気まぐれ文章

短いのとかそうでないのとか

習作④

 身体が鉛のように重い。一歩、また一歩、両脚を引きずるようにして前に進む。ただ前進するというだけで、こうも努力が必要なものか。
 別に、体調が悪いわけじゃない。ヴィスキントに来るまでの護衛任務だってケガひとつ負わなかったし、熱っぽいわけでもなかった。寝不足でもなければ、休みが取れていないわけでもなく、食事だって毎食きちんと摂れていた。
 そもそも、そういうふうに感じること自体に納得がいっていない。何を気を重たくするようなことがあっただろう。振り返ってみても、思い当たることなどひとつもない。いつものように日常を過ごし、いつものように仕事をこなしてきただけ。
 そうだ。カラグリアで「さすがジルファの息子だ」などと持て囃されることも、シスロディアで数年前まで同じ隊服を着ていた連中に陰口を叩かれることも、何らいつもと変わらない。すべてよく目にする、耳にする日常の範囲内のはずだ。
 言い聞かせて、ひたすら通りを進んだ。市場の喧騒も、客引きの声も聞こえない。ただ風に流される葉のごとく、導かれるまま足を動かす。
 やがて辿り着いたドアをノックすると、奥からは拍子抜けするほど明るい声が聞こえた。数秒ののち、ぎいっと開かれた扉の隙間からひょっこりとリンウェルが覗いた。
「いらっしゃい。今日は少し早かったね」
 まるで花のような笑みを浮かべてリンウェルは言った。その香りに誘われるかのようにして部屋に足を踏み入れる。
 すぐ前を行くリンウェルの足取りはどこか弾んでいるようにも見えた。何かいいことでもあったのだろうか。横顔からは鼻歌さえ聞こえてきそうだ。
「お仕事お疲れ様。ケガはない? ズーグルには遭わなかった?」
「ああ」
「何か食べる? ってまだ夕飯には早いけど。お茶でも淹れる?」
「……そうだな」
 いつもより口数の少ない俺に気付いたのだろう。リンウェルが首を傾げつつ、こちらを覗き込んでくる。
「ロウ? どうかした?」
「……いや、」
 なんでもない、と言うつもりで首を振った。そのままいつもみたいに軽く笑って、腹が減っただけだ、とでも誤魔化せばよかったのに。
 その大きな瞳に見つめられたら、それまで頭の中にあったものはすべて消し飛んでしまった。
「リンウェル」
 返事が返ってくる前に、その肩口に額を押し付ける。
「…………疲れた」
「……そっか」
 やがて小さく笑う声が聞こえてきたかと思うと、優しい指が髪を撫でる感触がした。

 リンウェルは何も聞かなかった。穏やかに笑みを浮かべながら、いつものようにソファーで本を開いて、「今日だけ特別ね」と肩を貸してくれた。
「ロウがこんなふうになるなんて、結構頑張ったんだね」
 別にそうでもない、と言おうとして、声が出ない。口を開くのも億劫で、ただ怠惰なまま頭をもたれかける。
「頑張りすぎは良くないけどね。ロウのことだから、自分の限界を知らないんだろうけど」
 言いつつ、リンウェルは本のページをめくった。普段読んでいるものよりは絵が多い気もしたが、それでも隙間には小さい文字がうじゃうじゃと蠢いていた。それらは今にも這い出してきそうで、想像しては背筋が震え上がった。
「でも、爆発する前に言ってくれてよかった。ロウはそういうののコントロールが下手だから」
「……別に、」
 そこでようやく声が出た。
「そういうつもりはねえけど」
「そうかな。でもロウ、何かと我慢しがちでしょ? 少しでも自分に非があると思えば、すぐに黙り込んじゃうじゃない」
 うっと言葉に詰まったのは、図星を突かれたというよりは、再認識させられたからだ。
 自分はどうやら思った以上に人の言葉を気にしていたらしい。それも今は変えられない、過去のことに関してはことさら。
 積もりに積もったそれが、こうして身も心も重くしていた。見てみぬふり、感じていないふりなどできないと頭ではわかっていたのに。
 情けないな、と思う。いつまでも過去に囚われて、引きずって。
 しまいには肩にもたれかかっている。自分よりもずっと薄くて細いリンウェルの肩に。
 本当なら逆じゃないのか。俺が肩を貸すべきじゃないのか。思いながら、俺は頭をもたげることもなく、文字を追うリンウェルの指を呆然と眺めた。
「落ち込んでるでしょ」
 少し笑いを含んだ声でリンウェルは言った。
「もしくは拗ねてる?」
 返事はしなかった。それは返事をしたも同じことだが。
「余計なことを考えちゃう時は、寝た方がいいんだよ」
 そんなリンウェルの提案に、けど、と思わず呟く。
「私は大丈夫だよ。本読んでれば、重さとか気にならないし。それにもうすぐ夕方だしね。邪魔になったら、その時起こすから」
 邪魔とはまた随分な言い草だ。そう思いつつ、俺はその言葉に甘えて目を閉じることにした。たちまちどこからか睡魔の足音が聞こえてくる。
「じゃあ、少しだけ」
「うん。どうぞ」
 おやすみ、と言うと、おやすみ、とすぐに返ってきた。安心する、と思ってから数分も経たないうち、意識はそこでぷつっと途切れた。
 
