2024年11月
習作①
静かな夜だった。
風の音ひとつ聞こえない、穏やかな夜。辺りに人の気配はなくて、向こうの通りの喧騒も今夜はひと際遠いように感じられた。
窓から見上げた空には星たちが瞬いていた。きらきらとした粒は一瞬の瞬きの間にも消えてしまいそうなほど儚い。それなのに、実際は大きな石の塊が煌々と燃え滾っているというのだから驚きだ。おまけに今私たちが見ている光は何百年も前のもので、その強さもまちまちで――。
つまり空には不思議がたくさん溢れているのだ。星だけじゃない。単純に、今こうして見上げている空の色も昼間とはまるで違った。日中はあれほど透き通って見えた空も、今は底なし沼のように深い色をしていた。同じ空なのに、こんなにも違う。あのどこまでも高くて清々しい青空はいったいどこへ。
今日は、ロウと会っていた。一緒に農場に出かけて動物たちの世話をして、街に戻ってきてからは買い出しに付き合ってもらった。少なくなっていたお米や小麦粉を買い足して、野菜も多く買った。ロウがいるといつもよりもたくさん荷物が持てるし、買いまとめるには都合が良い。
一旦部屋に荷物を置いてからは、広場で一緒にアイスクリームを食べた。期間限定のイチゴ味は、味も見た目もとても良かった。適度に甘酸っぱいのがロウも気に入ったらしい。「これはまた食べたくなる味だな」と、甘いものにそれほど興味のないロウにしては珍しい感想を言っていた。
そうして別れたのが夕暮れの頃。私をこの部屋の前まで送って、ロウはいつも使っている宿の方へと去って行った。
私は部屋の中に戻るふりをして、本当は、ロウが通りの角を曲がるまでその背中を見つめていた。姿が完全に見えなくなってしまうまで、こっそり、ロウのことを見送っていた。
その後は、いつも通りの日常を送ろうと努めた。夕飯を作って食べ、その片付けをする。お風呂に入って髪を乾かして、今夜はどんな本を読もうかと考えた。
でも、どこかで何かが欠けていた。遺跡で見つけた古い器のように、まだ完成しないパズルのように、どこかのパーツが足りていない。ヒビのような、穴のような空虚がこの体のどこかにあるのをひしひしと感じていた。
その正体について、上手く説明はできない。でもだからといって、その原因にまったく心当たりがないかといわれたら、それは違うのだった。
私はとっくに気が付いている。気が付いては、いるけれど――。
その時、コンロに掛けていたケトルから真っ白な湯気が上がった。私は火を止め、沸いたばかりの湯をポットに注いだ。
数分も蒸らせばいい香りが部屋中に広がった。カップに注いだ琥珀色の液体が明かりに照らされ、ゆうらり揺れる。
こんな夜、私はハーブティーを淹れる。リラックスできるよう、よく眠れるように茶葉をブレンドした、お気に入りのハーブティーだ。
この香りを嗅いでいると、身も心もふんわりやわらぐ。目を閉じてその香りの中に浸っているだけで、どこか不安定な気持ちが落ち着くのだった。
別に、そこまで悩んでいるわけでもなければ、不安になっているわけでもないけれど。
そう、これはちょっとした息抜き。読書の合間に体を温めつつ、気持ちを休めているだけ。そうすれば、ほら、さわやかで優しい香りが私の記憶を上書きしていってくれる。
どこかの本で読んだことがある。五感のうち、人が最後まで覚えているのは、嗅覚による記憶なんだそうだ。
空の神秘と同じく、それも不思議だなあと思う。たとえ相手の声も手の感触も思い出せなくなったとしても、その人の匂いだけは覚えているかもしれない。目が見えなくなっても、匂いで相手のことを思い出すかもしれないのだ。
それほど匂いによる記憶は強烈に身体に刻み込まれるのだろう。最後まで覚えているというのはすなわち、忘れるのが難しいということでもある。
私は別に、忘れたいわけではない。一緒に嗅いだ牧場の香りも、街道独特の畑の匂いも、街の屋台から流れてくる美味しそうなスパイスの匂いも、口いっぱいに広がるイチゴの香りも、全部全部、ひとつひとつが大切な思い出だと思っている。
できるだけ長く、きちんと覚えておきたいと思っている。一緒に見たもの。歩いた場所。ふと距離が縮まった時に微かに漂ってくる匂いだって、長く記憶に留めておきたい。
それらはいずれ、この先の私を形作るものになるはずだから。人は、出会った人との記憶でできていると言っても過言ではないだろう。
ただ、今だけは、それをほんの少しだけ和らげたかった。
私の脳内にくっきり残った記憶をぼやけさせたい。身体に色濃く刻まれたそれを薄めたい。
じゃないと、私は今夜眠れそうにない。これだけ鋭く募ってしまった思いを放置して眠りにつくことは到底できそうになかった。
情けないな、と思う。別に、今生の別れであるはずもないのに。またあいつはそのうちふらっと現れて、「元気してるか?」なんて呑気に声を掛けてくるに違いないのだ。
そうだとわかっていて、ついため息が出てしまう。フルルが心配そうにこちらを見上げながらその小さな体を摺り寄せてくる。大丈夫だよ、と呟きながらその羽を撫でると、ふわふわであたたかいフルルの体温を感じた。
その時だった。
部屋のドアが叩かれ、向こうから聞き慣れた声が聞こえた。
「リンウェル、いるか?」
思わず心臓が跳ねた。カップをテーブルに置き、一呼吸おいて扉の前に立つ。
ドアを開けると、そこにはぎこちなく頭を掻くロウの姿があった。
「ど、どうしたの?」
私は咄嗟に訊ねた。
「何か忘れ物でもした?」
いいや、とロウは首を振った。「別に、そういうんじゃねえけど」
「じゃあ、どうして?」
するとロウはやや視線を泳がせた後で、
「しいて言うなら、お前が帰り際、寂しそうにしてたから……」
「え……?」
「いや、違うな」
ロウは再び首を振った。
「俺が、お前に会いたかったんだ。お前ともう少し、話がしたかった」
それだけだ、とロウは言った。
「そう、なんだ」
私は呟いた。そうして何度か、瞬きをする。「……うれしい」
