2025年6月
2025年5月
小ネタ③
※大学生パロ
あっと思った時には、それに飲み込まれている。
私の周囲半径1メートル分だけ切り取ったような昏い陰。
その日も午前の講義を受けている途中で、突然心が暗闇に包まれた。虚無、と言い換えてもいい。どこをどう進んでも、どれくらい進んでも、出口には辿り着きそうにない、真っ暗闇。
こういう日は何をしてもだめだ。勉強をする気にも、友人とおしゃべりする気にもなれない。諦めて帰宅しようかとも思ったけれど、結局5限の授業まで出席だけはした。とはいえ内容も右から左で、板書もノートにただ書き写しただけだった。
今日に限ってアルバイトもない。図書館で大好きな本に囲まれて、ひたすら書架の整理に明け暮れていられたら良かったのに。そうしたら、この気持ち全部とは言わなくとも、せめて端っこくらいは明るくなれたはずだ。
自宅に戻っても心には影が差したままで、食欲もなかった。私は鞄をその辺に放ると、ベッドの上へと半ば倒れ込むようにダイブした。嫌なことがあったわけじゃないから、イライラはしない。泣きたくもならない。ただ私の心にあるのは、ぽっかり空いたドーナツのような穴だけ。
ごろりと寝返りを打って、端末を取り出す。時刻はもうすぐ午後7時になるかというところで、窓の外からは通りを行き交う車のエンジン音だけが聞こえてきていた。
次に気が付いたのは、それからしばらく経った頃だ。私はベッドで適当に端末を弄っているうち、どうやら眠ってしまっていたらしい。
時計の針は既に午後11時を回っていた。バイトはもう終わっただろうけれど、こんな時間に連絡していいものかな。あるいは帰り道の途中かもしれないし、帰った頃を見計らってからでも――。
それでも、この暗闇を払ってくれるのはただ1人しかいない。私はぐっと決心を固めると、思い切ってメッセージを送った。
〈バイト終わった? 今電話してもいい?〉
数分、いや数十秒もしないうちに返事は来た。端末から軽快な音が鳴って、画面に表示されたのはその名前だった。
「もしもし、……ロウ?」
『もしもし? どうした?』
直接話す時よりも、やや低めの声。聞き慣れないのに、それでいて聞き覚えのある声に私は思わず安堵した。
『メッセージ見たけど、何かあったか?』
「ううん。別に、そういうわけじゃないんだけど。なんとなく、電話したくなって」
『へえ、そうか。珍しいな』
ちょっと上機嫌そうな声の後ろからは、がやがやとした喧騒が聞こえていた。どうやらまだロウは街中にいるらしい。
「バイト終わったんだよね? 今帰り?」
『おう、ちょうど店から出たとこだったんだよ。これから自転車取って、帰るとこ』
「あ、じゃあかけ直した方がいい? 家に着いてからでも……」
『いや、気にすんな。駅前抜ければ車も誰もいねえし、大丈夫だろ』
ロウは呑気に言ったが、私は戦々恐々としていた。もし電話中にロウが事故にでも遭って、その瞬間まで聞こえてしまったらどうしよう。
ロウの「うわっ」とか「ぎゃあ」とか言ったのが、最期の言葉になったら。電話がトラウマとなって、一生かけられなくなってしまいそうだ。
『安心しろよ。俺は、運動神経だけはいいからな』
「自転車に乗ったままじゃ関係ないでしょ。空でも飛べるならともかく」
たしかにな! とロウはこれまた気の抜けるような声で笑った。そうこうしているうちにロウの背後では喧騒が徐々に薄れ、僅かに風の擦れる音だけが届くようになっていた。
『今日は何してたんだ? 授業はあったんだろ?』
「うんまあ、いつも通り。大学行って授業受けて。バイトはなかったからそのまま帰ったけど、気が付いたら寝てて今起きたとこ。ロウは?」
『俺も似たようなもんだ。つっても、授業は4限で終わりだったから、食堂で飯食ってからバイト。つーかお前、さらっと言ったけど飯食ってないな? なんでもいいから適当に腹に入れろっていっつも言ってるだろ』
「だって今起きたばっかりなんだもん。それに食欲もなかったし」
『お前は朝弱くて飯抜きがちなんだから、夜は食っとけ。それ以上細くなってどうすんだよ』
「そう言うけど、別に私そんなに細くないからね。学校にはもっと細い子いっぱいいるし」
『ほかとは比べてねえっつの。第一、俺が気にするんだよ。健康もそうだけど、お前の抱き心地に関わるだろ』
何それ、と私はむくれながらも笑った。私はロウにとって抱き枕か何かなの?
ロウと話しているとなんだかやっぱり落ち着く。あれだけ昏くなっていた心に、徐々に日が射すようだ。
『あ、ちょっとコンビニ寄るわ』
ロウがそう言ったので、私は「わかった」と言って電話を切った。切り際、『出たらすぐかけ直す』と聞こえたし、ロウの懐事情を考えればそう時間はかからないだろう。
私はその間、戸棚を漁って夕食ならぬ夜食を探していた。ロウと話していたら、さすがに空腹を感じたのだ。
戸棚にはお菓子とシリアル、いくつかのインスタント食品が買い置きしてあった。こういう時にカップ容器の食べ物は便利だ。私はそのパッケージを見比べながら、どれを食べようかじっくり吟味した。
やがてロウから再び電話がかかってきた。私は端末を耳に押し当て、今日2度目の問いかけを口にした。
「もしもし? 終わった?」
『おう。なんとかな』
よっこらせ、というおじさんくさい掛け声とともに、小さく風の流れる音がする。外の夜の匂いが、端末を通してこちらに伝わってくるようにも思えた。
「何買ったの?」
『ああ、色々な。おにぎりとか、菓子とか』
「この時間におにぎり? さすがロウだね」
『働いたら腹減ったんだよ。そういや、アイスの新作もあったな。期間限定って書いてたぜ』
「えっ、今度買いに行かなきゃ! そういうのって、すぐ売り切れちゃうから」
『お前、ほんとアイス好きだよな。そのうちペンギンにでもなっちまうんじゃねーか?』
「ペンギンはアイス食べないからね。主食はお魚だよ」
くだらないことを話しているうち、時間はあっという間に過ぎた。ふと端末の向こうでキキッとブレーキ音が鳴ったと思うと、続けてカチャンという音がした。
「あ、もしかして家に着いた? 今自転車降りたんじゃない?」
『……いや、まだだけど』
私の予想に反して、ロウはそんなふうに言った。
「あれ、そうなの? てっきり、スタンド立てた音がしたと思ったけど……」
背後で聞こえる音にも変化があった。風を切る音は消えて、今はロウが短く呼吸を刻む声がしている。
やっぱりロウは自転車を降りたんだ! それでもロウはどこか可笑しそうに『まだ着いてねえよ』と言うだけだった。
「ねえ、今どこに居るの?」
『だから、帰り道だって』
「帰り道って、ロウの家のでしょ?」
『それ以外何があんだよ』
ふと部屋の外から聞こえてきたのは、誰かが近づいてくる足音だった。廊下に響き渡るそれが、私の部屋の前でピタリと止まる。
鳴り出したインターホンを覗くと、そこにはコンビニ袋をぶらさげたロウが立っていた。ロウは私が扉を開けるなり、その袋を差し出しながらあっけらかんと言った。
「声聞いてたら、顔見たくなった」
家にはまだ着いていないのだから、帰り道には変わりない。そう主張するロウに、私は思わず笑った。もうその頃には心に差していた昏いもののことも、すっかり忘れてしまっていた。
端末の画面はまだ通話中のままだった。ロウを部屋の中へ促したところで、ようやく私は電源ボタンを押したのだった。
終わり畳む
#ロウリン #学パロ
※大学生パロ
あっと思った時には、それに飲み込まれている。
私の周囲半径1メートル分だけ切り取ったような昏い陰。
その日も午前の講義を受けている途中で、突然心が暗闇に包まれた。虚無、と言い換えてもいい。どこをどう進んでも、どれくらい進んでも、出口には辿り着きそうにない、真っ暗闇。
こういう日は何をしてもだめだ。勉強をする気にも、友人とおしゃべりする気にもなれない。諦めて帰宅しようかとも思ったけれど、結局5限の授業まで出席だけはした。とはいえ内容も右から左で、板書もノートにただ書き写しただけだった。
今日に限ってアルバイトもない。図書館で大好きな本に囲まれて、ひたすら書架の整理に明け暮れていられたら良かったのに。そうしたら、この気持ち全部とは言わなくとも、せめて端っこくらいは明るくなれたはずだ。
自宅に戻っても心には影が差したままで、食欲もなかった。私は鞄をその辺に放ると、ベッドの上へと半ば倒れ込むようにダイブした。嫌なことがあったわけじゃないから、イライラはしない。泣きたくもならない。ただ私の心にあるのは、ぽっかり空いたドーナツのような穴だけ。
ごろりと寝返りを打って、端末を取り出す。時刻はもうすぐ午後7時になるかというところで、窓の外からは通りを行き交う車のエンジン音だけが聞こえてきていた。
次に気が付いたのは、それからしばらく経った頃だ。私はベッドで適当に端末を弄っているうち、どうやら眠ってしまっていたらしい。
時計の針は既に午後11時を回っていた。バイトはもう終わっただろうけれど、こんな時間に連絡していいものかな。あるいは帰り道の途中かもしれないし、帰った頃を見計らってからでも――。
それでも、この暗闇を払ってくれるのはただ1人しかいない。私はぐっと決心を固めると、思い切ってメッセージを送った。
〈バイト終わった? 今電話してもいい?〉
数分、いや数十秒もしないうちに返事は来た。端末から軽快な音が鳴って、画面に表示されたのはその名前だった。
「もしもし、……ロウ?」
『もしもし? どうした?』
直接話す時よりも、やや低めの声。聞き慣れないのに、それでいて聞き覚えのある声に私は思わず安堵した。
『メッセージ見たけど、何かあったか?』
「ううん。別に、そういうわけじゃないんだけど。なんとなく、電話したくなって」
『へえ、そうか。珍しいな』
ちょっと上機嫌そうな声の後ろからは、がやがやとした喧騒が聞こえていた。どうやらまだロウは街中にいるらしい。
「バイト終わったんだよね? 今帰り?」
『おう、ちょうど店から出たとこだったんだよ。これから自転車取って、帰るとこ』
「あ、じゃあかけ直した方がいい? 家に着いてからでも……」
『いや、気にすんな。駅前抜ければ車も誰もいねえし、大丈夫だろ』
ロウは呑気に言ったが、私は戦々恐々としていた。もし電話中にロウが事故にでも遭って、その瞬間まで聞こえてしまったらどうしよう。
ロウの「うわっ」とか「ぎゃあ」とか言ったのが、最期の言葉になったら。電話がトラウマとなって、一生かけられなくなってしまいそうだ。
『安心しろよ。俺は、運動神経だけはいいからな』
「自転車に乗ったままじゃ関係ないでしょ。空でも飛べるならともかく」
たしかにな! とロウはこれまた気の抜けるような声で笑った。そうこうしているうちにロウの背後では喧騒が徐々に薄れ、僅かに風の擦れる音だけが届くようになっていた。
『今日は何してたんだ? 授業はあったんだろ?』
「うんまあ、いつも通り。大学行って授業受けて。バイトはなかったからそのまま帰ったけど、気が付いたら寝てて今起きたとこ。ロウは?」
『俺も似たようなもんだ。つっても、授業は4限で終わりだったから、食堂で飯食ってからバイト。つーかお前、さらっと言ったけど飯食ってないな? なんでもいいから適当に腹に入れろっていっつも言ってるだろ』
「だって今起きたばっかりなんだもん。それに食欲もなかったし」
『お前は朝弱くて飯抜きがちなんだから、夜は食っとけ。それ以上細くなってどうすんだよ』
「そう言うけど、別に私そんなに細くないからね。学校にはもっと細い子いっぱいいるし」
『ほかとは比べてねえっつの。第一、俺が気にするんだよ。健康もそうだけど、お前の抱き心地に関わるだろ』
何それ、と私はむくれながらも笑った。私はロウにとって抱き枕か何かなの?
