習作①
静かな夜だった。
風の音ひとつ聞こえない、穏やかな夜。辺りに人の気配はなくて、向こうの通りの喧騒も今夜はひと際遠いように感じられた。
窓から見上げた空には星たちが瞬いていた。きらきらとした粒は一瞬の瞬きの間にも消えてしまいそうなほど儚い。それなのに、実際は大きな石の塊が煌々と燃え滾っているというのだから驚きだ。おまけに今私たちが見ている光は何百年も前のもので、その強さもまちまちで――。
つまり空には不思議がたくさん溢れているのだ。星だけじゃない。単純に、今こうして見上げている空の色も昼間とはまるで違った。日中はあれほど透き通って見えた空も、今は底なし沼のように深い色をしていた。同じ空なのに、こんなにも違う。あのどこまでも高くて清々しい青空はいったいどこへ。
今日は、ロウと会っていた。一緒に農場に出かけて動物たちの世話をして、街に戻ってきてからは買い出しに付き合ってもらった。少なくなっていたお米や小麦粉を買い足して、野菜も多く買った。ロウがいるといつもよりもたくさん荷物が持てるし、買いまとめるには都合が良い。
一旦部屋に荷物を置いてからは、広場で一緒にアイスクリームを食べた。期間限定のイチゴ味は、味も見た目もとても良かった。適度に甘酸っぱいのがロウも気に入ったらしい。「これはまた食べたくなる味だな」と、甘いものにそれほど興味のないロウにしては珍しい感想を言っていた。
そうして別れたのが夕暮れの頃。私をこの部屋の前まで送って、ロウはいつも使っている宿の方へと去って行った。
私は部屋の中に戻るふりをして、本当は、ロウが通りの角を曲がるまでその背中を見つめていた。姿が完全に見えなくなってしまうまで、こっそり、ロウのことを見送っていた。
その後は、いつも通りの日常を送ろうと努めた。夕飯を作って食べ、その片付けをする。お風呂に入って髪を乾かして、今夜はどんな本を読もうかと考えた。
でも、どこかで何かが欠けていた。遺跡で見つけた古い器のように、まだ完成しないパズルのように、どこかのパーツが足りていない。ヒビのような、穴のような空虚がこの体のどこかにあるのをひしひしと感じていた。
その正体について、上手く説明はできない。でもだからといって、その原因にまったく心当たりがないかといわれたら、それは違うのだった。
私はとっくに気が付いている。気が付いては、いるけれど――。
その時、コンロに掛けていたケトルから真っ白な湯気が上がった。私は火を止め、沸いたばかりの湯をポットに注いだ。
数分も蒸らせばいい香りが部屋中に広がった。カップに注いだ琥珀色の液体が明かりに照らされ、ゆうらり揺れる。
こんな夜、私はハーブティーを淹れる。リラックスできるよう、よく眠れるように茶葉をブレンドした、お気に入りのハーブティーだ。
この香りを嗅いでいると、身も心もふんわりやわらぐ。目を閉じてその香りの中に浸っているだけで、どこか不安定な気持ちが落ち着くのだった。
別に、そこまで悩んでいるわけでもなければ、不安になっているわけでもないけれど。
そう、これはちょっとした息抜き。読書の合間に体を温めつつ、気持ちを休めているだけ。そうすれば、ほら、さわやかで優しい香りが私の記憶を上書きしていってくれる。
どこかの本で読んだことがある。五感のうち、人が最後まで覚えているのは、嗅覚による記憶なんだそうだ。
空の神秘と同じく、それも不思議だなあと思う。たとえ相手の声も手の感触も思い出せなくなったとしても、その人の匂いだけは覚えているかもしれない。目が見えなくなっても、匂いで相手のことを思い出すかもしれないのだ。
それほど匂いによる記憶は強烈に身体に刻み込まれるのだろう。最後まで覚えているというのはすなわち、忘れるのが難しいということでもある。
私は別に、忘れたいわけではない。一緒に嗅いだ牧場の香りも、街道独特の畑の匂いも、街の屋台から流れてくる美味しそうなスパイスの匂いも、口いっぱいに広がるイチゴの香りも、全部全部、ひとつひとつが大切な思い出だと思っている。
できるだけ長く、きちんと覚えておきたいと思っている。一緒に見たもの。歩いた場所。ふと距離が縮まった時に微かに漂ってくる匂いだって、長く記憶に留めておきたい。