たちまちこの胸の内に何かあたたかいものが宿るのがわかった。お風呂で湯に浸かった時より、ハーブティーを飲んだ時よりあたたかいこの気持ち。
「どうぞ、入って」
私はドアを押し広げ、ロウを中へと促した。
気持ちは抑えきれずに溢れ出す。それでも構わないと、私は顔をほころばせながら言った。
「寒かったでしょ。せっかく来てくれたんだから、お茶でも飲んでいって」
いつまでも、いくらでも。口にはしなかったけれど、そう思ったのは本当だった。
終わり畳む
#ロウリン
静かな夜だった。
風の音ひとつ聞こえない、穏やかな夜。辺りに人の気配はなくて、向こうの通りの喧騒も今夜はひと際遠いように感じられた。
窓から見上げた空には星たちが瞬いていた。きらきらとした粒は一瞬の瞬きの間にも消えてしまいそうなほど儚い。それなのに、実際は大きな石の塊が煌々と燃え滾っているというのだから驚きだ。おまけに今私たちが見ている光は何百年も前のもので、その強さもまちまちで――。
つまり空には不思議がたくさん溢れているのだ。星だけじゃない。単純に、今こうして見上げている空の色も昼間とはまるで違った。日中はあれほど透き通って見えた空も、今は底なし沼のように深い色をしていた。同じ空なのに、こんなにも違う。あのどこまでも高くて清々しい青空はいったいどこへ。
今日は、ロウと会っていた。一緒に農場に出かけて動物たちの世話をして、街に戻ってきてからは買い出しに付き合ってもらった。少なくなっていたお米や小麦粉を買い足して、野菜も多く買った。ロウがいるといつもよりもたくさん荷物が持てるし、買いまとめるには都合が良い。
一旦部屋に荷物を置いてからは、広場で一緒にアイスクリームを食べた。期間限定のイチゴ味は、味も見た目もとても良かった。適度に甘酸っぱいのがロウも気に入ったらしい。「これはまた食べたくなる味だな」と、甘いものにそれほど興味のないロウにしては珍しい感想を言っていた。
そうして別れたのが夕暮れの頃。私をこの部屋の前まで送って、ロウはいつも使っている宿の方へと去って行った。
私は部屋の中に戻るふりをして、本当は、ロウが通りの角を曲がるまでその背中を見つめていた。姿が完全に見えなくなってしまうまで、こっそり、ロウのことを見送っていた。
その後は、いつも通りの日常を送ろうと努めた。夕飯を作って食べ、その片付けをする。お風呂に入って髪を乾かして、今夜はどんな本を読もうかと考えた。
でも、どこかで何かが欠けていた。遺跡で見つけた古い器のように、まだ完成しないパズルのように、どこかのパーツが足りていない。ヒビのような、穴のような空虚がこの体のどこかにあるのをひしひしと感じていた。
その正体について、上手く説明はできない。でもだからといって、その原因にまったく心当たりがないかといわれたら、それは違うのだった。
私はとっくに気が付いている。気が付いては、いるけれど――。
その時、コンロに掛けていたケトルから真っ白な湯気が上がった。私は火を止め、沸いたばかりの湯をポットに注いだ。
数分も蒸らせばいい香りが部屋中に広がった。カップに注いだ琥珀色の液体が明かりに照らされ、ゆうらり揺れる。
こんな夜、私はハーブティーを淹れる。リラックスできるよう、よく眠れるように茶葉をブレンドした、お気に入りのハーブティーだ。
この香りを嗅いでいると、身も心もふんわりやわらぐ。目を閉じてその香りの中に浸っているだけで、どこか不安定な気持ちが落ち着くのだった。
別に、そこまで悩んでいるわけでもなければ、不安になっているわけでもないけれど。
そう、これはちょっとした息抜き。読書の合間に体を温めつつ、気持ちを休めているだけ。そうすれば、ほら、さわやかで優しい香りが私の記憶を上書きしていってくれる。
どこかの本で読んだことがある。五感のうち、人が最後まで覚えているのは、嗅覚による記憶なんだそうだ。
空の神秘と同じく、それも不思議だなあと思う。たとえ相手の声も手の感触も思い出せなくなったとしても、その人の匂いだけは覚えているかもしれない。目が見えなくなっても、匂いで相手のことを思い出すかもしれないのだ。
それほど匂いによる記憶は強烈に身体に刻み込まれるのだろう。最後まで覚えているというのはすなわち、忘れるのが難しいということでもある。
私は別に、忘れたいわけではない。一緒に嗅いだ牧場の香りも、街道独特の畑の匂いも、街の屋台から流れてくる美味しそうなスパイスの匂いも、口いっぱいに広がるイチゴの香りも、全部全部、ひとつひとつが大切な思い出だと思っている。
できるだけ長く、きちんと覚えておきたいと思っている。一緒に見たもの。歩いた場所。ふと距離が縮まった時に微かに漂ってくる匂いだって、長く記憶に留めておきたい。
それらはいずれ、この先の私を形作るものになるはずだから。人は、出会った人との記憶でできていると言っても過言ではないだろう。
ただ、今だけは、それをほんの少しだけ和らげたかった。
私の脳内にくっきり残った記憶をぼやけさせたい。身体に色濃く刻まれたそれを薄めたい。
じゃないと、私は今夜眠れそうにない。これだけ鋭く募ってしまった思いを放置して眠りにつくことは到底できそうになかった。
情けないな、と思う。別に、今生の別れであるはずもないのに。またあいつはそのうちふらっと現れて、「元気してるか?」なんて呑気に声を掛けてくるに違いないのだ。
そうだとわかっていて、ついため息が出てしまう。フルルが心配そうにこちらを見上げながらその小さな体を摺り寄せてくる。大丈夫だよ、と呟きながらその羽を撫でると、ふわふわであたたかいフルルの体温を感じた。
その時だった。
部屋のドアが叩かれ、向こうから聞き慣れた声が聞こえた。
「リンウェル、いるか?」
思わず心臓が跳ねた。カップをテーブルに置き、一呼吸おいて扉の前に立つ。
ドアを開けると、そこにはぎこちなく頭を掻くロウの姿があった。
「ど、どうしたの?」
私は咄嗟に訊ねた。
「何か忘れ物でもした?」
いいや、とロウは首を振った。「別に、そういうんじゃねえけど」
「じゃあ、どうして?」
するとロウはやや視線を泳がせた後で、