ロウと話しているとなんだかやっぱり落ち着く。あれだけ昏くなっていた心に、徐々に日が射すようだ。
『あ、ちょっとコンビニ寄るわ』
ロウがそう言ったので、私は「わかった」と言って電話を切った。切り際、『出たらすぐかけ直す』と聞こえたし、ロウの懐事情を考えればそう時間はかからないだろう。
私はその間、戸棚を漁って夕食ならぬ夜食を探していた。ロウと話していたら、さすがに空腹を感じたのだ。
戸棚にはお菓子とシリアル、いくつかのインスタント食品が買い置きしてあった。こういう時にカップ容器の食べ物は便利だ。私はそのパッケージを見比べながら、どれを食べようかじっくり吟味した。
やがてロウから再び電話がかかってきた。私は端末を耳に押し当て、今日2度目の問いかけを口にした。
「もしもし? 終わった?」
『おう。なんとかな』
よっこらせ、というおじさんくさい掛け声とともに、小さく風の流れる音がする。外の夜の匂いが、端末を通してこちらに伝わってくるようにも思えた。
「何買ったの?」
『ああ、色々な。おにぎりとか、菓子とか』
「この時間におにぎり? さすがロウだね」
『働いたら腹減ったんだよ。そういや、アイスの新作もあったな。期間限定って書いてたぜ』
「えっ、今度買いに行かなきゃ! そういうのって、すぐ売り切れちゃうから」
『お前、ほんとアイス好きだよな。そのうちペンギンにでもなっちまうんじゃねーか?』
「ペンギンはアイス食べないからね。主食はお魚だよ」
くだらないことを話しているうち、時間はあっという間に過ぎた。ふと端末の向こうでキキッとブレーキ音が鳴ったと思うと、続けてカチャンという音がした。
「あ、もしかして家に着いた? 今自転車降りたんじゃない?」
『……いや、まだだけど』
私の予想に反して、ロウはそんなふうに言った。
「あれ、そうなの? てっきり、スタンド立てた音がしたと思ったけど……」
背後で聞こえる音にも変化があった。風を切る音は消えて、今はロウが短く呼吸を刻む声がしている。
やっぱりロウは自転車を降りたんだ! それでもロウはどこか可笑しそうに『まだ着いてねえよ』と言うだけだった。
「ねえ、今どこに居るの?」
『だから、帰り道だって』
「帰り道って、ロウの家のでしょ?」
『それ以外何があんだよ』
ふと部屋の外から聞こえてきたのは、誰かが近づいてくる足音だった。廊下に響き渡るそれが、私の部屋の前でピタリと止まる。
鳴り出したインターホンを覗くと、そこにはコンビニ袋をぶらさげたロウが立っていた。ロウは私が扉を開けるなり、その袋を差し出しながらあっけらかんと言った。
「声聞いてたら、顔見たくなった」
家にはまだ着いていないのだから、帰り道には変わりない。そう主張するロウに、私は思わず笑った。もうその頃には心に差していた昏いもののことも、すっかり忘れてしまっていた。
端末の画面はまだ通話中のままだった。ロウを部屋の中へ促したところで、ようやく私は電源ボタンを押したのだった。
終わり畳む
#ロウリン #学パロ
2025年4月
小ネタ②
※DLCの内容を含みます。
皆の集まる焚火から少し離れた先。穏やかにせせらぐ小川のほとりに、ロウはいた。
私はタオルを片手にそっと忍び寄り、しゃがみこんだその背中に手を掛けた。
「わあ!」
「うわあっ!」
上がった叫び声が辺りに大きく反響する。背中に触れたのが私だと知るや否や、ロウは盛大に息を吐いた。
「なんだ、お前かよ。驚かせやがって」
「ごめんごめん。ロウが無防備にしてるの見たら、ついね」
はいこれ、と私が渡したタオルを、ロウはサンキュ、と受け取った。水浴びをした犬のように前髪を振るいながら、それをがしがしと顔に押し当てる。首筋に流れた水滴が、星明かりにきらきら光るのが見えた。
今日は、皆で野営をしていた。宿を取るのもいいけれど、久々に焚火を囲んで語らってはどうだろうという話になったのだ。
その方が旅をしていた頃のことをよく思い出せる。あの日々の思い出は、普段離れ離れで暮らしている私たちにとって、何にも代えがたい大切な宝物でもあった。
それに、今の私たちには新しい仲間が増えた。仲をより深めるためには、皆で一緒に美味しいものを食べながらおしゃべりするのが一番手っ取り早い。その子にそういった経験があまりないというのなら、なおさら。
「ナザミルは? 一緒だったんじゃねえのか?」
「うん、さっきまでね。でも眠くなってきたから、先にフルルと寝てるって」
「そうか」
ロウはタオルを額に押し当てながら笑って言った。「良かったな」
「うん」
私は頷いた。「本当に」
このところ、ナザミルは随分変わったように思う。変わったといっても、もちろん良い方向にだ。
あくまで主観ではあるけれど、だんだんと私たちに心を開いてきてくれているような気がする。どうしても開かなかった蕾が膨らむように、固く握りしめられるばかりだった拳から力が抜けていくように、ナザミルの心が次第に柔らかくなっていくのがわかる。そうして、本来そうあるべきはずのナザミルの素顔が徐々に垣間見えてきているような気がするのだ。
「自分のこと、かなり話してくれるようになったよな。最初の頃はああしたいこうしたいって、ナザミルの口からひとつも聞いたことなかったし」
「最近もね、少しずつ食べたいものも教えてくれるんだよ。今日だって、先に寝てるねって自分から伝えに来てくれたし。少し前なら、眠いのに我慢して座ったまま舟を漕いでることもあったじゃない? 我慢しないでいいよって言われてから、ようやくふらふら寝床に向かってたのに」
それなのに、今日は自ら私のところに告げに来てくれた。まだどこか遠慮がちではあったけれど、それでもはっきりと自分の意思を伝えてくれたのだ。
そんな小さな変化が、いや、小さな変化だからこそ嬉しい。ナザミルが気負わず飾らず、ありのまま私たちと馴染んでくるようで。
「素直に自分の気持ちを伝えられるって、大事なことだよね。そうしてもいいって思える相手になれたことも、本当に嬉しいんだ」
それはいつかの自分にも重なるのかもしれない。復讐に囚われ、頑なだった心を、私は皆に解きほぐしてもらった。
そうして得た心の安寧は今も私を支え続けてくれている。だからこそ私もナザミルに手を差し伸べたいと強く思う。支えであり続けたいと願う。
「そうだな」
ロウは私の言葉に大きく頷いた後で、
「けど、お前ははなっから俺には遠慮なかったけどな」と、もの言いたげな視線を寄越した。
「打たれ弱いだの何だの、好きに言いやがって」
「だってそれは本当のことでしょ。っていうか何、まだ根に持ってたの? ロウのくせに、執念深いなあ」
「くせにって何だよ、くせにって。あの頃の俺は誰よりデリケートだったってのに、その心を弄びやがって」
「デリケートの意味も知らないで、よく言うよ」
うるせー、とロウは憎まれ口を叩きながらも、その声には笑いを滲ませていた。過去を笑って話せるようになったのは、私もロウもお互い様だ。
ロウは一通り顔を拭った後で、再びその場にしゃがみこんだ。さらさらと流れる小川にタオルを浸し、指先から滴る水滴に顔をほころばせる。
「この川にも、もう何度も来てるよな。いつ来ても静かだしきれいだし、こうしてると、なんとなく落ち着く気がするんだよな」
透き通った水面にロウの指が揺らめく。映りこんだ星屑が波に流され溶かされ、たちまち滲んで消えた。
そんなごくありふれた光景に、しばし私の目は奪われた。ロウの指、少し長くなった? そもそも手自体が大きくなったのかな。前よりも骨ばってるような、ごつごつしたような。元々こんなだったっけ。
数秒考えてから、はっとした。そうして触れた頬には、やや熱が籠っていた。
この感覚には覚えがある。ついさっきのことだ。アルフェンたちが焚火を囲って談笑していて、私はフルルを撫でながら近くの木にもたれていた。そばではロウが日課の鍛錬をしていて、ぼうっとその様子を眺めていたのだった。
久々に見るロウは、なんだか以前よりぐっとたくましくなったように見えた。戦闘の時も思ったけれど、拳も蹴りも、前より鋭くなった気がする。身長も少しだけ伸びたような? ロウとは皆より顔を合わせる機会が多いはずなのに、どうしてそんなふうに思うんだろう。
あれこれ考えていると、
「どうしてロウのこと見てるの?」
いつの間にかそばに佇んでいたナザミルに問われた。
「え、わ、私は、別に……」
「何もないのに見てたの?」
咄嗟のことに、私はつい「か、監視だよ!」と誤魔化してしまった。「ロウがサボってないか、監視してるの!」
ナザミルは驚いたように目を丸くしていたけれど、本当は一番驚いていたのは私自身だった。どうして私、ロウのことを見ていたんだろう。それもまじまじと、周りから見ても気づかれてしまうくらい。
なんとなく? 自然と視界に入ってきたから? その通りなようで、違う気もする。もしロウが違う場所で鍛錬していたとしても、私はきっとロウのことを見ていた。
そうすることに、理由なんか1つしかない。私は心の奥底ではそれに気づいていて、気づかないふりをしているだけだ。
向こうはまったく気づいてないのにな。ロウは私が顔色を赤くしたり青くしたりしていることなどつゆ知らず、小川でバシャバシャと音を立てながらタオルを洗いだした。
ふとこみ上げてきたのは、猛烈なほどの悔しさだ。私はしゃがみ込んだロウのそばに身をかがめると、腕を伸ばして人差し指でその背中をなぞった。
「な、なんだ?」
慌てたような声を出すロウに、私は笑いを堪えて言った。
「何って、背文字遊びだよ。知らない?」
背中に書いた文字や文章を当てるゲーム。幼い頃に、両親や近所の友人たちと遊んだ記憶があった。
「私が今から文字を書くから、なんて書いたか当ててね」
そんなのわかるわけないだろ、というロウのボヤキは聞こえないふりをして、そっと指を滑らせる。
「ヒントは、私の好きな食べ物だよ」
簡単だろうと思ったのに、
「うーん……」
ロウは少し悩んだ後で、
「『肉』?」と言った。
「違うよ! 『アイス』だよ! ロウじゃなくて、私の好きな食べ物だから!」
文字数まで間違えるポンコツっぷりに呆れながらも、もう1問同じテーマで出題する。
「あ、これはわかったぞ」
「何?」
「『ケーキ』!」
「ブブー。正解は『パフェ』でしたー」
背中に大きく『×』印を書く。指先から自分よりも熱いロウの体温が伝わってくる。