 目が覚めたのは、スパイスの良い香りがしたからだ。ふと見ると俺はソファーに横になっていて、身体には毛布が掛かっていた。
 いつの間に。どうやら一連の流れにまったく気が付かないほどに眠りこけてしまっていたらしい。
「あ、起きた?」
 キッチンに立ったリンウェルがちらりとこちらを振り返る。
「あまりにもよく寝てたから、そのまま起こさなかったんだ」
 珍しく熟睡してたみたいだね、と言われて、身体が軽くなっていることに気が付いた。ぼうっとしていた頭も冴えて、幾分すっきりしたみたいだ。
「どう? よく休めた?」
「ああ、おかげさまでな」
 ありがとな、と言うとリンウェルは鍋の方を向いたまま、「どういたしまして」と言った。
 それからはリンウェルの作ったカレーを2人で食べた。デザートが出る頃には散歩に行っていたフルルが窓から帰ってきて、俺とアイスクリームの争奪戦になった。「そもそもそれは俺に出されたデザートだ」と俺が主張する一方、フルルは「お前がいなかったらこれは自分のものになっていたはずだ」と羽をばたつかせた。結局は半分にすることで決着したが、リンウェルはその様子を見て終始くすくすと笑っていた。
 後片付けを終える時分には、空には星が瞬くようになっていた。俺は元々取っていた宿に戻るため、どうにも重たい腰を上げた。
 玄関先で別れる時、俺はリンウェルに改めて礼を言った。
「今日は、ありがとな。ソファーも、毛布も借りちまって」
 肩まで借りたことは、敢えて言わない。
「夕飯の手伝い、何もできなくて悪かったな。せめて土産の1つでも買ってこられたら良かったんだけど……」
 今さら自分の気の利かなさに愕然とする。いくら疲弊しきっていたとはいえ、家に上がらせてもらう以上、それなりの礼儀はわきまえるべきなのに。
 思えば今日は駄目な1日だった。気分も、リンウェルへの対応も。着いて早々愚痴って、ソファーを独り占めして眠ってしまうなんて。
 それこそ反省すべきじゃないのか。俺の人生は丸ごと反省と後悔に染まっているのかもしれない。
 項垂れていると、
「いいよ、そんなの」
 リンウェルが首を振った。
「別にお土産があるとか気にしてないし。あ、もちろんもらえたら嬉しいけどね? でも、それありきでロウが来るのを楽しみにしてるんじゃないんだよ」
 思わず顔を上げた。リンウェルは俺が来るのを楽しみにしてくれているのか。
 胸が小さく高鳴ったかと思ったのに、リンウェルは続けて思いついたように言った。
「もう1つ言っておくと、かっこいいロウにも期待してないから」
「え」
「だってそうでしょ。そんなのロウであってロウじゃないよ。無理してかっこつけたロウなんか、ロウじゃない」
 リンウェルが小さく口を尖らせる。
「私の前ではそんなふうに取り繕わないでよ。今日みたいに、がっくりもたれかかってくれればいいの」
「けど……」
 俺は決まり悪くなって頭を掻いた。
「お前にあまり情けないところ見せたくないっつーか」
 意を決して言ったのに、
「私が言ってるんだからいいでしょ。というか、他の人にあんなことしたら承知しないから」
 などとリンウェルは言う。
「ロウがほかの人に見せられないような顔は、私の前でしてくれればいいから。むしろ、私以外の前で見せないで」
 いい? と念を押されて、俺は思わず頷いた。よろしい、と言ってリンウェルが笑う。
「じゃあ、帰りも気を付けてね。ケガにもズーグルにも」
 言いくるめられたような気がしたが、そこまで気にはならなかった。扉を開いて、リンウェルの家を出る。
 空には満天の星が輝いていた。きっとおそらく明日も、晴れるに違いないと思った。