「しいて言うなら、お前が帰り際、寂しそうにしてたから……」
「え……?」
「いや、違うな」
ロウは再び首を振った。
「俺が、お前に会いたかったんだ。お前ともう少し、話がしたかった」
それだけだ、とロウは言った。
「そう、なんだ」
私は呟いた。そうして何度か、瞬きをする。「……うれしい」
たちまちこの胸の内に何かあたたかいものが宿るのがわかった。お風呂で湯に浸かった時より、ハーブティーを飲んだ時よりあたたかいこの気持ち。
「どうぞ、入って」
私はドアを押し広げ、ロウを中へと促した。
気持ちは抑えきれずに溢れ出す。それでも構わないと、私は顔をほころばせながら言った。
「寒かったでしょ。せっかく来てくれたんだから、お茶でも飲んでいって」
いつまでも、いくらでも。口にはしなかったけれど、そう思ったのは本当だった。
終わり畳む
#ロウリン
2024年10月
双世界狼梟目撃談③
宿屋という客商売をやっている以上、客をもてなし、いかに気持ちよく滞在してもらえるかってのは何よりも重視すべき点だ。
だから客に何か頼み事をするってえのは根本からして間違っちゃいるんだが、あいつ――ロウの場合は少し違うんだ。
ロウとの付き合いはそれなりに長い。あいつが〈紅の鴉〉に入ってからすぐのことだから、もう数年になる。まあ、「金がない」が口癖みたいなあいつがこの安宿を拠点にするのは必然だったかもしれないな。
ヴィスキントの中でも外れた路地にあるこの宿はなかなか人目にはつきにくい。だからといって品質が悪いとは思っちゃいない。金額の割には充分な設備を整えている自負はある。
ロウの奴はどこから聞いてきたのか、大通りにあるような立派な宿でなく、この宿を使うようになった。あの英雄様御一行のお仲間が、だぞ。初めてロウを見た時は(本当にこんなヒョロヒョロのガキが?)とも思ったが、街での仕事ついでにあらゆる依頼をこなして回っていると聞けば嫌でも信じざるを得なくなった。
何よりあいつは人懐っこく、人当たりが良かった。俺がほんの冗談交じりに「こいつを市場の奴に届けてきてくれる奴はいねえかな」などと言ってみたところ、ロウはその場ですぐさま手を挙げ、風を切る矢のごとく依頼を終わらせてしまった。本当にあっという間の出来事だったよ。
恐る恐る報酬について聞けば「そんなのは必要ない」などと言う。
「困ってたんならお互い様だろ。別に市場なんてすぐそこだしよ、ついでに薬の買い出しもできてラッキーだったぜ」
なんと、あの時間で買い出しまでしてきたのか。と、驚くのはそこではない。
なんて人が良い奴なんだ。良すぎて、これからの行く先が恐ろしい。すぐ人に騙されるぞ、こいつ。
気が付けば俺はロウを気にかけ、声まで掛けるようになっていた。常連曰く強面でなかなかとっつきづらいと言われる俺が、自分からロウに気を回すようになっていたのだ。
そうは言うものの、話題がなければ話しかけることもしづらい。思いついた先の苦肉の策がロウに依頼を出すことだった。内容は荷物を市場から運んできてほしいとか、書類を送り届けてほしいとか、そんな類のものばかりだ。普段はズーグルを倒してばかりだという身分にはなんともつまらないものだろうが、それでもロウは文句ひとつ言わずに黙々とこなしてくれた。
「あんたからの依頼は気楽でいいぜ。ケガとかする危険もねえし」
そんなふうに言ってはけらけら笑うロウはやっぱり人が良い。報酬は要らないと言われるがそういうわけにもいかず、ロウには宿賃をまけてやることで納得してもらっている。本当ならば食事を豪華にしてやったり、サービスを良くしてやるべきなんだろうが、ここも零細経営でなかなか心苦しいというのが本音だ。
いつかロウには本気で恩返ししねえとな、と思っていたある日のことだ。ロウがいつにもまして上機嫌で宿を出て行くのが見えた。
心なしか髪型もいつもより気合が入っていた。とはいえそれはほんの些細な違いだから、俺ぐらいロウと顔を合わせていないと気が付かないだろう。
その日は午前はよく晴れていたが、午後から雲行きが怪しくなってきていた。あっという間に空を覆った雲は、まもなくシャワーのような雨を降らせ始めた。
とうとうきたか、と窓からその様子を眺めていると、通りの向こうから見慣れた人影が走ってくるのが見えた。
ロウだった。その後ろにはもう一人、青い服を着た女の子が付き従っていた。
二人はどうやら街を歩いている途中で雨に降られてしまったらしい。急遽雨宿りを、ということでこの宿の軒下を使いに来たらしかった。
雨の勢いはそれほどでもなかったが、まだ雲は消えていなかった。長雨になったら良くないと思い、俺はとりあえず棚から大きめのタオル2枚を用意すると、ガラス窓をコンコンと軽く叩いた。
ロウはすぐに気付いた。ドアを開けて入ってきたロウに、タオルを手渡す。
「濡れただろ、これ使え。風邪でも引いたら大変だ」
「けど……」
どこか遠慮がちなロウに「いいから」と半ば強引にそれを押し付けながら、ふと視界の端に映ったものに気が付いた。
「それと、それも持ってけ」
指さしたのは、一本の傘だった。いつか自分で買ったか、あるいは客の誰かが忘れていったか。それすらも思い出せない傘だ。
それでも使えないということはないだろう。開いてみれば、中身はまだ新品のように新しかった。
「見映えは良くないかもしれないが、雨避けには充分だろう」
俺の言葉にロウは照れくさそうに笑うと、「ありがとな」と言って再び外に出て行った。
しばらくして窓の外に目を向けると、ロウが傘の下に女の子を入れ、いまだ降りしきる雨の中を通りの向こうへと歩いていくのが見えた。あいつのトレードマークの狼は不自然に傘からはみ出し、透明な水滴を被っている。おいおい、そんなんじゃお前が濡れちまうだろうが。もっと身を寄せて歩け。もちろんそんな俺の心の声はロウには届かない。
結局ロウは角を曲がるまで、肩を濡らしたまま歩いていった。そんな小さい傘でもなかったろうに、これであいつが本当に風邪でも引いたら目も当てられない。