「っていうか1文字も合ってないじゃん。当てずっぽうでしょ」
「へへ、バレたか」
ロウは子供のような笑みを浮かべて宙を仰いだ。いまだ乾ききらない前髪が、植物の茎のようにしなった。
まったく、相変わらずの能天気だ。身体や戦闘の技術が成長しても、根本はそのまま。何も変わっていないらしい。
――でも、私はその能天気さに何度も救われたんだけどね。
「じゃあ、次が最後の問題ね。ヒントは、私の今の気持ち」
「気持ち?」
うん、と頷きながらロウの背中に指を這わせる。ナザミルが自分の気持ちを伝えてくれたように、私も少しくらい素直になってみてもいいかもしれない。
最後の一文字を書き終えたところで、
「さて、なんて書いたでしょう!」
私はロウに訊ねた。
「いやわかるかよ! つーかすげえ長くなかったか? もはや文章だろ!」
「あ、そこまでわかったんだ? 成長したね」
くすくす笑って立ち上がり、その場を後にする。
「あ、おい! 正解教えろよ!」
「教えないよー。自分で何とか考えてみてね」
たとえ背中に書くことはできても、声にして伝えることはできない。自覚があるような無いような、伝わって欲しいような欲しくないような、そんな曖昧な私の気持ち。
『私のことも見て欲しい』
答えを知っているのは、今夜の星明かりだけだ。
終わり畳む
#ロウリン
※DLCの内容を含みます。
皆の集まる焚火から少し離れた先。穏やかにせせらぐ小川のほとりに、ロウはいた。
私はタオルを片手にそっと忍び寄り、しゃがみこんだその背中に手を掛けた。
「わあ!」
「うわあっ!」
上がった叫び声が辺りに大きく反響する。背中に触れたのが私だと知るや否や、ロウは盛大に息を吐いた。
「なんだ、お前かよ。驚かせやがって」
「ごめんごめん。ロウが無防備にしてるの見たら、ついね」
はいこれ、と私が渡したタオルを、ロウはサンキュ、と受け取った。水浴びをした犬のように前髪を振るいながら、それをがしがしと顔に押し当てる。首筋に流れた水滴が、星明かりにきらきら光るのが見えた。
今日は、皆で野営をしていた。宿を取るのもいいけれど、久々に焚火を囲んで語らってはどうだろうという話になったのだ。
その方が旅をしていた頃のことをよく思い出せる。あの日々の思い出は、普段離れ離れで暮らしている私たちにとって、何にも代えがたい大切な宝物でもあった。
それに、今の私たちには新しい仲間が増えた。仲をより深めるためには、皆で一緒に美味しいものを食べながらおしゃべりするのが一番手っ取り早い。その子にそういった経験があまりないというのなら、なおさら。
「ナザミルは? 一緒だったんじゃねえのか?」
「うん、さっきまでね。でも眠くなってきたから、先にフルルと寝てるって」
「そうか」
ロウはタオルを額に押し当てながら笑って言った。「良かったな」
「うん」
私は頷いた。「本当に」
このところ、ナザミルは随分変わったように思う。変わったといっても、もちろん良い方向にだ。
あくまで主観ではあるけれど、だんだんと私たちに心を開いてきてくれているような気がする。どうしても開かなかった蕾が膨らむように、固く握りしめられるばかりだった拳から力が抜けていくように、ナザミルの心が次第に柔らかくなっていくのがわかる。そうして、本来そうあるべきはずのナザミルの素顔が徐々に垣間見えてきているような気がするのだ。
「自分のこと、かなり話してくれるようになったよな。最初の頃はああしたいこうしたいって、ナザミルの口からひとつも聞いたことなかったし」
「最近もね、少しずつ食べたいものも教えてくれるんだよ。今日だって、先に寝てるねって自分から伝えに来てくれたし。少し前なら、眠いのに我慢して座ったまま舟を漕いでることもあったじゃない? 我慢しないでいいよって言われてから、ようやくふらふら寝床に向かってたのに」
それなのに、今日は自ら私のところに告げに来てくれた。まだどこか遠慮がちではあったけれど、それでもはっきりと自分の意思を伝えてくれたのだ。
そんな小さな変化が、いや、小さな変化だからこそ嬉しい。ナザミルが気負わず飾らず、ありのまま私たちと馴染んでくるようで。
「素直に自分の気持ちを伝えられるって、大事なことだよね。そうしてもいいって思える相手になれたことも、本当に嬉しいんだ」
それはいつかの自分にも重なるのかもしれない。復讐に囚われ、頑なだった心を、私は皆に解きほぐしてもらった。
そうして得た心の安寧は今も私を支え続けてくれている。だからこそ私もナザミルに手を差し伸べたいと強く思う。支えであり続けたいと願う。
「そうだな」
ロウは私の言葉に大きく頷いた後で、
「けど、お前ははなっから俺には遠慮なかったけどな」と、もの言いたげな視線を寄越した。
「打たれ弱いだの何だの、好きに言いやがって」
「だってそれは本当のことでしょ。っていうか何、まだ根に持ってたの? ロウのくせに、執念深いなあ」
「くせにって何だよ、くせにって。あの頃の俺は誰よりデリケートだったってのに、その心を弄びやがって」
「デリケートの意味も知らないで、よく言うよ」
うるせー、とロウは憎まれ口を叩きながらも、その声には笑いを滲ませていた。過去を笑って話せるようになったのは、私もロウもお互い様だ。
ロウは一通り顔を拭った後で、再びその場にしゃがみこんだ。さらさらと流れる小川にタオルを浸し、指先から滴る水滴に顔をほころばせる。
「この川にも、もう何度も来てるよな。いつ来ても静かだしきれいだし、こうしてると、なんとなく落ち着く気がするんだよな」
透き通った水面にロウの指が揺らめく。映りこんだ星屑が波に流され溶かされ、たちまち滲んで消えた。
そんなごくありふれた光景に、しばし私の目は奪われた。ロウの指、少し長くなった? そもそも手自体が大きくなったのかな。前よりも骨ばってるような、ごつごつしたような。元々こんなだったっけ。
数秒考えてから、はっとした。そうして触れた頬には、やや熱が籠っていた。
この感覚には覚えがある。ついさっきのことだ。アルフェンたちが焚火を囲って談笑していて、私はフルルを撫でながら近くの木にもたれていた。そばではロウが日課の鍛錬をしていて、ぼうっとその様子を眺めていたのだった。
久々に見るロウは、なんだか以前よりぐっとたくましくなったように見えた。戦闘の時も思ったけれど、拳も蹴りも、前より鋭くなった気がする。身長も少しだけ伸びたような? ロウとは皆より顔を合わせる機会が多いはずなのに、どうしてそんなふうに思うんだろう。
あれこれ考えていると、
「どうしてロウのこと見てるの?」
いつの間にかそばに佇んでいたナザミルに問われた。
「え、わ、私は、別に……」
「何もないのに見てたの?」
咄嗟のことに、私はつい「か、監視だよ!」と誤魔化してしまった。「ロウがサボってないか、監視してるの!」
ナザミルは驚いたように目を丸くしていたけれど、本当は一番驚いていたのは私自身だった。どうして私、ロウのことを見ていたんだろう。それもまじまじと、周りから見ても気づかれてしまうくらい。
なんとなく? 自然と視界に入ってきたから? その通りなようで、違う気もする。もしロウが違う場所で鍛錬していたとしても、私はきっとロウのことを見ていた。
そうすることに、理由なんか1つしかない。私は心の奥底ではそれに気づいていて、気づかないふりをしているだけだ。
向こうはまったく気づいてないのにな。ロウは私が顔色を赤くしたり青くしたりしていることなどつゆ知らず、小川でバシャバシャと音を立てながらタオルを洗いだした。
ふとこみ上げてきたのは、猛烈なほどの悔しさだ。私はしゃがみ込んだロウのそばに身をかがめると、腕を伸ばして人差し指でその背中をなぞった。
「な、なんだ?」
慌てたような声を出すロウに、私は笑いを堪えて言った。
「何って、背文字遊びだよ。知らない?」
背中に書いた文字や文章を当てるゲーム。幼い頃に、両親や近所の友人たちと遊んだ記憶があった。
「私が今から文字を書くから、なんて書いたか当ててね」
そんなのわかるわけないだろ、というロウのボヤキは聞こえないふりをして、そっと指を滑らせる。
「ヒントは、私の好きな食べ物だよ」
簡単だろうと思ったのに、
「うーん……」
ロウは少し悩んだ後で、
「『肉』?」と言った。
「違うよ! 『アイス』だよ! ロウじゃなくて、私の好きな食べ物だから!」
文字数まで間違えるポンコツっぷりに呆れながらも、もう1問同じテーマで出題する。
「あ、これはわかったぞ」
「何?」
「『ケーキ』!」
「ブブー。正解は『パフェ』でしたー」
背中に大きく『×』印を書く。指先から自分よりも熱いロウの体温が伝わってくる。
「っていうか1文字も合ってないじゃん。当てずっぽうでしょ」
「へへ、バレたか」
ロウは子供のような笑みを浮かべて宙を仰いだ。いまだ乾ききらない前髪が、植物の茎のようにしなった。
まったく、相変わらずの能天気だ。身体や戦闘の技術が成長しても、根本はそのまま。何も変わっていないらしい。
――でも、私はその能天気さに何度も救われたんだけどね。
「じゃあ、次が最後の問題ね。ヒントは、私の今の気持ち」
「気持ち?」
うん、と頷きながらロウの背中に指を這わせる。ナザミルが自分の気持ちを伝えてくれたように、私も少しくらい素直になってみてもいいかもしれない。
最後の一文字を書き終えたところで、
「さて、なんて書いたでしょう!」
私はロウに訊ねた。
「いやわかるかよ! つーかすげえ長くなかったか? もはや文章だろ!」
「あ、そこまでわかったんだ? 成長したね」
くすくす笑って立ち上がり、その場を後にする。
「あ、おい! 正解教えろよ!」
「教えないよー。自分で何とか考えてみてね」
たとえ背中に書くことはできても、声にして伝えることはできない。自覚があるような無いような、伝わって欲しいような欲しくないような、そんな曖昧な私の気持ち。
『私のことも見て欲しい』
答えを知っているのは、今夜の星明かりだけだ。
終わり畳む
#ロウリン
2025年3月
習作④
身体が鉛のように重い。一歩、また一歩、両脚を引きずるようにして前に進む。ただ前進するというだけで、こうも努力が必要なものか。
別に、体調が悪いわけじゃない。ヴィスキントに来るまでの護衛任務だってケガひとつ負わなかったし、熱っぽいわけでもなかった。寝不足でもなければ、休みが取れていないわけでもなく、食事だって毎食きちんと摂れていた。