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#ロウリン
双世界狼梟目撃談④

「誰にも得意分野はあるもんだな」
 おれの作った工芸品を見て、地元の奴らはそんなふうに言う。呆れ6割、感心3割の表情で頷き、最後に同情1割の笑みを見せる。
「この熱意がほかにも向けばなあ。引きこもってばっかじゃ、恋人の1人もできないぜ?」
「余計なお世話だ。いいんだよ、おれはこれさえ作っていければ」
「んなこと言ったって、お前のその性格じゃ商売にも向かないだろ? さっきだって、客に声もかけられなかったじゃねえか」
「うぐ……」
 口ごもったおれに、友人はまた小さく笑って言った。
「まあ、がんばれよ。今度ヴィスキントに行くんだろ」
 強気で行けよな。商売も、それ以外も。記憶の中の友人の言葉に、思わず「わかってるよ」と言い返した。わかっている。本当に頭の中ではわかっているのだ。
 でもどうしてか、声はかけられないんだよなあ。
 広場のど真ん中でひとりため息を吐く。自作のアクセサリーを並べた露店には、見事に閑古鳥が鳴いていた。
 人がいないわけじゃなかった。今朝から店を開けてはいるが、広場の周りを歩く人はそれなりにいるし、ほかの露店にはちらほら客が訪れているようだった。向こうの店の店主は若い男女と談笑し、また違う店では新たな商品を並べる作業に入っている。つまりは、自分の店だけが見向きもされていないのだ。
 並んでいるものは悪くないと思うんだけどなあ。念願のヴィスキントに行けると決まってから、気合を入れて製作したアクセサリーたち。いつにも増して輝いて見えるのは、もしかしておれだけなのか。
 せめて少しくらい、と思う。「ちょっと見ていきませんか?」の一言くらい、気軽に言えたら良かったのに。こういう商売をしていて客に声もかけられないだなんて、あまりに致命的すぎやしないか。
 わかっていても、それが実践できたためしはなかった。さっきも通りがかりに一瞥をくれた女性に何も言えずじまい。女性が店の前を通り過ぎるのをぼうっと眺めていただけで、半開きになった口からは薄く息が漏れるだけだった。
 結局、あいつの言う通りか。また小さくため息が零れる。こんなんじゃ商売も上手くいかなければ、恋人ができることもないだろう。挨拶ひとつまともにできないおれが、誰かに気の利いた言葉を吐けるなどとは到底考えられない。いつまでもどこまでもひとりきり、ただモノ作りに励むだけ。
 今はそれでもいいかと思った。そう思えるほどには、おれはこの工芸品たちを愛していた。 
 日も高くなり、午前はこれで終わりかと思っていた時だった。
「わあ、きれい!」
 目を輝かせた少女が、ふと露店の商品を覗き込んできた。少女は世にも珍しい装飾の上着を纏い、そのフードには目をまん丸にくりくりさせた白フクロウを連れていた。
「お兄さん。これ、手に取って見てみてもいい?」
「あ、ああ、もちろん」