思わずこみ上げてきた笑みで一人笑いしてしまう。どうにも、年頃のあいつらしい不器用さだなと思った。
それでも、ひとつ手助けはできただろうか。もちろんすべて返せたとは思っちゃいないので、残りの恩返しはこれからぼちぼちやらせてもらうことにする。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
宿屋という客商売をやっている以上、客をもてなし、いかに気持ちよく滞在してもらえるかってのは何よりも重視すべき点だ。
だから客に何か頼み事をするってえのは根本からして間違っちゃいるんだが、あいつ――ロウの場合は少し違うんだ。
ロウとの付き合いはそれなりに長い。あいつが〈紅の鴉〉に入ってからすぐのことだから、もう数年になる。まあ、「金がない」が口癖みたいなあいつがこの安宿を拠点にするのは必然だったかもしれないな。
ヴィスキントの中でも外れた路地にあるこの宿はなかなか人目にはつきにくい。だからといって品質が悪いとは思っちゃいない。金額の割には充分な設備を整えている自負はある。
ロウの奴はどこから聞いてきたのか、大通りにあるような立派な宿でなく、この宿を使うようになった。あの英雄様御一行のお仲間が、だぞ。初めてロウを見た時は(本当にこんなヒョロヒョロのガキが?)とも思ったが、街での仕事ついでにあらゆる依頼をこなして回っていると聞けば嫌でも信じざるを得なくなった。
何よりあいつは人懐っこく、人当たりが良かった。俺がほんの冗談交じりに「こいつを市場の奴に届けてきてくれる奴はいねえかな」などと言ってみたところ、ロウはその場ですぐさま手を挙げ、風を切る矢のごとく依頼を終わらせてしまった。本当にあっという間の出来事だったよ。
恐る恐る報酬について聞けば「そんなのは必要ない」などと言う。
「困ってたんならお互い様だろ。別に市場なんてすぐそこだしよ、ついでに薬の買い出しもできてラッキーだったぜ」
なんと、あの時間で買い出しまでしてきたのか。と、驚くのはそこではない。
なんて人が良い奴なんだ。良すぎて、これからの行く先が恐ろしい。すぐ人に騙されるぞ、こいつ。
気が付けば俺はロウを気にかけ、声まで掛けるようになっていた。常連曰く強面でなかなかとっつきづらいと言われる俺が、自分からロウに気を回すようになっていたのだ。
そうは言うものの、話題がなければ話しかけることもしづらい。思いついた先の苦肉の策がロウに依頼を出すことだった。内容は荷物を市場から運んできてほしいとか、書類を送り届けてほしいとか、そんな類のものばかりだ。普段はズーグルを倒してばかりだという身分にはなんともつまらないものだろうが、それでもロウは文句ひとつ言わずに黙々とこなしてくれた。
「あんたからの依頼は気楽でいいぜ。ケガとかする危険もねえし」
そんなふうに言ってはけらけら笑うロウはやっぱり人が良い。報酬は要らないと言われるがそういうわけにもいかず、ロウには宿賃をまけてやることで納得してもらっている。本当ならば食事を豪華にしてやったり、サービスを良くしてやるべきなんだろうが、ここも零細経営でなかなか心苦しいというのが本音だ。
いつかロウには本気で恩返ししねえとな、と思っていたある日のことだ。ロウがいつにもまして上機嫌で宿を出て行くのが見えた。
心なしか髪型もいつもより気合が入っていた。とはいえそれはほんの些細な違いだから、俺ぐらいロウと顔を合わせていないと気が付かないだろう。
その日は午前はよく晴れていたが、午後から雲行きが怪しくなってきていた。あっという間に空を覆った雲は、まもなくシャワーのような雨を降らせ始めた。
とうとうきたか、と窓からその様子を眺めていると、通りの向こうから見慣れた人影が走ってくるのが見えた。
ロウだった。その後ろにはもう一人、青い服を着た女の子が付き従っていた。
二人はどうやら街を歩いている途中で雨に降られてしまったらしい。急遽雨宿りを、ということでこの宿の軒下を使いに来たらしかった。
雨の勢いはそれほどでもなかったが、まだ雲は消えていなかった。長雨になったら良くないと思い、俺はとりあえず棚から大きめのタオル2枚を用意すると、ガラス窓をコンコンと軽く叩いた。
ロウはすぐに気付いた。ドアを開けて入ってきたロウに、タオルを手渡す。
「濡れただろ、これ使え。風邪でも引いたら大変だ」
「けど……」
どこか遠慮がちなロウに「いいから」と半ば強引にそれを押し付けながら、ふと視界の端に映ったものに気が付いた。
「それと、それも持ってけ」
指さしたのは、一本の傘だった。いつか自分で買ったか、あるいは客の誰かが忘れていったか。それすらも思い出せない傘だ。
それでも使えないということはないだろう。開いてみれば、中身はまだ新品のように新しかった。
「見映えは良くないかもしれないが、雨避けには充分だろう」
俺の言葉にロウは照れくさそうに笑うと、「ありがとな」と言って再び外に出て行った。
しばらくして窓の外に目を向けると、ロウが傘の下に女の子を入れ、いまだ降りしきる雨の中を通りの向こうへと歩いていくのが見えた。あいつのトレードマークの狼は不自然に傘からはみ出し、透明な水滴を被っている。おいおい、そんなんじゃお前が濡れちまうだろうが。もっと身を寄せて歩け。もちろんそんな俺の心の声はロウには届かない。
結局ロウは角を曲がるまで、肩を濡らしたまま歩いていった。そんな小さい傘でもなかったろうに、これであいつが本当に風邪でも引いたら目も当てられない。
思わずこみ上げてきた笑みで一人笑いしてしまう。どうにも、年頃のあいつらしい不器用さだなと思った。
それでも、ひとつ手助けはできただろうか。もちろんすべて返せたとは思っちゃいないので、残りの恩返しはこれからぼちぼちやらせてもらうことにする。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
双世界狼梟目撃談②
職業柄、お客さんの顔を覚えるのは得意なの。常連さんには「いつもありがとうございます」ってお礼が言いたいじゃない?