そもそも、そういうふうに感じること自体に納得がいっていない。何を気を重たくするようなことがあっただろう。振り返ってみても、思い当たることなどひとつもない。いつものように日常を過ごし、いつものように仕事をこなしてきただけ。
そうだ。カラグリアで「さすがジルファの息子だ」などと持て囃されることも、シスロディアで数年前まで同じ隊服を着ていた連中に陰口を叩かれることも、何らいつもと変わらない。すべてよく目にする、耳にする日常の範囲内のはずだ。
言い聞かせて、ひたすら通りを進んだ。市場の喧騒も、客引きの声も聞こえない。ただ風に流される葉のごとく、導かれるまま足を動かす。
やがて辿り着いたドアをノックすると、奥からは拍子抜けするほど明るい声が聞こえた。数秒ののち、ぎいっと開かれた扉の隙間からひょっこりとリンウェルが覗いた。
「いらっしゃい。今日は少し早かったね」
まるで花のような笑みを浮かべてリンウェルは言った。その香りに誘われるかのようにして部屋に足を踏み入れる。
すぐ前を行くリンウェルの足取りはどこか弾んでいるようにも見えた。何かいいことでもあったのだろうか。横顔からは鼻歌さえ聞こえてきそうだ。
「お仕事お疲れ様。ケガはない? ズーグルには遭わなかった?」
「ああ」
「何か食べる? ってまだ夕飯には早いけど。お茶でも淹れる?」
「……そうだな」
いつもより口数の少ない俺に気付いたのだろう。リンウェルが首を傾げつつ、こちらを覗き込んでくる。
「ロウ? どうかした?」
「……いや、」
なんでもない、と言うつもりで首を振った。そのままいつもみたいに軽く笑って、腹が減っただけだ、とでも誤魔化せばよかったのに。
その大きな瞳に見つめられたら、それまで頭の中にあったものはすべて消し飛んでしまった。
「リンウェル」
返事が返ってくる前に、その肩口に額を押し付ける。
「…………疲れた」
「……そっか」
やがて小さく笑う声が聞こえてきたかと思うと、優しい指が髪を撫でる感触がした。
リンウェルは何も聞かなかった。穏やかに笑みを浮かべながら、いつものようにソファーで本を開いて、「今日だけ特別ね」と肩を貸してくれた。
「ロウがこんなふうになるなんて、結構頑張ったんだね」
別にそうでもない、と言おうとして、声が出ない。口を開くのも億劫で、ただ怠惰なまま頭をもたれかける。
「頑張りすぎは良くないけどね。ロウのことだから、自分の限界を知らないんだろうけど」
言いつつ、リンウェルは本のページをめくった。普段読んでいるものよりは絵が多い気もしたが、それでも隙間には小さい文字がうじゃうじゃと蠢いていた。それらは今にも這い出してきそうで、想像しては背筋が震え上がった。
「でも、爆発する前に言ってくれてよかった。ロウはそういうののコントロールが下手だから」
「……別に、」
そこでようやく声が出た。
「そういうつもりはねえけど」
「そうかな。でもロウ、何かと我慢しがちでしょ? 少しでも自分に非があると思えば、すぐに黙り込んじゃうじゃない」
うっと言葉に詰まったのは、図星を突かれたというよりは、再認識させられたからだ。
自分はどうやら思った以上に人の言葉を気にしていたらしい。それも今は変えられない、過去のことに関してはことさら。
積もりに積もったそれが、こうして身も心も重くしていた。見てみぬふり、感じていないふりなどできないと頭ではわかっていたのに。
情けないな、と思う。いつまでも過去に囚われて、引きずって。
しまいには肩にもたれかかっている。自分よりもずっと薄くて細いリンウェルの肩に。
本当なら逆じゃないのか。俺が肩を貸すべきじゃないのか。思いながら、俺は頭をもたげることもなく、文字を追うリンウェルの指を呆然と眺めた。
「落ち込んでるでしょ」
少し笑いを含んだ声でリンウェルは言った。
「もしくは拗ねてる?」
返事はしなかった。それは返事をしたも同じことだが。
「余計なことを考えちゃう時は、寝た方がいいんだよ」
そんなリンウェルの提案に、けど、と思わず呟く。
「私は大丈夫だよ。本読んでれば、重さとか気にならないし。それにもうすぐ夕方だしね。邪魔になったら、その時起こすから」
邪魔とはまた随分な言い草だ。そう思いつつ、俺はその言葉に甘えて目を閉じることにした。たちまちどこからか睡魔の足音が聞こえてくる。
「じゃあ、少しだけ」
「うん。どうぞ」
おやすみ、と言うと、おやすみ、とすぐに返ってきた。安心する、と思ってから数分も経たないうち、意識はそこでぷつっと途切れた。
目が覚めたのは、スパイスの良い香りがしたからだ。ふと見ると俺はソファーに横になっていて、身体には毛布が掛かっていた。
いつの間に。どうやら一連の流れにまったく気が付かないほどに眠りこけてしまっていたらしい。
「あ、起きた?」
キッチンに立ったリンウェルがちらりとこちらを振り返る。
「あまりにもよく寝てたから、そのまま起こさなかったんだ」
珍しく熟睡してたみたいだね、と言われて、身体が軽くなっていることに気が付いた。ぼうっとしていた頭も冴えて、幾分すっきりしたみたいだ。
「どう? よく休めた?」
「ああ、おかげさまでな」
ありがとな、と言うとリンウェルは鍋の方を向いたまま、「どういたしまして」と言った。
それからはリンウェルの作ったカレーを2人で食べた。デザートが出る頃には散歩に行っていたフルルが窓から帰ってきて、俺とアイスクリームの争奪戦になった。「そもそもそれは俺に出されたデザートだ」と俺が主張する一方、フルルは「お前がいなかったらこれは自分のものになっていたはずだ」と羽をばたつかせた。結局は半分にすることで決着したが、リンウェルはその様子を見て終始くすくすと笑っていた。
後片付けを終える時分には、空には星が瞬くようになっていた。俺は元々取っていた宿に戻るため、どうにも重たい腰を上げた。
玄関先で別れる時、俺はリンウェルに改めて礼を言った。
「今日は、ありがとな。ソファーも、毛布も借りちまって」
肩まで借りたことは、敢えて言わない。
「夕飯の手伝い、何もできなくて悪かったな。せめて土産の1つでも買ってこられたら良かったんだけど……」
今さら自分の気の利かなさに愕然とする。いくら疲弊しきっていたとはいえ、家に上がらせてもらう以上、それなりの礼儀はわきまえるべきなのに。
思えば今日は駄目な1日だった。気分も、リンウェルへの対応も。着いて早々愚痴って、ソファーを独り占めして眠ってしまうなんて。
それこそ反省すべきじゃないのか。俺の人生は丸ごと反省と後悔に染まっているのかもしれない。
項垂れていると、
「いいよ、そんなの」
リンウェルが首を振った。
「別にお土産があるとか気にしてないし。あ、もちろんもらえたら嬉しいけどね? でも、それありきでロウが来るのを楽しみにしてるんじゃないんだよ」
思わず顔を上げた。リンウェルは俺が来るのを楽しみにしてくれているのか。
胸が小さく高鳴ったかと思ったのに、リンウェルは続けて思いついたように言った。
「もう1つ言っておくと、かっこいいロウにも期待してないから」
「え」
「だってそうでしょ。そんなのロウであってロウじゃないよ。無理してかっこつけたロウなんか、ロウじゃない」
リンウェルが小さく口を尖らせる。
「私の前ではそんなふうに取り繕わないでよ。今日みたいに、がっくりもたれかかってくれればいいの」
「けど……」
俺は決まり悪くなって頭を掻いた。
「お前にあまり情けないところ見せたくないっつーか」
意を決して言ったのに、
「私が言ってるんだからいいでしょ。というか、他の人にあんなことしたら承知しないから」
などとリンウェルは言う。
「ロウがほかの人に見せられないような顔は、私の前でしてくれればいいから。むしろ、私以外の前で見せないで」
いい? と念を押されて、俺は思わず頷いた。よろしい、と言ってリンウェルが笑う。
「じゃあ、帰りも気を付けてね。ケガにもズーグルにも」
言いくるめられたような気がしたが、そこまで気にはならなかった。扉を開いて、リンウェルの家を出る。
空には満天の星が輝いていた。きっとおそらく明日も、晴れるに違いないと思った。
終わり畳む
#ロウリン
身体が鉛のように重い。一歩、また一歩、両脚を引きずるようにして前に進む。ただ前進するというだけで、こうも努力が必要なものか。
別に、体調が悪いわけじゃない。ヴィスキントに来るまでの護衛任務だってケガひとつ負わなかったし、熱っぽいわけでもなかった。寝不足でもなければ、休みが取れていないわけでもなく、食事だって毎食きちんと摂れていた。
そもそも、そういうふうに感じること自体に納得がいっていない。何を気を重たくするようなことがあっただろう。振り返ってみても、思い当たることなどひとつもない。いつものように日常を過ごし、いつものように仕事をこなしてきただけ。
そうだ。カラグリアで「さすがジルファの息子だ」などと持て囃されることも、シスロディアで数年前まで同じ隊服を着ていた連中に陰口を叩かれることも、何らいつもと変わらない。すべてよく目にする、耳にする日常の範囲内のはずだ。
言い聞かせて、ひたすら通りを進んだ。市場の喧騒も、客引きの声も聞こえない。ただ風に流される葉のごとく、導かれるまま足を動かす。
やがて辿り着いたドアをノックすると、奥からは拍子抜けするほど明るい声が聞こえた。数秒ののち、ぎいっと開かれた扉の隙間からひょっこりとリンウェルが覗いた。
「いらっしゃい。今日は少し早かったね」
まるで花のような笑みを浮かべてリンウェルは言った。その香りに誘われるかのようにして部屋に足を踏み入れる。
すぐ前を行くリンウェルの足取りはどこか弾んでいるようにも見えた。何かいいことでもあったのだろうか。横顔からは鼻歌さえ聞こえてきそうだ。
「お仕事お疲れ様。ケガはない? ズーグルには遭わなかった?」
「ああ」
「何か食べる? ってまだ夕飯には早いけど。お茶でも淹れる?」
「……そうだな」
いつもより口数の少ない俺に気付いたのだろう。リンウェルが首を傾げつつ、こちらを覗き込んでくる。
「ロウ? どうかした?」
「……いや、」
なんでもない、と言うつもりで首を振った。そのままいつもみたいに軽く笑って、腹が減っただけだ、とでも誤魔化せばよかったのに。
その大きな瞳に見つめられたら、それまで頭の中にあったものはすべて消し飛んでしまった。