 ありがとう、と口にした少女は、早速並んでいた髪飾りに手を伸ばした。装飾を太陽に透かしたり、手のひらで光を反射させたりしながら、色の変わり具合を楽しんでいた。
「なんだお前、そういうのが好きなのか」
 横から現れたのは、目立つ髪色をした青年だった。それよりも目立つ銀色の狼を肩に乗せ、いかにも親しげに少女に話しかける。
「さっきの店にも似たようなの置いてただろ。向こうの方のが宝石もついてて高そうだったし、きれいだったじゃねえか」
「まったく、ロウはわかってないなあ。あっちはきれいだけど、こっちは可愛いの。それに宝石よりガラス細工の方が素朴な感じがして、親しみやすいっていうか」
 そこまで言ってからおれと目が合った少女は、はっとしたように口元を押さえた。
「ごめんなさい。別にそういうつもりじゃ」
「いや、気にしなくていい。むしろそう言ってもらった方が、こっちとしても嬉しいよ」
 よかった、と少女はほっとしたような顔をしてみせた。安堵しながらも少し照れくさそうに笑った表情が年相応に見えて、とても愛らしい子だなと思った。
 続いて少女は装飾のついたバレッタを手に取った。こちらもいろいろな角度に傾けながら、宝石顔負けの輝かしい瞳でそれを見つめている。
「さっきのもいいけど、これも可愛いなあ。あ、でも、これだともう少し髪の長さが必要かも」
 うーんと顎に手をやり、数秒考えたところで、少女は背後でぼうっと立ちすくんでいた青年に問いかけた。
「ねえ、ロウ。ロウは、どっちがいいと思う?」
「どっちって?」
「これと、さっきの。さっきのは今も着けられるけど、こっちはもうちょっと髪が長くないと着けられなさそうなんだよね」
 少女は自身の前髪を指先で弄りながら言った。
「ロウは髪が長いのと短いの、どっちが好き?」
 すると青年は、
「俺にそれを聞いて、お前はどうすんだよ」
 と言った。
「え?」
「もし俺が、長いのがいいって言ったら?」
 少女は指先に絡まった髪と、手元の髪飾りを交互に見ながら、
「……伸ばそっかな」
 と呟いた。
「ふーん。ま、俺はどっちも似合うと思うけどな」
 ってことで、両方くれ。青年が髪飾りと紙幣を差し出してきたのを見て、ようやくおれはそれが自分に向けられた言葉だと気が付いた。
「あ、ああ。まいどあり」
 摘まみ損ねた釣銭を改めて数え直し、青年の手のひらに乗せる。
 一連の流れに少女は呆気に取られていたが、
「ほらよ」
「えっ、ちょ、ちょっと!」
 青年から2つの髪飾りを受け取るなり、慌てた様子で青年の後を追って行った。2人の背中はすぐに遠ざかり、通りの向こうへと消えていった。
 呆然としながら、おれはやっと肩の力を抜いた。なんだかすごいものを見てしまった、そんな気がした。
 世界は広いんだな。あんな若くても、あんな言葉が言えるんだ。
 おれはまたヴィスキントに商売しに来ようと思った。懲りずに工芸品を作って、懲りずに売りに来よう。そうしていつかは客に声を掛けられるようになりたいと、強くそう思った。