それらはいずれ、この先の私を形作るものになるはずだから。人は、出会った人との記憶でできていると言っても過言ではないだろう。
ただ、今だけは、それをほんの少しだけ和らげたかった。
私の脳内にくっきり残った記憶をぼやけさせたい。身体に色濃く刻まれたそれを薄めたい。
じゃないと、私は今夜眠れそうにない。これだけ鋭く募ってしまった思いを放置して眠りにつくことは到底できそうになかった。
情けないな、と思う。別に、今生の別れであるはずもないのに。またあいつはそのうちふらっと現れて、「元気してるか?」なんて呑気に声を掛けてくるに違いないのだ。
そうだとわかっていて、ついため息が出てしまう。フルルが心配そうにこちらを見上げながらその小さな体を摺り寄せてくる。大丈夫だよ、と呟きながらその羽を撫でると、ふわふわであたたかいフルルの体温を感じた。
その時だった。
部屋のドアが叩かれ、向こうから聞き慣れた声が聞こえた。
「リンウェル、いるか?」
思わず心臓が跳ねた。カップをテーブルに置き、一呼吸おいて扉の前に立つ。
ドアを開けると、そこにはぎこちなく頭を掻くロウの姿があった。
「ど、どうしたの?」
私は咄嗟に訊ねた。
「何か忘れ物でもした?」
いいや、とロウは首を振った。「別に、そういうんじゃねえけど」
「じゃあ、どうして?」
するとロウはやや視線を泳がせた後で、
「しいて言うなら、お前が帰り際、寂しそうにしてたから……」
「え……?」
「いや、違うな」
ロウは再び首を振った。
「俺が、お前に会いたかったんだ。お前ともう少し、話がしたかった」
それだけだ、とロウは言った。
「そう、なんだ」
私は呟いた。そうして何度か、瞬きをする。「……うれしい」
たちまちこの胸の内に何かあたたかいものが宿るのがわかった。お風呂で湯に浸かった時より、ハーブティーを飲んだ時よりあたたかいこの気持ち。
「どうぞ、入って」
私はドアを押し広げ、ロウを中へと促した。
気持ちは抑えきれずに溢れ出す。それでも構わないと、私は顔をほころばせながら言った。
「寒かったでしょ。せっかく来てくれたんだから、お茶でも飲んでいって」
いつまでも、いくらでも。口にはしなかったけれど、そう思ったのは本当だった。
終わり畳む
#ロウリン
静かな夜だった。
風の音ひとつ聞こえない、穏やかな夜。辺りに人の気配はなくて、向こうの通りの喧騒も今夜はひと際遠いように感じられた。
窓から見上げた空には星たちが瞬いていた。きらきらとした粒は一瞬の瞬きの間にも消えてしまいそうなほど儚い。それなのに、実際は大きな石の塊が煌々と燃え滾っているというのだから驚きだ。おまけに今私たちが見ている光は何百年も前のもので、その強さもまちまちで――。
つまり空には不思議がたくさん溢れているのだ。星だけじゃない。単純に、今こうして見上げている空の色も昼間とはまるで違った。日中はあれほど透き通って見えた空も、今は底なし沼のように深い色をしていた。同じ空なのに、こんなにも違う。あのどこまでも高くて清々しい青空はいったいどこへ。
今日は、ロウと会っていた。一緒に農場に出かけて動物たちの世話をして、街に戻ってきてからは買い出しに付き合ってもらった。少なくなっていたお米や小麦粉を買い足して、野菜も多く買った。ロウがいるといつもよりもたくさん荷物が持てるし、買いまとめるには都合が良い。
一旦部屋に荷物を置いてからは、広場で一緒にアイスクリームを食べた。期間限定のイチゴ味は、味も見た目もとても良かった。適度に甘酸っぱいのがロウも気に入ったらしい。「これはまた食べたくなる味だな」と、甘いものにそれほど興味のないロウにしては珍しい感想を言っていた。
そうして別れたのが夕暮れの頃。私をこの部屋の前まで送って、ロウはいつも使っている宿の方へと去って行った。
私は部屋の中に戻るふりをして、本当は、ロウが通りの角を曲がるまでその背中を見つめていた。姿が完全に見えなくなってしまうまで、こっそり、ロウのことを見送っていた。
その後は、いつも通りの日常を送ろうと努めた。夕飯を作って食べ、その片付けをする。お風呂に入って髪を乾かして、今夜はどんな本を読もうかと考えた。