「リンウェル」
返事が返ってくる前に、その肩口に額を押し付ける。
「…………疲れた」
「……そっか」
やがて小さく笑う声が聞こえてきたかと思うと、優しい指が髪を撫でる感触がした。
リンウェルは何も聞かなかった。穏やかに笑みを浮かべながら、いつものようにソファーで本を開いて、「今日だけ特別ね」と肩を貸してくれた。
「ロウがこんなふうになるなんて、結構頑張ったんだね」
別にそうでもない、と言おうとして、声が出ない。口を開くのも億劫で、ただ怠惰なまま頭をもたれかける。
「頑張りすぎは良くないけどね。ロウのことだから、自分の限界を知らないんだろうけど」
言いつつ、リンウェルは本のページをめくった。普段読んでいるものよりは絵が多い気もしたが、それでも隙間には小さい文字がうじゃうじゃと蠢いていた。それらは今にも這い出してきそうで、想像しては背筋が震え上がった。
「でも、爆発する前に言ってくれてよかった。ロウはそういうののコントロールが下手だから」
「……別に、」
そこでようやく声が出た。
「そういうつもりはねえけど」
「そうかな。でもロウ、何かと我慢しがちでしょ? 少しでも自分に非があると思えば、すぐに黙り込んじゃうじゃない」
うっと言葉に詰まったのは、図星を突かれたというよりは、再認識させられたからだ。
自分はどうやら思った以上に人の言葉を気にしていたらしい。それも今は変えられない、過去のことに関してはことさら。
積もりに積もったそれが、こうして身も心も重くしていた。見てみぬふり、感じていないふりなどできないと頭ではわかっていたのに。
情けないな、と思う。いつまでも過去に囚われて、引きずって。
しまいには肩にもたれかかっている。自分よりもずっと薄くて細いリンウェルの肩に。
本当なら逆じゃないのか。俺が肩を貸すべきじゃないのか。思いながら、俺は頭をもたげることもなく、文字を追うリンウェルの指を呆然と眺めた。
「落ち込んでるでしょ」
少し笑いを含んだ声でリンウェルは言った。
「もしくは拗ねてる?」
返事はしなかった。それは返事をしたも同じことだが。
「余計なことを考えちゃう時は、寝た方がいいんだよ」
そんなリンウェルの提案に、けど、と思わず呟く。
「私は大丈夫だよ。本読んでれば、重さとか気にならないし。それにもうすぐ夕方だしね。邪魔になったら、その時起こすから」
邪魔とはまた随分な言い草だ。そう思いつつ、俺はその言葉に甘えて目を閉じることにした。たちまちどこからか睡魔の足音が聞こえてくる。
「じゃあ、少しだけ」
「うん。どうぞ」
おやすみ、と言うと、おやすみ、とすぐに返ってきた。安心する、と思ってから数分も経たないうち、意識はそこでぷつっと途切れた。
目が覚めたのは、スパイスの良い香りがしたからだ。ふと見ると俺はソファーに横になっていて、身体には毛布が掛かっていた。
いつの間に。どうやら一連の流れにまったく気が付かないほどに眠りこけてしまっていたらしい。
「あ、起きた?」
キッチンに立ったリンウェルがちらりとこちらを振り返る。
「あまりにもよく寝てたから、そのまま起こさなかったんだ」
珍しく熟睡してたみたいだね、と言われて、身体が軽くなっていることに気が付いた。ぼうっとしていた頭も冴えて、幾分すっきりしたみたいだ。
「どう? よく休めた?」
「ああ、おかげさまでな」
ありがとな、と言うとリンウェルは鍋の方を向いたまま、「どういたしまして」と言った。
それからはリンウェルの作ったカレーを2人で食べた。デザートが出る頃には散歩に行っていたフルルが窓から帰ってきて、俺とアイスクリームの争奪戦になった。「そもそもそれは俺に出されたデザートだ」と俺が主張する一方、フルルは「お前がいなかったらこれは自分のものになっていたはずだ」と羽をばたつかせた。結局は半分にすることで決着したが、リンウェルはその様子を見て終始くすくすと笑っていた。
後片付けを終える時分には、空には星が瞬くようになっていた。俺は元々取っていた宿に戻るため、どうにも重たい腰を上げた。
玄関先で別れる時、俺はリンウェルに改めて礼を言った。
「今日は、ありがとな。ソファーも、毛布も借りちまって」
肩まで借りたことは、敢えて言わない。
「夕飯の手伝い、何もできなくて悪かったな。せめて土産の1つでも買ってこられたら良かったんだけど……」
今さら自分の気の利かなさに愕然とする。いくら疲弊しきっていたとはいえ、家に上がらせてもらう以上、それなりの礼儀はわきまえるべきなのに。
思えば今日は駄目な1日だった。気分も、リンウェルへの対応も。着いて早々愚痴って、ソファーを独り占めして眠ってしまうなんて。
それこそ反省すべきじゃないのか。俺の人生は丸ごと反省と後悔に染まっているのかもしれない。
項垂れていると、
「いいよ、そんなの」
リンウェルが首を振った。
「別にお土産があるとか気にしてないし。あ、もちろんもらえたら嬉しいけどね? でも、それありきでロウが来るのを楽しみにしてるんじゃないんだよ」
思わず顔を上げた。リンウェルは俺が来るのを楽しみにしてくれているのか。
胸が小さく高鳴ったかと思ったのに、リンウェルは続けて思いついたように言った。
「もう1つ言っておくと、かっこいいロウにも期待してないから」
「え」
「だってそうでしょ。そんなのロウであってロウじゃないよ。無理してかっこつけたロウなんか、ロウじゃない」
リンウェルが小さく口を尖らせる。
「私の前ではそんなふうに取り繕わないでよ。今日みたいに、がっくりもたれかかってくれればいいの」
「けど……」
俺は決まり悪くなって頭を掻いた。
「お前にあまり情けないところ見せたくないっつーか」
意を決して言ったのに、
「私が言ってるんだからいいでしょ。というか、他の人にあんなことしたら承知しないから」
などとリンウェルは言う。
「ロウがほかの人に見せられないような顔は、私の前でしてくれればいいから。むしろ、私以外の前で見せないで」
いい? と念を押されて、俺は思わず頷いた。よろしい、と言ってリンウェルが笑う。
「じゃあ、帰りも気を付けてね。ケガにもズーグルにも」
言いくるめられたような気がしたが、そこまで気にはならなかった。扉を開いて、リンウェルの家を出る。
空には満天の星が輝いていた。きっとおそらく明日も、晴れるに違いないと思った。
終わり畳む
#ロウリン
2025年1月
双世界狼梟目撃談④
「誰にも得意分野はあるもんだな」
おれの作った工芸品を見て、地元の奴らはそんなふうに言う。呆れ6割、感心3割の表情で頷き、最後に同情1割の笑みを見せる。
「この熱意がほかにも向けばなあ。引きこもってばっかじゃ、恋人の1人もできないぜ?」
「余計なお世話だ。いいんだよ、おれはこれさえ作っていければ」
「んなこと言ったって、お前のその性格じゃ商売にも向かないだろ? さっきだって、客に声もかけられなかったじゃねえか」
「うぐ……」
口ごもったおれに、友人はまた小さく笑って言った。
「まあ、がんばれよ。今度ヴィスキントに行くんだろ」
強気で行けよな。商売も、それ以外も。記憶の中の友人の言葉に、思わず「わかってるよ」と言い返した。わかっている。本当に頭の中ではわかっているのだ。
でもどうしてか、声はかけられないんだよなあ。
広場のど真ん中でひとりため息を吐く。自作のアクセサリーを並べた露店には、見事に閑古鳥が鳴いていた。
人がいないわけじゃなかった。今朝から店を開けてはいるが、広場の周りを歩く人はそれなりにいるし、ほかの露店にはちらほら客が訪れているようだった。向こうの店の店主は若い男女と談笑し、また違う店では新たな商品を並べる作業に入っている。つまりは、自分の店だけが見向きもされていないのだ。
並んでいるものは悪くないと思うんだけどなあ。念願のヴィスキントに行けると決まってから、気合を入れて製作したアクセサリーたち。いつにも増して輝いて見えるのは、もしかしておれだけなのか。
せめて少しくらい、と思う。「ちょっと見ていきませんか?」の一言くらい、気軽に言えたら良かったのに。こういう商売をしていて客に声もかけられないだなんて、あまりに致命的すぎやしないか。
わかっていても、それが実践できたためしはなかった。さっきも通りがかりに一瞥をくれた女性に何も言えずじまい。女性が店の前を通り過ぎるのをぼうっと眺めていただけで、半開きになった口からは薄く息が漏れるだけだった。
結局、あいつの言う通りか。また小さくため息が零れる。こんなんじゃ商売も上手くいかなければ、恋人ができることもないだろう。挨拶ひとつまともにできないおれが、誰かに気の利いた言葉を吐けるなどとは到底考えられない。いつまでもどこまでもひとりきり、ただモノ作りに励むだけ。
今はそれでもいいかと思った。そう思えるほどには、おれはこの工芸品たちを愛していた。
日も高くなり、午前はこれで終わりかと思っていた時だった。
「わあ、きれい!」
目を輝かせた少女が、ふと露店の商品を覗き込んできた。少女は世にも珍しい装飾の上着を纏い、そのフードには目をまん丸にくりくりさせた白フクロウを連れていた。
「お兄さん。これ、手に取って見てみてもいい?」
「あ、ああ、もちろん」
ありがとう、と口にした少女は、早速並んでいた髪飾りに手を伸ばした。装飾を太陽に透かしたり、手のひらで光を反射させたりしながら、色の変わり具合を楽しんでいた。
「なんだお前、そういうのが好きなのか」
横から現れたのは、目立つ髪色をした青年だった。それよりも目立つ銀色の狼を肩に乗せ、いかにも親しげに少女に話しかける。
「さっきの店にも似たようなの置いてただろ。向こうの方のが宝石もついてて高そうだったし、きれいだったじゃねえか」
「まったく、ロウはわかってないなあ。あっちはきれいだけど、こっちは可愛いの。それに宝石よりガラス細工の方が素朴な感じがして、親しみやすいっていうか」
そこまで言ってからおれと目が合った少女は、はっとしたように口元を押さえた。
「ごめんなさい。別にそういうつもりじゃ」
「いや、気にしなくていい。むしろそう言ってもらった方が、こっちとしても嬉しいよ」
よかった、と少女はほっとしたような顔をしてみせた。安堵しながらも少し照れくさそうに笑った表情が年相応に見えて、とても愛らしい子だなと思った。