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※付き合ってない
 #ロウリン #モブ視点
習作③

 私は夜が好き。
 真っ暗な静寂の幕が下りて、街も森も、生きとし生けるものすべてただ星に見守られるだけのこの時間が好きだ。
 私が生きる世界には、最初からごく当たり前のように夜しかなかった。だから闇は恐ろしいものじゃなく、ただいつもそこにある空気や水と同じような存在で、時には深い悲しみさえも覆ってくれる頼もしい友人のようでもあった。
 むしろ、陽の光の方が苦しく感じられるくらい。心に隠してきた影をはっきりと浮き彫りにしてしまうそれは、暗い闇の中を彷徨い続けてきた私にとってはあまりに眩しすぎるものだった。
「心に染みひとつない奴なんかいない」
 この言葉に、私はどれだけ救われただろう。仲間の皆はおろか、自分とさえも向き合えないでいた当時の私に、不意に放たれたこの言葉は大地に吹きすさぶ風のように響いた。同時に自分の心にある何もかもを赦された気がして、すうっと胸が軽くなったのを覚えている。
 その言葉を放った張本人といえば、今は私の隣で何やらむにゃむにゃと寝言混じりになっているけれど。休む準備を終えてベッドの上に転がり込んできたのも束の間、ロウはそれから数分も経たないうち、重たい瞼に抗えなくなってしまった。
 夢と現実の狭間、いやもうほとんど夢の側に落ちてしまったロウは、穏やかな寝顔を覗かせていた。「眠いの?」「寝るなら毛布被って」という私の問いかけにも「うん……」「そうかもな……」などと曖昧な返事をして、そのくせ身体を持ち上げようとはしない。
 まったくもう、ロウってばいつもこうなんだから。私は呆れ半分に息を吐き、まだ読みかけの本をサイドテーブルに置いた。下敷きになっている毛布を無理やり引っ張り上げ、それをロウの体へと被せてやる。イモムシのように丸まった背中と、お風呂上がりで萎れた前髪が、そのあどけない寝顔をどうにも幼くさせていた。
 以前、街で女の子たちがロウの話をしているのを聞いたことがある。基本的にロウの周りにいるのは男性ばかりだが、その分け隔てない親切さゆえか、たまに一部の女の子から密かな人気を集めることがあるのだ。
 彼女たちはロウの髪をオシャレだと言っていた。
「あの髪って、いつも自分で整えてるのかな」
「変わった色してるよね。ほかじゃなかなか見ないっていうか」
 ロウの髪に関しては、私もまあまあオシャレなんじゃないかと思っている。色はともかく、毎朝早起きしてきちんと髪型を整えているのを見ると、健気だなあとまるで親のようなことを思わないでもない。元はモテたかったからなどという何の捻りもない理由がきっかけだったらしいが、私という存在がある現在に至ってもその習慣を続けているのは、もはやそうするのが体に染みついてしまっているからのようだ。
「身だしなみには気を付けねえとな」
 そんなことを鼻を鳴らして言うロウだったが、だったら先にその裾のほつれたズボンをなんとかした方がいいと思う。ついでに言えば、今日穿いている靴下に穴が空きかけていることも私はよく知っていた。
 まだまだ脇が甘いロウ。格好のつけ切れないロウ。
 夜、お風呂から上がってタオルで髪を拭っているロウを見ると、私はいつも口元が緩みそうになる。ふとした視線にロウは「なんだよ」と首を傾げるが、私はううんと首を振ってみせる。「なんでもない」と口にした唇の端が僅かに持ち上がっているのを、開いた本で覆い隠しながら。
 優越感とは違う。だって、別にあの女の子たちはロウのこういう姿を見たいわけでもないだろう。
 ただ私は嬉しく思うのだ。外で皆のため、世界のために力を尽くすロウ。そして私の部屋で肩の力を抜き、一日を終えようとしているロウ。ロウが昼と夜で異なる顔を持つということを、この世で私だけが知っている。
 へたり込んだ前髪はまるで一日中気を張り続けていたロウそのもののようで、朝にはきっちり整えられていたそれも、夜になった途端こんなふうに萎れてしまうのだと思うと可笑しくて堪らなかった。
 それくらい毎日頑張っているんだよね。私はその努力を知っている。できることは全力で、できないことにもできないなりに必死になって手足を動かすロウは、きっと少しずつでも世界を動かしている。「自分にそんな力はない」とよく遠慮がちに言うけれど、そんなことはない。そう思っているのはおそらく私だけじゃなく、周りの皆も同じはずだ。
 何故なら、世界を動かす人は言葉通りの力を持っているわけじゃなく、世界のために人を動かす力を持っている人のことだと思うから。
 今夜のロウの眠りも深いようだ。私がどれだけ近づこうと、頬にかかった前髪を指で払おうと、その瞼はぴくりとも動かない。案の定、頬に唇を触れさせたって、ロウの寝息は規則正しいままだった。普段外で行動している時は、あんなにも周りの気配に敏いのに。
 それくらい、安心して眠ってくれているということかな。あるいはただ本当に、身体の芯から疲れ切っているだけかもしれないけれど。
 どっちだって良い。ロウが心も体も休められているのなら。それが私の隣でというなら。
 私はやっぱり、夜が好きだ。
 フルルと本と、そして傍らで眠るロウ。
 星が見守る私の世界は、こんなにも満ちている。
 明日が来るのが惜しいと思えるくらい、今日が幸福なのだ。