でも、どこかで何かが欠けていた。遺跡で見つけた古い器のように、まだ完成しないパズルのように、どこかのパーツが足りていない。ヒビのような、穴のような空虚がこの体のどこかにあるのをひしひしと感じていた。
その正体について、上手く説明はできない。でもだからといって、その原因にまったく心当たりがないかといわれたら、それは違うのだった。
私はとっくに気が付いている。気が付いては、いるけれど――。
その時、コンロに掛けていたケトルから真っ白な湯気が上がった。私は火を止め、沸いたばかりの湯をポットに注いだ。
数分も蒸らせばいい香りが部屋中に広がった。カップに注いだ琥珀色の液体が明かりに照らされ、ゆうらり揺れる。
こんな夜、私はハーブティーを淹れる。リラックスできるよう、よく眠れるように茶葉をブレンドした、お気に入りのハーブティーだ。
この香りを嗅いでいると、身も心もふんわりやわらぐ。目を閉じてその香りの中に浸っているだけで、どこか不安定な気持ちが落ち着くのだった。
別に、そこまで悩んでいるわけでもなければ、不安になっているわけでもないけれど。
そう、これはちょっとした息抜き。読書の合間に体を温めつつ、気持ちを休めているだけ。そうすれば、ほら、さわやかで優しい香りが私の記憶を上書きしていってくれる。
どこかの本で読んだことがある。五感のうち、人が最後まで覚えているのは、嗅覚による記憶なんだそうだ。
空の神秘と同じく、それも不思議だなあと思う。たとえ相手の声も手の感触も思い出せなくなったとしても、その人の匂いだけは覚えているかもしれない。目が見えなくなっても、匂いで相手のことを思い出すかもしれないのだ。
それほど匂いによる記憶は強烈に身体に刻み込まれるのだろう。最後まで覚えているというのはすなわち、忘れるのが難しいということでもある。
私は別に、忘れたいわけではない。一緒に嗅いだ牧場の香りも、街道独特の畑の匂いも、街の屋台から流れてくる美味しそうなスパイスの匂いも、口いっぱいに広がるイチゴの香りも、全部全部、ひとつひとつが大切な思い出だと思っている。
できるだけ長く、きちんと覚えておきたいと思っている。一緒に見たもの。歩いた場所。ふと距離が縮まった時に微かに漂ってくる匂いだって、長く記憶に留めておきたい。
それらはいずれ、この先の私を形作るものになるはずだから。人は、出会った人との記憶でできていると言っても過言ではないだろう。
ただ、今だけは、それをほんの少しだけ和らげたかった。
私の脳内にくっきり残った記憶をぼやけさせたい。身体に色濃く刻まれたそれを薄めたい。
じゃないと、私は今夜眠れそうにない。これだけ鋭く募ってしまった思いを放置して眠りにつくことは到底できそうになかった。
情けないな、と思う。別に、今生の別れであるはずもないのに。またあいつはそのうちふらっと現れて、「元気してるか?」なんて呑気に声を掛けてくるに違いないのだ。
そうだとわかっていて、ついため息が出てしまう。フルルが心配そうにこちらを見上げながらその小さな体を摺り寄せてくる。大丈夫だよ、と呟きながらその羽を撫でると、ふわふわであたたかいフルルの体温を感じた。
その時だった。
部屋のドアが叩かれ、向こうから聞き慣れた声が聞こえた。
「リンウェル、いるか?」
思わず心臓が跳ねた。カップをテーブルに置き、一呼吸おいて扉の前に立つ。
ドアを開けると、そこにはぎこちなく頭を掻くロウの姿があった。
「ど、どうしたの?」
私は咄嗟に訊ねた。
「何か忘れ物でもした?」
いいや、とロウは首を振った。「別に、そういうんじゃねえけど」
「じゃあ、どうして?」
するとロウはやや視線を泳がせた後で、
「しいて言うなら、お前が帰り際、寂しそうにしてたから……」
「え……?」
「いや、違うな」
ロウは再び首を振った。
「俺が、お前に会いたかったんだ。お前ともう少し、話がしたかった」
それだけだ、とロウは言った。
「そう、なんだ」
私は呟いた。そうして何度か、瞬きをする。「……うれしい」
たちまちこの胸の内に何かあたたかいものが宿るのがわかった。お風呂で湯に浸かった時より、ハーブティーを飲んだ時よりあたたかいこの気持ち。
「どうぞ、入って」
私はドアを押し広げ、ロウを中へと促した。