続いて少女は装飾のついたバレッタを手に取った。こちらもいろいろな角度に傾けながら、宝石顔負けの輝かしい瞳でそれを見つめている。
「さっきのもいいけど、これも可愛いなあ。あ、でも、これだともう少し髪の長さが必要かも」
うーんと顎に手をやり、数秒考えたところで、少女は背後でぼうっと立ちすくんでいた青年に問いかけた。
「ねえ、ロウ。ロウは、どっちがいいと思う?」
「どっちって?」
「これと、さっきの。さっきのは今も着けられるけど、こっちはもうちょっと髪が長くないと着けられなさそうなんだよね」
少女は自身の前髪を指先で弄りながら言った。
「ロウは髪が長いのと短いの、どっちが好き?」
すると青年は、
「俺にそれを聞いて、お前はどうすんだよ」
と言った。
「え?」
「もし俺が、長いのがいいって言ったら?」
少女は指先に絡まった髪と、手元の髪飾りを交互に見ながら、
「……伸ばそっかな」
と呟いた。
「ふーん。ま、俺はどっちも似合うと思うけどな」
ってことで、両方くれ。青年が髪飾りと紙幣を差し出してきたのを見て、ようやくおれはそれが自分に向けられた言葉だと気が付いた。
「あ、ああ。まいどあり」
摘まみ損ねた釣銭を改めて数え直し、青年の手のひらに乗せる。
一連の流れに少女は呆気に取られていたが、
「ほらよ」
「えっ、ちょ、ちょっと!」
青年から2つの髪飾りを受け取るなり、慌てた様子で青年の後を追って行った。2人の背中はすぐに遠ざかり、通りの向こうへと消えていった。
呆然としながら、おれはやっと肩の力を抜いた。なんだかすごいものを見てしまった、そんな気がした。
世界は広いんだな。あんな若くても、あんな言葉が言えるんだ。
おれはまたヴィスキントに商売しに来ようと思った。懲りずに工芸品を作って、懲りずに売りに来よう。そうしていつかは客に声を掛けられるようになりたいと、強くそう思った。
終わり畳む
※付き合ってない
#ロウリン #モブ視点
「誰にも得意分野はあるもんだな」
おれの作った工芸品を見て、地元の奴らはそんなふうに言う。呆れ6割、感心3割の表情で頷き、最後に同情1割の笑みを見せる。
「この熱意がほかにも向けばなあ。引きこもってばっかじゃ、恋人の1人もできないぜ?」
「余計なお世話だ。いいんだよ、おれはこれさえ作っていければ」
「んなこと言ったって、お前のその性格じゃ商売にも向かないだろ? さっきだって、客に声もかけられなかったじゃねえか」
「うぐ……」
口ごもったおれに、友人はまた小さく笑って言った。
「まあ、がんばれよ。今度ヴィスキントに行くんだろ」
強気で行けよな。商売も、それ以外も。記憶の中の友人の言葉に、思わず「わかってるよ」と言い返した。わかっている。本当に頭の中ではわかっているのだ。
でもどうしてか、声はかけられないんだよなあ。
広場のど真ん中でひとりため息を吐く。自作のアクセサリーを並べた露店には、見事に閑古鳥が鳴いていた。
人がいないわけじゃなかった。今朝から店を開けてはいるが、広場の周りを歩く人はそれなりにいるし、ほかの露店にはちらほら客が訪れているようだった。向こうの店の店主は若い男女と談笑し、また違う店では新たな商品を並べる作業に入っている。つまりは、自分の店だけが見向きもされていないのだ。
並んでいるものは悪くないと思うんだけどなあ。念願のヴィスキントに行けると決まってから、気合を入れて製作したアクセサリーたち。いつにも増して輝いて見えるのは、もしかしておれだけなのか。
せめて少しくらい、と思う。「ちょっと見ていきませんか?」の一言くらい、気軽に言えたら良かったのに。こういう商売をしていて客に声もかけられないだなんて、あまりに致命的すぎやしないか。
わかっていても、それが実践できたためしはなかった。さっきも通りがかりに一瞥をくれた女性に何も言えずじまい。女性が店の前を通り過ぎるのをぼうっと眺めていただけで、半開きになった口からは薄く息が漏れるだけだった。
結局、あいつの言う通りか。また小さくため息が零れる。こんなんじゃ商売も上手くいかなければ、恋人ができることもないだろう。挨拶ひとつまともにできないおれが、誰かに気の利いた言葉を吐けるなどとは到底考えられない。いつまでもどこまでもひとりきり、ただモノ作りに励むだけ。
今はそれでもいいかと思った。そう思えるほどには、おれはこの工芸品たちを愛していた。
日も高くなり、午前はこれで終わりかと思っていた時だった。
「わあ、きれい!」
目を輝かせた少女が、ふと露店の商品を覗き込んできた。少女は世にも珍しい装飾の上着を纏い、そのフードには目をまん丸にくりくりさせた白フクロウを連れていた。
「お兄さん。これ、手に取って見てみてもいい?」
「あ、ああ、もちろん」
ありがとう、と口にした少女は、早速並んでいた髪飾りに手を伸ばした。装飾を太陽に透かしたり、手のひらで光を反射させたりしながら、色の変わり具合を楽しんでいた。
「なんだお前、そういうのが好きなのか」
横から現れたのは、目立つ髪色をした青年だった。それよりも目立つ銀色の狼を肩に乗せ、いかにも親しげに少女に話しかける。
「さっきの店にも似たようなの置いてただろ。向こうの方のが宝石もついてて高そうだったし、きれいだったじゃねえか」
「まったく、ロウはわかってないなあ。あっちはきれいだけど、こっちは可愛いの。それに宝石よりガラス細工の方が素朴な感じがして、親しみやすいっていうか」
そこまで言ってからおれと目が合った少女は、はっとしたように口元を押さえた。
「ごめんなさい。別にそういうつもりじゃ」
「いや、気にしなくていい。むしろそう言ってもらった方が、こっちとしても嬉しいよ」
よかった、と少女はほっとしたような顔をしてみせた。安堵しながらも少し照れくさそうに笑った表情が年相応に見えて、とても愛らしい子だなと思った。
続いて少女は装飾のついたバレッタを手に取った。こちらもいろいろな角度に傾けながら、宝石顔負けの輝かしい瞳でそれを見つめている。
「さっきのもいいけど、これも可愛いなあ。あ、でも、これだともう少し髪の長さが必要かも」
うーんと顎に手をやり、数秒考えたところで、少女は背後でぼうっと立ちすくんでいた青年に問いかけた。
「ねえ、ロウ。ロウは、どっちがいいと思う?」
「どっちって?」
「これと、さっきの。さっきのは今も着けられるけど、こっちはもうちょっと髪が長くないと着けられなさそうなんだよね」
少女は自身の前髪を指先で弄りながら言った。
「ロウは髪が長いのと短いの、どっちが好き?」
すると青年は、
「俺にそれを聞いて、お前はどうすんだよ」
と言った。
「え?」
「もし俺が、長いのがいいって言ったら?」
少女は指先に絡まった髪と、手元の髪飾りを交互に見ながら、
「……伸ばそっかな」
と呟いた。
「ふーん。ま、俺はどっちも似合うと思うけどな」
ってことで、両方くれ。青年が髪飾りと紙幣を差し出してきたのを見て、ようやくおれはそれが自分に向けられた言葉だと気が付いた。
「あ、ああ。まいどあり」
摘まみ損ねた釣銭を改めて数え直し、青年の手のひらに乗せる。
一連の流れに少女は呆気に取られていたが、
「ほらよ」
「えっ、ちょ、ちょっと!」
青年から2つの髪飾りを受け取るなり、慌てた様子で青年の後を追って行った。2人の背中はすぐに遠ざかり、通りの向こうへと消えていった。
呆然としながら、おれはやっと肩の力を抜いた。なんだかすごいものを見てしまった、そんな気がした。
世界は広いんだな。あんな若くても、あんな言葉が言えるんだ。
おれはまたヴィスキントに商売しに来ようと思った。懲りずに工芸品を作って、懲りずに売りに来よう。そうしていつかは客に声を掛けられるようになりたいと、強くそう思った。
終わり畳む
※付き合ってない
#ロウリン #モブ視点
2024年12月
習作③
私は夜が好き。
真っ暗な静寂の幕が下りて、街も森も、生きとし生けるものすべてただ星に見守られるだけのこの時間が好きだ。
私が生きる世界には、最初からごく当たり前のように夜しかなかった。だから闇は恐ろしいものじゃなく、ただいつもそこにある空気や水と同じような存在で、時には深い悲しみさえも覆ってくれる頼もしい友人のようでもあった。
むしろ、陽の光の方が苦しく感じられるくらい。心に隠してきた影をはっきりと浮き彫りにしてしまうそれは、暗い闇の中を彷徨い続けてきた私にとってはあまりに眩しすぎるものだった。
「心に染みひとつない奴なんかいない」
この言葉に、私はどれだけ救われただろう。仲間の皆はおろか、自分とさえも向き合えないでいた当時の私に、不意に放たれたこの言葉は大地に吹きすさぶ風のように響いた。同時に自分の心にある何もかもを赦された気がして、すうっと胸が軽くなったのを覚えている。
その言葉を放った張本人といえば、今は私の隣で何やらむにゃむにゃと寝言混じりになっているけれど。休む準備を終えてベッドの上に転がり込んできたのも束の間、ロウはそれから数分も経たないうち、重たい瞼に抗えなくなってしまった。
夢と現実の狭間、いやもうほとんど夢の側に落ちてしまったロウは、穏やかな寝顔を覗かせていた。「眠いの?」「寝るなら毛布被って」という私の問いかけにも「うん……」「そうかもな……」などと曖昧な返事をして、そのくせ身体を持ち上げようとはしない。
まったくもう、ロウってばいつもこうなんだから。私は呆れ半分に息を吐き、まだ読みかけの本をサイドテーブルに置いた。下敷きになっている毛布を無理やり引っ張り上げ、それをロウの体へと被せてやる。イモムシのように丸まった背中と、お風呂上がりで萎れた前髪が、そのあどけない寝顔をどうにも幼くさせていた。
以前、街で女の子たちがロウの話をしているのを聞いたことがある。基本的にロウの周りにいるのは男性ばかりだが、その分け隔てない親切さゆえか、たまに一部の女の子から密かな人気を集めることがあるのだ。
彼女たちはロウの髪をオシャレだと言っていた。
「あの髪って、いつも自分で整えてるのかな」
「変わった色してるよね。ほかじゃなかなか見ないっていうか」
ロウの髪に関しては、私もまあまあオシャレなんじゃないかと思っている。色はともかく、毎朝早起きしてきちんと髪型を整えているのを見ると、健気だなあとまるで親のようなことを思わないでもない。元はモテたかったからなどという何の捻りもない理由がきっかけだったらしいが、私という存在がある現在に至ってもその習慣を続けているのは、もはやそうするのが体に染みついてしまっているからのようだ。
