでしょ。というか、他の人にあんなことしたら承知しないから」
などとリンウェルは言う。
「ロウがほかの人に見せられないような顔は、私の前でしてくれればいいから。むしろ、私以外の前で見せないで」
いい? と念を押されて、俺は思わず頷いた。よろしい、と言ってリンウェルが笑う。
「じゃあ、帰りも気を付けてね。ケガにもズーグルにも」
言いくるめられたような気がしたが、そこまで気にはならなかった。扉を開いて、リンウェルの家を出る。
空には満天の星が輝いていた。きっとおそらく明日も、晴れるに違いないと思った。
終わり畳む
#ロウリン