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#ロウリン
習作②

 どちらかと言えば、朝が好きだ。
 確かに、カーテンを突き抜けて目を刺してくる光や、どこかから聞こえてくる甲高い鳥の声には思わず顔をしかめたこともあった。今だってもう少し毛布に包まっていたいと思う日がないわけでもないが、それでもやっぱり身体の重たくなる夜よりはすっきり目覚めて疲れの取れた朝の方が好ましい。
 そんなふうに思うのは、もしかしたら幼い頃の習慣によるものかもしれない。朝は新しい1日の始まり。1日の始まりは新しい鍛錬の始まり。親父の振るう拳に憧れ、1日でも早くそれに近づきたかった俺は、朝起きてから夜眠るまでのほとんどの時間を体を鍛えることに費やしていた。本当は眠る暇さえ惜しかったが、それではいけない、成長出来ないと親父に言われ、渋々寝床で目を瞑っていた。とはいえ疲れ切った体が夢に落ちるまでに、そう時間もかからなかったが。
 早朝に目を覚ましては日差しを浴びながら親父と一緒に体を動かす。前日に教えてもらったことができていないと容赦なく拳が飛んできた。今思えばなかなかに理不尽かつ厳しい毎日だったが、それでも口元が緩みそうになるのは、決してそれが辛い思い出ではなかったということだ。あのカラグリアの燃える朝日に貫かれながら突き出した拳は、今も確実に自分の中に息づいていた。
 そういう意味では、この地――シスロディアの朝はちょっと違うかもしれない。カーテンを開けて射しこんでくる光は、どちらかと言えば、太陽の光が雪に反射したものだ。
 その眩しすぎる光に目を焼かれながら、俺は今朝もそっと寝室を抜け出した。洗面台で顔を洗い、用意されている服に着替えを済ませる。
 リビングの暖炉の火がくすぶっているのを見て、俺はまたその上に新たな薪を組んで火を点した。たちまち、パチパチという音と共に小さな炎が上がる。真っ赤に染まるそれはかつて故郷で見た太陽の色にも似ている気がした。
 暖炉など生まれ故郷ではほとんど馴染みがないものだった。当然使い方も知らなかったが、ここで暮らし始めた時に同居人にみっちり扱かれることになった。
「きちんと覚えてね。本当に命にかかわることだから」
 明るい調子で言うものの、それが大げさでないということはすぐにわかった。何せここの寒さは尋常ではない。薪を切らそうものなら部屋どころか、そこで過ごす自分たちまで凍えて動けなくなってしまうだろう。
 それでいて手入れにもなかなか手間がかかってしまうのも難点だ。掃除を怠れば逆に煙が充満して、それこそ命が危ないのだという。
 なんてものを使わせるんだ、これならレナの技術でなんとかした方がいいんじゃないか、などと思いながら、それでも温かみのある炎にはつい見入ってしまう。暖炉の揺らめく炎の前で本を読むのが好きだというあいつの主張が、ここに住むようになってなんとなくわかった気がした。
 点きたての暖炉の火が消えないよう目を配りながら、キッチンで朝食用のパンを切り分けた。コンロで卵とベーコンを端がカリカリになるまで焼き、カットしたトマトや果物を皿に一緒に盛り付ける。
 それをテーブルに2人分用意した後で、小皿には専用の餌を入れてやった。ビスケットのような見た目をしたそれは思った以上にカロリーが高いらしく、与える量には気を付けるよう言われていたが、それを口にする本人は皿の中身を覗いてはいつもどこか不満そうにしているのだった。