「身だしなみには気を付けねえとな」
そんなことを鼻を鳴らして言うロウだったが、だったら先にその裾のほつれたズボンをなんとかした方がいいと思う。ついでに言えば、今日穿いている靴下に穴が空きかけていることも私はよく知っていた。
まだまだ脇が甘いロウ。格好のつけ切れないロウ。
夜、お風呂から上がってタオルで髪を拭っているロウを見ると、私はいつも口元が緩みそうになる。ふとした視線にロウは「なんだよ」と首を傾げるが、私はううんと首を振ってみせる。「なんでもない」と口にした唇の端が僅かに持ち上がっているのを、開いた本で覆い隠しながら。
優越感とは違う。だって、別にあの女の子たちはロウのこういう姿を見たいわけでもないだろう。
ただ私は嬉しく思うのだ。外で皆のため、世界のために力を尽くすロウ。そして私の部屋で肩の力を抜き、一日を終えようとしているロウ。ロウが昼と夜で異なる顔を持つということを、この世で私だけが知っている。
へたり込んだ前髪はまるで一日中気を張り続けていたロウそのもののようで、朝にはきっちり整えられていたそれも、夜になった途端こんなふうに萎れてしまうのだと思うと可笑しくて堪らなかった。
それくらい毎日頑張っているんだよね。私はその努力を知っている。できることは全力で、できないことにもできないなりに必死になって手足を動かすロウは、きっと少しずつでも世界を動かしている。「自分にそんな力はない」とよく遠慮がちに言うけれど、そんなことはない。そう思っているのはおそらく私だけじゃなく、周りの皆も同じはずだ。
何故なら、世界を動かす人は言葉通りの力を持っているわけじゃなく、世界のために人を動かす力を持っている人のことだと思うから。
今夜のロウの眠りも深いようだ。私がどれだけ近づこうと、頬にかかった前髪を指で払おうと、その瞼はぴくりとも動かない。案の定、頬に唇を触れさせたって、ロウの寝息は規則正しいままだった。普段外で行動している時は、あんなにも周りの気配に敏いのに。
それくらい、安心して眠ってくれているということかな。あるいはただ本当に、身体の芯から疲れ切っているだけかもしれないけれど。
どっちだって良い。ロウが心も体も休められているのなら。それが私の隣でというなら。
私はやっぱり、夜が好きだ。
フルルと本と、そして傍らで眠るロウ。
星が見守る私の世界は、こんなにも満ちている。
明日が来るのが惜しいと思えるくらい、今日が幸福なのだ。
終わり畳む
#ロウリン
私は夜が好き。
真っ暗な静寂の幕が下りて、街も森も、生きとし生けるものすべてただ星に見守られるだけのこの時間が好きだ。
私が生きる世界には、最初からごく当たり前のように夜しかなかった。だから闇は恐ろしいものじゃなく、ただいつもそこにある空気や水と同じような存在で、時には深い悲しみさえも覆ってくれる頼もしい友人のようでもあった。
むしろ、陽の光の方が苦しく感じられるくらい。心に隠してきた影をはっきりと浮き彫りにしてしまうそれは、暗い闇の中を彷徨い続けてきた私にとってはあまりに眩しすぎるものだった。
「心に染みひとつない奴なんかいない」
この言葉に、私はどれだけ救われただろう。仲間の皆はおろか、自分とさえも向き合えないでいた当時の私に、不意に放たれたこの言葉は大地に吹きすさぶ風のように響いた。同時に自分の心にある何もかもを赦された気がして、すうっと胸が軽くなったのを覚えている。
その言葉を放った張本人といえば、今は私の隣で何やらむにゃむにゃと寝言混じりになっているけれど。休む準備を終えてベッドの上に転がり込んできたのも束の間、ロウはそれから数分も経たないうち、重たい瞼に抗えなくなってしまった。
夢と現実の狭間、いやもうほとんど夢の側に落ちてしまったロウは、穏やかな寝顔を覗かせていた。「眠いの?」「寝るなら毛布被って」という私の問いかけにも「うん……」「そうかもな……」などと曖昧な返事をして、そのくせ身体を持ち上げようとはしない。
まったくもう、ロウってばいつもこうなんだから。私は呆れ半分に息を吐き、まだ読みかけの本をサイドテーブルに置いた。下敷きになっている毛布を無理やり引っ張り上げ、それをロウの体へと被せてやる。イモムシのように丸まった背中と、お風呂上がりで萎れた前髪が、そのあどけない寝顔をどうにも幼くさせていた。
以前、街で女の子たちがロウの話をしているのを聞いたことがある。基本的にロウの周りにいるのは男性ばかりだが、その分け隔てない親切さゆえか、たまに一部の女の子から密かな人気を集めることがあるのだ。
彼女たちはロウの髪をオシャレだと言っていた。
「あの髪って、いつも自分で整えてるのかな」
「変わった色してるよね。ほかじゃなかなか見ないっていうか」
ロウの髪に関しては、私もまあまあオシャレなんじゃないかと思っている。色はともかく、毎朝早起きしてきちんと髪型を整えているのを見ると、健気だなあとまるで親のようなことを思わないでもない。元はモテたかったからなどという何の捻りもない理由がきっかけだったらしいが、私という存在がある現在に至ってもその習慣を続けているのは、もはやそうするのが体に染みついてしまっているからのようだ。
「身だしなみには気を付けねえとな」
そんなことを鼻を鳴らして言うロウだったが、だったら先にその裾のほつれたズボンをなんとかした方がいいと思う。ついでに言えば、今日穿いている靴下に穴が空きかけていることも私はよく知っていた。
まだまだ脇が甘いロウ。格好のつけ切れないロウ。
夜、お風呂から上がってタオルで髪を拭っているロウを見ると、私はいつも口元が緩みそうになる。ふとした視線にロウは「なんだよ」と首を傾げるが、私はううんと首を振ってみせる。「なんでもない」と口にした唇の端が僅かに持ち上がっているのを、開いた本で覆い隠しながら。
優越感とは違う。だって、別にあの女の子たちはロウのこういう姿を見たいわけでもないだろう。
ただ私は嬉しく思うのだ。外で皆のため、世界のために力を尽くすロウ。そして私の部屋で肩の力を抜き、一日を終えようとしているロウ。ロウが昼と夜で異なる顔を持つということを、この世で私だけが知っている。
へたり込んだ前髪はまるで一日中気を張り続けていたロウそのもののようで、朝にはきっちり整えられていたそれも、夜になった途端こんなふうに萎れてしまうのだと思うと可笑しくて堪らなかった。
それくらい毎日頑張っているんだよね。私はその努力を知っている。できることは全力で、できないことにもできないなりに必死になって手足を動かすロウは、きっと少しずつでも世界を動かしている。「自分にそんな力はない」とよく遠慮がちに言うけれど、そんなことはない。そう思っているのはおそらく私だけじゃなく、周りの皆も同じはずだ。
何故なら、世界を動かす人は言葉通りの力を持っているわけじゃなく、世界のために人を動かす力を持っている人のことだと思うから。
今夜のロウの眠りも深いようだ。私がどれだけ近づこうと、頬にかかった前髪を指で払おうと、その瞼はぴくりとも動かない。案の定、頬に唇を触れさせたって、ロウの寝息は規則正しいままだった。普段外で行動している時は、あんなにも周りの気配に敏いのに。
それくらい、安心して眠ってくれているということかな。あるいはただ本当に、身体の芯から疲れ切っているだけかもしれないけれど。
どっちだって良い。ロウが心も体も休められているのなら。それが私の隣でというなら。
私はやっぱり、夜が好きだ。
フルルと本と、そして傍らで眠るロウ。
星が見守る私の世界は、こんなにも満ちている。
明日が来るのが惜しいと思えるくらい、今日が幸福なのだ。
終わり畳む
#ロウリン
習作②
どちらかと言えば、朝が好きだ。
確かに、カーテンを突き抜けて目を刺してくる光や、どこかから聞こえてくる甲高い鳥の声には思わず顔をしかめたこともあった。今だってもう少し毛布に包まっていたいと思う日がないわけでもないが、それでもやっぱり身体の重たくなる夜よりはすっきり目覚めて疲れの取れた朝の方が好ましい。
そんなふうに思うのは、もしかしたら幼い頃の習慣によるものかもしれない。朝は新しい1日の始まり。1日の始まりは新しい鍛錬の始まり。親父の振るう拳に憧れ、1日でも早くそれに近づきたかった俺は、朝起きてから夜眠るまでのほとんどの時間を体を鍛えることに費やしていた。本当は眠る暇さえ惜しかったが、それではいけない、成長出来ないと親父に言われ、渋々寝床で目を瞑っていた。とはいえ疲れ切った体が夢に落ちるまでに、そう時間もかからなかったが。
早朝に目を覚ましては日差しを浴びながら親父と一緒に体を動かす。前日に教えてもらったことができていないと容赦なく拳が飛んできた。今思えばなかなかに理不尽かつ厳しい毎日だったが、それでも口元が緩みそうになるのは、決してそれが辛い思い出ではなかったということだ。あのカラグリアの燃える朝日に貫かれながら突き出した拳は、今も確実に自分の中に息づいていた。
そういう意味では、この地――シスロディアの朝はちょっと違うかもしれない。カーテンを開けて射しこんでくる光は、どちらかと言えば、太陽の光が雪に反射したものだ。
その眩しすぎる光に目を焼かれながら、俺は今朝もそっと寝室を抜け出した。洗面台で顔を洗い、用意されている服に着替えを済ませる。
リビングの暖炉の火がくすぶっているのを見て、俺はまたその上に新たな薪を組んで火を点した。たちまち、パチパチという音と共に小さな炎が上がる。真っ赤に染まるそれはかつて故郷で見た太陽の色にも似ている気がした。
暖炉など生まれ故郷ではほとんど馴染みがないものだった。当然使い方も知らなかったが、ここで暮らし始めた時に同居人にみっちり扱かれることになった。
「きちんと覚えてね。本当に命にかかわることだから」
明るい調子で言うものの、それが大げさでないということはすぐにわかった。何せここの寒さは尋常ではない。薪を切らそうものなら部屋どころか、そこで過ごす自分たちまで凍えて動けなくなってしまうだろう。
それでいて手入れにもなかなか手間がかかってしまうのも難点だ。掃除を怠れば逆に煙が充満して、それこそ命が危ないのだという。