でも、その子はこの辺ではあまり見慣れない格好をしているから、2、3回店に来ただけで覚えちゃったわ。おまけに後ろのフードからいつも可愛いフクロウちゃんが覗いているんだもの。印象に残るのは当たり前よね。
ある時、彼女が男の子を連れて店に来たの。
「いい匂いがするでしょ? 私のお気に入りのパン屋さんなんだ」って言って、二人でパンをいくつか買って帰っていったわ。男の子の好みが偏っているからか、彼女が注意していることもあったわね。それくらい二人の間は近しくて、気軽なものだったようね。
そういった光景を何度か見かけてしばらくした時、彼女が一人で店に飛び込んできたことがあったのよ。
急に雨が降り出したわけでもないの。ただ、ちょっと焦った様子で店に駆けこんできた彼女は少し息を切らしていたわ。
まさか悪漢に追われているのかとも思ったけれど、違ったみたい。彼女は店の外の様子を窺いながら、何かに悩んでいるみたいだった。何度も何度もガラス窓から外を気にして、それでいて一歩踏み出せないでいるみたいだった。
どうしたのかしら、と様子を窺っていたんだけれど、彼女は少し考えてからパンを選んで買っていったわ。うちでも売れ筋のパンを2つ。
それを見て、わたしは納得したの。それからそのパンを丁寧に包んで、「いつもありがとうね」と声を掛けたの。
彼女は少し照れくさそうに笑って、ぺこっと頭を下げていったわ。フードの中にいたフクロウちゃんも、嬉しそうに目を細めていた。
あのパンはきっと仲直りのパンだったんじゃないかしら。男の子と二人で食べるために買ったパン。
彼女が買っていったのは、いつも彼女が好んで食べるような甘いパンじゃなくて、男の子の好きな大きなソーセージが乗ったパンだったから。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
職業柄、お客さんの顔を覚えるのは得意なの。常連さんには「いつもありがとうございます」ってお礼が言いたいじゃない?
でも、その子はこの辺ではあまり見慣れない格好をしているから、2、3回店に来ただけで覚えちゃったわ。おまけに後ろのフードからいつも可愛いフクロウちゃんが覗いているんだもの。印象に残るのは当たり前よね。
ある時、彼女が男の子を連れて店に来たの。
「いい匂いがするでしょ? 私のお気に入りのパン屋さんなんだ」って言って、二人でパンをいくつか買って帰っていったわ。男の子の好みが偏っているからか、彼女が注意していることもあったわね。それくらい二人の間は近しくて、気軽なものだったようね。
そういった光景を何度か見かけてしばらくした時、彼女が一人で店に飛び込んできたことがあったのよ。
急に雨が降り出したわけでもないの。ただ、ちょっと焦った様子で店に駆けこんできた彼女は少し息を切らしていたわ。
まさか悪漢に追われているのかとも思ったけれど、違ったみたい。彼女は店の外の様子を窺いながら、何かに悩んでいるみたいだった。何度も何度もガラス窓から外を気にして、それでいて一歩踏み出せないでいるみたいだった。
どうしたのかしら、と様子を窺っていたんだけれど、彼女は少し考えてからパンを選んで買っていったわ。うちでも売れ筋のパンを2つ。
それを見て、わたしは納得したの。それからそのパンを丁寧に包んで、「いつもありがとうね」と声を掛けたの。
彼女は少し照れくさそうに笑って、ぺこっと頭を下げていったわ。フードの中にいたフクロウちゃんも、嬉しそうに目を細めていた。
あのパンはきっと仲直りのパンだったんじゃないかしら。男の子と二人で食べるために買ったパン。
彼女が買っていったのは、いつも彼女が好んで食べるような甘いパンじゃなくて、男の子の好きな大きなソーセージが乗ったパンだったから。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
双世界狼梟目撃談①
まさかこんなところに天使がいるなんて。
だってあのダナだぞ。野蛮で下劣な民族が住んでいるともっぱら噂のこの地に、こんな美しい子がいるとは思わなかった。
まあ確かに、ダナとはいえこのヴィスキントの街並みは素晴らしい。聞けばここを統治していたのはあのイルルケリス家のテュオハリム様だというのだから納得した。彼は力があるだけでなくこういったセンスもしっかり持ち合わせているのだ。
きらびやかな宮殿も気に入った。中に多くのダナ人がいるのには驚いたが、これも寛大なテュオハリム様の方策だろう。
廊下の装飾や整えられた中庭も実に美しい。え? ダナ人が管理している? ま、まあダナ人にもレナの美的感覚が伝わっているのだと思えばそれも悪くない。どうかこのまま精進してほしい。
そうして興味本位で訪れた図書の間で、僕は運命の出会いを果たした。
その辺の書架を覗きながら、ふらりと部屋を巡っている時だった。
「何か探し物?」
「え……」
話しかけてきたのは、世にも珍しい衣服をまとった少女だった。
いや、少女というのは些か失礼か。おそらく年齢は僕より少し下くらいで、首元の大きなフードからは大きな目をくりくりさせた真っ白なフクロウがこちらを覗いていた。
「い、いや、別にそういうわけじゃ」
「そんな身構えなくてもいいよ。ただ、あなたが少し困ってるように見えたから」
そんなことを言われ、僕は純粋に驚いた。そんなつもりはなかったが、どうやら自分は周りからそういうふうに見えていたらしい。
とはいえダナ人の言うことだ。ここで「構わなくていい」と跳ねのけてしまうこともできたはずなのに、どうしてか僕は彼女の言うことを素直に聞き入れてしまっていた。
「探し物があるなら手伝うよ」
「探し物というほどでもないが……なら、レナの歴史関係の本があれば紹介してほしい」
「歴史! あなたも歴史が好きなの? 私もそうなんだ。っていっても、私が読むのはダナのものばかりなんだけど」
照れくさそうに彼女は笑い、目的の書架まで案内してくれた。