 あとはミルクを温めるだけという段階に来たところで、俺はもう一度寝室に向かった。こんもりと盛り上がった毛布の中。表面を覆うそれを1枚めくり上げれば、いまだすやすやと穏やかな寝息を立てる彼女の寝顔が覗いた。
「リンウェル、朝だぞ」
 名前を呼ばれたことに一瞬だけ反応を見せたと思ったのも束の間。リンウェルは眉間の辺りにしわを寄せた後で、またすぐに毛布の中へと引っ込んでいってしまう。
 こんな小動物どこかにいたよなと思いつつ、俺はさらにその毛布を剥ぎ取った。たちまち険しい顔をしたリンウェルだったが、その目はまだ開かれない。それと同時に伸びてきた手は普段よりもずっと強い力が込められていて、全力で俺から毛布を奪い返そうとしてくる。
 朝のリンウェルはいつもこうだ。拒否、拒絶。絶対にベッドから出てやらないという強い意思を持って、親切にも起こしに来た俺に必死の抵抗を見せる。具合が悪いわけでもなければ、結果として一日中そこに居るわけでもないのに。
「もう5分……」
「んなこと言って、起きたためしねえだろ」
「今日は起きるもん……」
「5分も今も同じだ。なら今起きろ」
 それでも俺は根気よく交渉を続ける。時には厳しく毛布を剥ぎ取り、時には優しく声を掛けては、リンウェルが起き上がるのを辛抱強く待ち続ける。
「うー……まだ寒いじゃん……」
「暖炉ならつけたぞ。部屋もあったまってきてる」
「ご飯だって……」
「それももうできた。あとは飲み物だけだ」
 望むものはすべて用意してやったというのに、それでもリンウェルは「うーん……」だの「もうちょっと待って……」だの駄々をこねる。今朝はどうやら厄介なパターンに入ったらしい。だったら――。
「なら仕方ないか。俺先食うな。お前の分はちゃんと残しといてやるから、安心しろよ」
 その言葉を聞いた途端、
「それは、嫌……」
 リンウェルがむくりと起き上がった。
「一緒に食べる……」
 半分寝ぼけながらも口はへの字に曲がっていた。と思うと、腕を伸ばして俺の首へと巻き付けてくる。
「……このまま向こうの部屋に連れてって」
 無茶言うなあ、と思わず笑った。これではまるで幼子だ。とはいえ俺が子供の時よりも随分と質が悪い気もするが。
 こんなこと言うくせに、本当に連れていったら怒るんだよなあ。照れ隠しなのか何なのかは知らないが、運びながら腕やら背中やらを抓られたこともあった。痛くはないが、その後のリンウェルがどうにも不機嫌なので苦労した。
 それでもこみ上げてくる気持ちは暖炉に負けず劣らず温かい。俺は首にしがみついたままのリンウェルを一度強く抱き締めると、その額にひとつキスを落とした。
「――!」
 たちまちリンウェルの目が見開かれ、その指は戸惑ったように額を撫で始める。どうやらここに来てようやく覚醒したようだ。
「やっと起きたな。早く顔洗って、着替えて来いよ」
「う、うん……」
 わかった、と寝室を出たリンウェルの背中を追って、俺も再度キッチンへと向かう。先にテーブルについていたフルルにミルクを出し、自分たちの分をコンロの鍋に掛けた。
 いつも通りの朝。明日も繰り返されるであろう朝。
 俺はどちらかと言えば、朝が好きだ。
 太陽の光が眩しいから。昔のことを思い出せるから。かわいい彼女の無防備な姿を見ることができるから。
 大切なものに囲まれて1日を迎えられることがどれだけ幸福か、知ったから。

 終わり畳む

#ロウリン