気持ちは抑えきれずに溢れ出す。それでも構わないと、私は顔をほころばせながら言った。
「寒かったでしょ。せっかく来てくれたんだから、お茶でも飲んでいって」
いつまでも、いくらでも。口にはしなかったけれど、そう思ったのは本当だった。
終わり畳む
#ロウリン
初めて手に入れた端末は、最新の機種だった。
努力の末の勝利だった。周りの友人は皆持っているのに自分だけどうして、勉強頑張るからお願い、と両親に必死に頼み込んでようやく了承を得たのだ。
言われた通りの成績を保ち続けること約半年。手のひらサイズのそれへと形を変えた努力の結晶は、今私の手の中で光り輝いていた。
早速連絡先を登録していく。両親の番号とアドレスを打ち込み、次はと考えて思いついたのは、幼馴染のあいつだった。
既に番号は聞いていた。今日両親と一緒に買い物に行くことを伝えた際、すぐに登録できるようメモをもらっていたのだ。
番号を打ち込んでロウの名前を登録する。そういえば、アドレスの方は聞いていなかった。まあいいか、それはまた今度でも。ロウの家は目と鼻の先。アドレスくらい、聞きに行こうと思えばいつでも、すぐにでも会いに行けるのだから。
そこでふとイタズラ心がわいた。今電話を掛けたら、ロウはびっくりするんじゃないか。まさかすぐそばに暮らしている私から突然電話が掛かってくるとは夢にも思うまい。
ついでにこちらの番号も教えられてちょうどいい。私は迷うことなく、電話帳から登録したばかりのロウの名前を引っ張り出してきた。
通話ボタンを押すことにもためらいはなかった。数回の呼び出し音の後で、プツッとそれが途切れる音がした。
〈――もしもし?〉
「……――!」
聞こえてきた声に、私は思わず端末を耳から離してしまっていた。咄嗟に通話終了のボタンを押してしまう。
もう一度メモと履歴の番号を見比べる。間違いはない。でもあの声は――。
そこで画面が切り替わった。表示された『ロウ』の文字に驚きながらも、そっと通話ボタンを押す。
「も、もしもし……?」
〈もしもし?〉
聞こえてきた声は、やっぱり馴染みのないものだった。
〈お前、リンウェルだろ。いきなりかけてきたと思ったらすぐ切りやがって〉
呆れたような声色にいつもの調子。これは、この声は間違いなくロウだ。
〈知らない番号ですぐ切るなんて、イタズラかと思っただろ。端末買うって話聞いてなきゃ迷惑電話に登録するところだったぜ〉
「ご、ごめん。まだ操作に慣れてなくて、間違って切っちゃったの」
私がそう言うと、端末の向こうでロウが笑った。
〈お前意外と機械オンチなのか? 前から俺のいじってたりしてたくせに〉
「うるさいな。ロウのとは違って最新の機種だから、いろいろ慣れてないだけ!」
言いながら、私は緊張と戸惑いを必死に抑えていた。向こうから聞こえてくるのは確かにロウの声だ。でも、なんだかそれはいつもとはまったく違って、まるで別の人のように聞こえるのだった。
そういえば、と思い出す。こういう端末を通して聞こえる声は、本人の声とは違うものじゃなかったっけ。機械の中で限りなく近い音声を合成しているとかなんとか。詳しくはよくわからないが、この世の技術の集合体みたいな端末ならそれも可能だろう。
それにしたって、その声は――。
〈リンウェル?〉
(……――ちょっと、かっこよすぎない?)
いつもより低くて落ち着いた声。それがすぐ耳元で鳴り響くものだから、緊張しないわけがない。
機械越しとはいえ、本人のとはまったくの別物だとはいえ、あのロウにドキドキさせられるなんて。
私はロウの見えないところで密かに口をへの字に曲げたのだった。
「ところで、ロウ」
〈なんだ?〉
「ロウの番号知ってる人って、他に誰がいるの?」
〈なんだよ急に〉
「いいから。どんな人に教えてるんだろうなって」
〈そうだな……まずは親父だろ、あとはその会社の奴らと、お前〉
「うん」
〈あとは、部活の奴と、バイト先の先輩とか。それとクラスの奴らもだな〉
「それって女子も含めて?」
〈? そうだな。たまにクラスで集まる時とか連絡もらうからよ〉
「そっか」
〈それがどうかしたか?〉
「ううん、別に」
〈?〉
「……でも、あんまり電話はしないでね」
〈……え?〉
終わり畳む
#ロウリン #学パロ