それだけじゃない。彼女はここのルールや使い方についても詳しく説明してくれた。僕は再び驚いた。ここへ来てこんなに親切にされたのは初めてだった。
「あ、ありがとう」と言うと、彼女はにっこり笑って、
「どういたしまして」
と言った。その笑顔の眩しさと言ったら。その日から彼女は僕の天使となったのだ。
それからは足しげく図書の間へ通った。もちろん本を読みたいのもそうだが、目的の半分、いや8割は彼女に会うためだった。
僕が訪れると、彼女もまた必ず図書の間に居た。どうやら本当に本が好きらしく、いつも分厚い本を立ったまま長時間眺めていたり、それらを何冊も借りていったりする姿も見受けられた。
それでいてほかの人への親切は忘れない。困っている人を見つけると真っ先に声を掛け、一緒に本を探したり、司書に手助けを求めたりしていた。あの親切は自分だけに向けられたものでないと知った時は少しショックだったが、それでこそ僕が見初めた天使というもの。心根の優しさこそが天使たる所以なのだ。
彼女をどこかへ誘い出したい気持ちはあったが、なかなか声は掛けられなかった。別に勇気がなかったとかそういうわけじゃない。ただ彼女が本に夢中になっているのを邪魔したくなかっただけだ。
こういう時、紳士は実に損をするなあと思う。育ちが良いばっかりに、相手の気持ちを思いやって、なかなか行動できないなんて。
それなのに最近、彼女に気安く声を掛ける男を目撃した。妙な服を着て、妙な髪形をした男だ。
肩には何故か銀の狼が乗っていた。その狼のつくりがやたらと精巧だったことははっきり覚えている。
奴は彼女が懸命に本を読んでいるのもお構いなしで声を掛けていた。何やってるんだ、彼女の邪魔だろうが。
しかし彼女の方も特に気に留めず、奴の声掛けに返答していた。それも大変可愛らしい笑顔で。それで二人はどうやら旧知の仲らしいということを知った。
誰なんだあいつは。もやもやとしたものが胸に渦巻く。
見るからにあの男は本や知識とは無縁だろう。無駄とも言えるほど鍛え上げられた腕がそれを示している。
それにあの格好。なんて野蛮な。あんな洗練されていない男は彼女には不釣り合いだ。知識欲も高く、女性の喜ぶものを多く知っている僕の方が彼女にふさわしい。絶対に今度こそは彼女を食事に誘ってみせる。
そう心に固く決めたはずなのに、事件は起きた。
街でたまたま彼女を見かけた時だ。思い切って声を掛けようとして、彼女が誰かに手を振ったのがわかった。その視線の先にいたのはなんと、例の狼の男だった。
二人は既にそういう関係だったのか!? いやいや、まだわからない。まだ希望はあるはずだ。僕はその希望を見出すため、二人を尾行することに決めた。
彼女と狼の男は並んで市場に入っていった。と思うとあちこちで買い物をはじめ、その荷物は狼の男に預けられていく。
「お砂糖も多めにもらおうかな。何せ今日は荷物持ちがいるから」
「げえっ、まだ買うのかよ」
「まいど! 兄さん、頑張んなよ!」
仕方ねえな、と男は呆れた様子を見せつつも、その荷物を軽々と持ち上げていく。くっ、なるほど、その筋肉はこういう時のためのものだったのか。自分では到底達成できないものを見せつけられたような気がして、どうにも悔しくなった。
その後も二人は日用品を買ったり、食材を買ったりしていた。屋台で買ったアイスクリームを食べる彼女の表情はそのアイスくらいに甘くとろけそうで思わず目を奪われたが、狼の男といえば、また能天気に相槌を打ってはあちこちを眺めるだけだった。せっかく彼女が話しているというのに、どこまで失礼な奴なんだ。
路地に入ろうというところで、男は何かを思い出したようにはっとした様子を見せた。そして彼女に何か声を掛けると、申し訳なさそうに手を合わせる。何か用事を思い出したらしく、どうやら今日はここで解散のようだ。
彼女も仕方なさそうに頷き、男から荷物を受け取った。少し重たそうにはしていたが、それをひょいと持ち上げる。彼女もそれなりに力があるらしい。
そうして男の後ろ姿を見送った彼女の表情を見て、思わず言葉を失った。
同時に絶望した。絶望してしまうくらいにははっきりと、その感情が読み取れた。
まさか、という思いと、やっぱりな、という思い。今日二人の姿を見た時から、いや、図書の間での仲睦まじい様子を見かけた時から薄々気が付いていた。気が付いていて、認めたくなかっただけだ。
彼女を笑わせることなら僕にだってきっとできる。彼女の好きそうな本なら見当がつくし、それを与えることでただ一時喜ばせることはできるだろう。
それでも彼女の心からの笑顔とあの寂しそうな顔は、僕が何かを与えて得られるものではない。
彼女にあんな顔をさせることができるのは――。
「おい」
突然背後から肩を叩かれ驚いた。振り返るとそこにはなんと、あの狼の男が立っているではないか。
「なっ、なん……っ」
「お前だよな、俺たちをこそこそ付けてたの。なんか用か? スリとかそういうふうには見えねえけど」
男は仁王立ちしながらこちらをまじまじと見つめてきた。やっぱりダナの奴らは野蛮だ。初対面の相手にそんな不躾な視線を送って来るとは。
そうはいってもその迫力には気圧されてしまう。「スリなんかするわけない!」と反論してやりたいのに声が出ない。膝は今にもがくがく震え出しそうだ。
「こういうのに慣れてるってわけでもなさそうだな。いったい何が目的だ? 俺はともかく、あいつに悪さしようもんなら……」
男の声がいっそう低く、鋭くなった。そこではっとする。あいつ。
まさかこの男は、ずっと気が付いていたのか? それで彼女が家に戻る前に解散し、僕を追ってきた。
彼女との時間を短くしてまで。ほかならない、彼女の安全のために。――なるほど、完敗だ。
僕は心の中で(お前なんか!)と悪態をつくと、
「す、すみませんでした――!!」
その場に勢いよく手をついて頭を下げたのだった。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
まさかこんなところに天使がいるなんて。
だってあのダナだぞ。野蛮で下劣な民族が住んでいるともっぱら噂のこの地に、こんな美しい子がいるとは思わなかった。
まあ確かに、ダナとはいえこのヴィスキントの街並みは素晴らしい。聞けばここを統治していたのはあのイルルケリス家のテュオハリム様だというのだから納得した。彼は力があるだけでなくこういったセンスもしっかり持ち合わせているのだ。
きらびやかな宮殿も気に入った。中に多くのダナ人がいるのには驚いたが、これも寛大なテュオハリム様の方策だろう。
廊下の装飾や整えられた中庭も実に美しい。え? ダナ人が管理している? ま、まあダナ人にもレナの美的感覚が伝わっているのだと思えばそれも悪くない。どうかこのまま精進してほしい。
そうして興味本位で訪れた図書の間で、僕は運命の出会いを果たした。
その辺の書架を覗きながら、ふらりと部屋を巡っている時だった。
「何か探し物?」
「え……」
話しかけてきたのは、世にも珍しい衣服をまとった少女だった。
いや、少女というのは些か失礼か。おそらく年齢は僕より少し下くらいで、首元の大きなフードからは大きな目をくりくりさせた真っ白なフクロウがこちらを覗いていた。
「い、いや、別にそういうわけじゃ」
「そんな身構えなくてもいいよ。ただ、あなたが少し困ってるように見えたから」
そんなことを言われ、僕は純粋に驚いた。そんなつもりはなかったが、どうやら自分は周りからそういうふうに見えていたらしい。
とはいえダナ人の言うことだ。ここで「構わなくていい」と跳ねのけてしまうこともできたはずなのに、どうしてか僕は彼女の言うことを素直に聞き入れてしまっていた。
「探し物があるなら手伝うよ」
「探し物というほどでもないが……なら、レナの歴史関係の本があれば紹介してほしい」
「歴史! あなたも歴史が好きなの? 私もそうなんだ。っていっても、私が読むのはダナのものばかりなんだけど」
照れくさそうに彼女は笑い、目的の書架まで案内してくれた。
それだけじゃない。彼女はここのルールや使い方についても詳しく説明してくれた。僕は再び驚いた。ここへ来てこんなに親切にされたのは初めてだった。
「あ、ありがとう」と言うと、彼女はにっこり笑って、
「どういたしまして」
と言った。その笑顔の眩しさと言ったら。その日から彼女は僕の天使となったのだ。
それからは足しげく図書の間へ通った。もちろん本を読みたいのもそうだが、目的の半分、いや8割は彼女に会うためだった。
僕が訪れると、彼女もまた必ず図書の間に居た。どうやら本当に本が好きらしく、いつも分厚い本を立ったまま長時間眺めていたり、それらを何冊も借りていったりする姿も見受けられた。
それでいてほかの人への親切は忘れない。困っている人を見つけると真っ先に声を掛け、一緒に本を探したり、司書に手助けを求めたりしていた。あの親切は自分だけに向けられたものでないと知った時は少しショックだったが、それでこそ僕が見初めた天使というもの。心根の優しさこそが天使たる所以なのだ。
彼女をどこかへ誘い出したい気持ちはあったが、なかなか声は掛けられなかった。別に勇気がなかったとかそういうわけじゃない。ただ彼女が本に夢中になっているのを邪魔したくなかっただけだ。
こういう時、紳士は実に損をするなあと思う。育ちが良いばっかりに、相手の気持ちを思いやって、なかなか行動できないなんて。
それなのに最近、彼女に気安く声を掛ける男を目撃した。妙な服を着て、妙な髪形をした男だ。
肩には何故か銀の狼が乗っていた。その狼のつくりがやたらと精巧だったことははっきり覚えている。
奴は彼女が懸命に本を読んでいるのもお構いなしで声を掛けていた。何やってるんだ、彼女の邪魔だろうが。
しかし彼女の方も特に気に留めず、奴の声掛けに返答していた。それも大変可愛らしい笑顔で。それで二人はどうやら旧知の仲らしいということを知った。
誰なんだあいつは。もやもやとしたものが胸に渦巻く。
見るからにあの男は本や知識とは無縁だろう。無駄とも言えるほど鍛え上げられた腕がそれを示している。
それにあの格好。なんて野蛮な。あんな洗練されていない男は彼女には不釣り合いだ。知識欲も高く、女性の喜ぶものを多く知っている僕の方が彼女にふさわしい。絶対に今度こそは彼女を食事に誘ってみせる。
そう心に固く決めたはずなのに、事件は起きた。
街でたまたま彼女を見かけた時だ。思い切って声を掛けようとして、彼女が誰かに手を振ったのがわかった。その視線の先にいたのはなんと、例の狼の男だった。
二人は既にそういう関係だったのか!? いやいや、まだわからない。まだ希望はあるはずだ。僕はその希望を見出すため、二人を尾行することに決めた。
彼女と狼の男は並んで市場に入っていった。と思うとあちこちで買い物をはじめ、その荷物は狼の男に預けられていく。
「お砂糖も多めにもらおうかな。何せ今日は荷物持ちがいるから」
「げえっ、まだ買うのかよ」
「まいど! 兄さん、頑張んなよ!」
仕方ねえな、と男は呆れた様子を見せつつも、その荷物を軽々と持ち上げていく。くっ、なるほど、その筋肉はこういう時のためのものだったのか。自分では到底達成できないものを見せつけられたような気がして、どうにも悔しくなった。
その後も二人は日用品を買ったり、食材を買ったりしていた。屋台で買ったアイスクリームを食べる彼女の表情はそのアイスくらいに甘くとろけそうで思わず目を奪われたが、狼の男といえば、また能天気に相槌を打ってはあちこちを眺めるだけだった。せっかく彼女が話しているというのに、どこまで失礼な奴なんだ。
路地に入ろうというところで、男は何かを思い出したようにはっとした様子を見せた。そして彼女に何か声を掛けると、申し訳なさそうに手を合わせる。何か用事を思い出したらしく、どうやら今日はここで解散のようだ。
彼女も仕方なさそうに頷き、男から荷物を受け取った。少し重たそうにはしていたが、それをひょいと持ち上げる。彼女もそれなりに力があるらしい。
そうして男の後ろ姿を見送った彼女の表情を見て、思わず言葉を失った。
同時に絶望した。絶望してしまうくらいにははっきりと、その感情が読み取れた。
まさか、という思いと、やっぱりな、という思い。今日二人の姿を見た時から、いや、図書の間での仲睦まじい様子を見かけた時から薄々気が付いていた。気が付いていて、認めたくなかっただけだ。
彼女を笑わせることなら僕にだってきっとできる。彼女の好きそうな本なら見当がつくし、それを与えることでただ一時喜ばせることはできるだろう。
それでも彼女の心からの笑顔とあの寂しそうな顔は、僕が何かを与えて得られるものではない。
彼女にあんな顔をさせることができるのは――。
「おい」
突然背後から肩を叩かれ驚いた。振り返るとそこにはなんと、あの狼の男が立っているではないか。
「なっ、なん……っ」
「お前だよな、俺たちをこそこそ付けてたの。なんか用か? スリとかそういうふうには見えねえけど」
男は仁王立ちしながらこちらをまじまじと見つめてきた。やっぱりダナの奴らは野蛮だ。初対面の相手にそんな不躾な視線を送って来るとは。
そうはいってもその迫力には気圧されてしまう。「スリなんかするわけない!」と反論してやりたいのに声が出ない。膝は今にもがくがく震え出しそうだ。
「こういうのに慣れてるってわけでもなさそうだな。いったい何が目的だ? 俺はともかく、あいつに悪さしようもんなら……」
男の声がいっそう低く、鋭くなった。そこではっとする。あいつ。
まさかこの男は、ずっと気が付いていたのか? それで彼女が家に戻る前に解散し、僕を追ってきた。
彼女との時間を短くしてまで。ほかならない、彼女の安全のために。――なるほど、完敗だ。
僕は心の中で(お前なんか!)と悪態をつくと、
「す、すみませんでした――!!」
その場に勢いよく手をついて頭を下げたのだった。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
初めて手に入れた端末は、最新の機種だった。
努力の末の勝利だった。周りの友人は皆持っているのに自分だけどうして、勉強頑張るからお願い、と両親に必死に頼み込んでようやく了承を得たのだ。
言われた通りの成績を保ち続けること約半年。手のひらサイズのそれへと形を変えた努力の結晶は、今私の手の中で光り輝いていた。
早速連絡先を登録していく。両親の番号とアドレスを打ち込み、次はと考えて思いついたのは、幼馴染のあいつだった。
既に番号は聞いていた。今日両親と一緒に買い物に行くことを伝えた際、すぐに登録できるようメモをもらっていたのだ。
番号を打ち込んでロウの名前を登録する。そういえば、アドレスの方は聞いていなかった。まあいいか、それはまた今度でも。ロウの家は目と鼻の先。アドレスくらい、聞きに行こうと思えばいつでも、すぐにでも会いに行けるのだから。
そこでふとイタズラ心がわいた。今電話を掛けたら、ロウはびっくりするんじゃないか。まさかすぐそばに暮らしている私から突然電話が掛かってくるとは夢にも思うまい。
ついでにこちらの番号も教えられてちょうどいい。私は迷うことなく、電話帳から登録したばかりのロウの名前を引っ張り出してきた。
通話ボタンを押すことにもためらいはなかった。数回の呼び出し音の後で、プツッとそれが途切れる音がした。
〈――もしもし?〉
「……――!」
聞こえてきた声に、私は思わず端末を耳から離してしまっていた。咄嗟に通話終了のボタンを押してしまう。
もう一度メモと履歴の番号を見比べる。間違いはない。でもあの声は――。
そこで画面が切り替わった。表示された『ロウ』の文字に驚きながらも、そっと通話ボタンを押す。
「も、もしもし……?」
〈もしもし?〉
聞こえてきた声は、やっぱり馴染みのないものだった。
〈お前、リンウェルだろ。いきなりかけてきたと思ったらすぐ切りやがって〉
呆れたような声色にいつもの調子。これは、この声は間違いなくロウだ。
〈知らない番号ですぐ切るなんて、イタズラかと思っただろ。端末買うって話聞いてなきゃ迷惑電話に登録するところだったぜ〉
「ご、ごめん。まだ操作に慣れてなくて、間違って切っちゃったの」
私がそう言うと、端末の向こうでロウが笑った。
〈お前意外と機械オンチなのか? 前から俺のいじってたりしてたくせに〉
「うるさいな。ロウのとは違って最新の機種だから、いろいろ慣れてないだけ!」
言いながら、私は緊張と戸惑いを必死に抑えていた。向こうから聞こえてくるのは確かにロウの声だ。でも、なんだかそれはいつもとはまったく違って、まるで別の人のように聞こえるのだった。
そういえば、と思い出す。こういう端末を通して聞こえる声は、本人の声とは違うものじゃなかったっけ。機械の中で限りなく近い音声を合成しているとかなんとか。詳しくはよくわからないが、この世の技術の集合体みたいな端末ならそれも可能だろう。
それにしたって、その声は――。
〈リンウェル?〉
(……――ちょっと、かっこよすぎない?)
いつもより低くて落ち着いた声。それがすぐ耳元で鳴り響くものだから、緊張しないわけがない。
機械越しとはいえ、本人のとはまったくの別物だとはいえ、あのロウにドキドキさせられるなんて。
私はロウの見えないところで密かに口をへの字に曲げたのだった。
「ところで、ロウ」
〈なんだ?〉
「ロウの番号知ってる人って、他に誰がいるの?」
〈なんだよ急に〉
「いいから。どんな人に教えてるんだろうなって」
〈そうだな……まずは親父だろ、あとはその会社の奴らと、お前〉
「うん」
〈あとは、部活の奴と、バイト先の先輩とか。それとクラスの奴らもだな〉
「それって女子も含めて?」
〈? そうだな。たまにクラスで集まる時とか連絡もらうからよ〉
「そっか」
〈それがどうかしたか?〉
「ううん、別に」
〈?〉
「……でも、あんまり電話はしないでね」
〈……え?〉
終わり畳む
#ロウリン #学パロ