なんてものを使わせるんだ、これならレナの技術でなんとかした方がいいんじゃないか、などと思いながら、それでも温かみのある炎にはつい見入ってしまう。暖炉の揺らめく炎の前で本を読むのが好きだというあいつの主張が、ここに住むようになってなんとなくわかった気がした。
点きたての暖炉の火が消えないよう目を配りながら、キッチンで朝食用のパンを切り分けた。コンロで卵とベーコンを端がカリカリになるまで焼き、カットしたトマトや果物を皿に一緒に盛り付ける。
それをテーブルに2人分用意した後で、小皿には専用の餌を入れてやった。ビスケットのような見た目をしたそれは思った以上にカロリーが高いらしく、与える量には気を付けるよう言われていたが、それを口にする本人は皿の中身を覗いてはいつもどこか不満そうにしているのだった。
あとはミルクを温めるだけという段階に来たところで、俺はもう一度寝室に向かった。こんもりと盛り上がった毛布の中。表面を覆うそれを1枚めくり上げれば、いまだすやすやと穏やかな寝息を立てる彼女の寝顔が覗いた。
「リンウェル、朝だぞ」
名前を呼ばれたことに一瞬だけ反応を見せたと思ったのも束の間。リンウェルは眉間の辺りにしわを寄せた後で、またすぐに毛布の中へと引っ込んでいってしまう。
こんな小動物どこかにいたよなと思いつつ、俺はさらにその毛布を剥ぎ取った。たちまち険しい顔をしたリンウェルだったが、その目はまだ開かれない。それと同時に伸びてきた手は普段よりもずっと強い力が込められていて、全力で俺から毛布を奪い返そうとしてくる。
朝のリンウェルはいつもこうだ。拒否、拒絶。絶対にベッドから出てやらないという強い意思を持って、親切にも起こしに来た俺に必死の抵抗を見せる。具合が悪いわけでもなければ、結果として一日中そこに居るわけでもないのに。
「もう5分……」
「んなこと言って、起きたためしねえだろ」
「今日は起きるもん……」
「5分も今も同じだ。なら今起きろ」
それでも俺は根気よく交渉を続ける。時には厳しく毛布を剥ぎ取り、時には優しく声を掛けては、リンウェルが起き上がるのを辛抱強く待ち続ける。
「うー……まだ寒いじゃん……」
「暖炉ならつけたぞ。部屋もあったまってきてる」
「ご飯だって……」
「それももうできた。あとは飲み物だけだ」
望むものはすべて用意してやったというのに、それでもリンウェルは「うーん……」だの「もうちょっと待って……」だの駄々をこねる。今朝はどうやら厄介なパターンに入ったらしい。だったら――。
「なら仕方ないか。俺先食うな。お前の分はちゃんと残しといてやるから、安心しろよ」
その言葉を聞いた途端、
「それは、嫌……」
リンウェルがむくりと起き上がった。
「一緒に食べる……」
半分寝ぼけながらも口はへの字に曲がっていた。と思うと、腕を伸ばして俺の首へと巻き付けてくる。
「……このまま向こうの部屋に連れてって」
無茶言うなあ、と思わず笑った。これではまるで幼子だ。とはいえ俺が子供の時よりも随分と質が悪い気もするが。
こんなこと言うくせに、本当に連れていったら怒るんだよなあ。照れ隠しなのか何なのかは知らないが、運びながら腕やら背中やらを抓られたこともあった。痛くはないが、その後のリンウェルがどうにも不機嫌なので苦労した。
それでもこみ上げてくる気持ちは暖炉に負けず劣らず温かい。俺は首にしがみついたままのリンウェルを一度強く抱き締めると、その額にひとつキスを落とした。
「――!」
たちまちリンウェルの目が見開かれ、その指は戸惑ったように額を撫で始める。どうやらここに来てようやく覚醒したようだ。
「やっと起きたな。早く顔洗って、着替えて来いよ」
「う、うん……」
わかった、と寝室を出たリンウェルの背中を追って、俺も再度キッチンへと向かう。先にテーブルについていたフルルにミルクを出し、自分たちの分をコンロの鍋に掛けた。
いつも通りの朝。明日も繰り返されるであろう朝。
俺はどちらかと言えば、朝が好きだ。
太陽の光が眩しいから。昔のことを思い出せるから。かわいい彼女の無防備な姿を見ることができるから。
大切なものに囲まれて1日を迎えられることがどれだけ幸福か、知ったから。
終わり畳む
#ロウリン
どちらかと言えば、朝が好きだ。
確かに、カーテンを突き抜けて目を刺してくる光や、どこかから聞こえてくる甲高い鳥の声には思わず顔をしかめたこともあった。今だってもう少し毛布に包まっていたいと思う日がないわけでもないが、それでもやっぱり身体の重たくなる夜よりはすっきり目覚めて疲れの取れた朝の方が好ましい。
そんなふうに思うのは、もしかしたら幼い頃の習慣によるものかもしれない。朝は新しい1日の始まり。1日の始まりは新しい鍛錬の始まり。親父の振るう拳に憧れ、1日でも早くそれに近づきたかった俺は、朝起きてから夜眠るまでのほとんどの時間を体を鍛えることに費やしていた。本当は眠る暇さえ惜しかったが、それではいけない、成長出来ないと親父に言われ、渋々寝床で目を瞑っていた。とはいえ疲れ切った体が夢に落ちるまでに、そう時間もかからなかったが。
早朝に目を覚ましては日差しを浴びながら親父と一緒に体を動かす。前日に教えてもらったことができていないと容赦なく拳が飛んできた。今思えばなかなかに理不尽かつ厳しい毎日だったが、それでも口元が緩みそうになるのは、決してそれが辛い思い出ではなかったということだ。あのカラグリアの燃える朝日に貫かれながら突き出した拳は、今も確実に自分の中に息づいていた。
そういう意味では、この地――シスロディアの朝はちょっと違うかもしれない。カーテンを開けて射しこんでくる光は、どちらかと言えば、太陽の光が雪に反射したものだ。
その眩しすぎる光に目を焼かれながら、俺は今朝もそっと寝室を抜け出した。洗面台で顔を洗い、用意されている服に着替えを済ませる。
リビングの暖炉の火がくすぶっているのを見て、俺はまたその上に新たな薪を組んで火を点した。たちまち、パチパチという音と共に小さな炎が上がる。真っ赤に染まるそれはかつて故郷で見た太陽の色にも似ている気がした。
暖炉など生まれ故郷ではほとんど馴染みがないものだった。当然使い方も知らなかったが、ここで暮らし始めた時に同居人にみっちり扱かれることになった。
「きちんと覚えてね。本当に命にかかわることだから」
明るい調子で言うものの、それが大げさでないということはすぐにわかった。何せここの寒さは尋常ではない。薪を切らそうものなら部屋どころか、そこで過ごす自分たちまで凍えて動けなくなってしまうだろう。
それでいて手入れにもなかなか手間がかかってしまうのも難点だ。掃除を怠れば逆に煙が充満して、それこそ命が危ないのだという。
なんてものを使わせるんだ、これならレナの技術でなんとかした方がいいんじゃないか、などと思いながら、それでも温かみのある炎にはつい見入ってしまう。暖炉の揺らめく炎の前で本を読むのが好きだというあいつの主張が、ここに住むようになってなんとなくわかった気がした。
点きたての暖炉の火が消えないよう目を配りながら、キッチンで朝食用のパンを切り分けた。コンロで卵とベーコンを端がカリカリになるまで焼き、カットしたトマトや果物を皿に一緒に盛り付ける。
それをテーブルに2人分用意した後で、小皿には専用の餌を入れてやった。ビスケットのような見た目をしたそれは思った以上にカロリーが高いらしく、与える量には気を付けるよう言われていたが、それを口にする本人は皿の中身を覗いてはいつもどこか不満そうにしているのだった。
あとはミルクを温めるだけという段階に来たところで、俺はもう一度寝室に向かった。こんもりと盛り上がった毛布の中。表面を覆うそれを1枚めくり上げれば、いまだすやすやと穏やかな寝息を立てる彼女の寝顔が覗いた。
「リンウェル、朝だぞ」
名前を呼ばれたことに一瞬だけ反応を見せたと思ったのも束の間。リンウェルは眉間の辺りにしわを寄せた後で、またすぐに毛布の中へと引っ込んでいってしまう。
こんな小動物どこかにいたよなと思いつつ、俺はさらにその毛布を剥ぎ取った。たちまち険しい顔をしたリンウェルだったが、その目はまだ開かれない。それと同時に伸びてきた手は普段よりもずっと強い力が込められていて、全力で俺から毛布を奪い返そうとしてくる。
朝のリンウェルはいつもこうだ。拒否、拒絶。絶対にベッドから出てやらないという強い意思を持って、親切にも起こしに来た俺に必死の抵抗を見せる。具合が悪いわけでもなければ、結果として一日中そこに居るわけでもないのに。
「もう5分……」
「んなこと言って、起きたためしねえだろ」
「今日は起きるもん……」
「5分も今も同じだ。なら今起きろ」
それでも俺は根気よく交渉を続ける。時には厳しく毛布を剥ぎ取り、時には優しく声を掛けては、リンウェルが起き上がるのを辛抱強く待ち続ける。
「うー……まだ寒いじゃん……」
「暖炉ならつけたぞ。部屋もあったまってきてる」
「ご飯だって……」
「それももうできた。あとは飲み物だけだ」
望むものはすべて用意してやったというのに、それでもリンウェルは「うーん……」だの「もうちょっと待って……」だの駄々をこねる。今朝はどうやら厄介なパターンに入ったらしい。だったら――。
「なら仕方ないか。俺先食うな。お前の分はちゃんと残しといてやるから、安心しろよ」
その言葉を聞いた途端、
「それは、嫌……」
リンウェルがむくりと起き上がった。
「一緒に食べる……」
半分寝ぼけながらも口はへの字に曲がっていた。と思うと、腕を伸ばして俺の首へと巻き付けてくる。
「……このまま向こうの部屋に連れてって」
無茶言うなあ、と思わず笑った。これではまるで幼子だ。とはいえ俺が子供の時よりも随分と質が悪い気もするが。
こんなこと言うくせに、本当に連れていったら怒るんだよなあ。照れ隠しなのか何なのかは知らないが、運びながら腕やら背中やらを抓られたこともあった。痛くはないが、その後のリンウェルがどうにも不機嫌なので苦労した。
それでもこみ上げてくる気持ちは暖炉に負けず劣らず温かい。俺は首にしがみついたままのリンウェルを一度強く抱き締めると、その額にひとつキスを落とした。
「――!」
たちまちリンウェルの目が見開かれ、その指は戸惑ったように額を撫で始める。どうやらここに来てようやく覚醒したようだ。
「やっと起きたな。早く顔洗って、着替えて来いよ」
「う、うん……」
わかった、と寝室を出たリンウェルの背中を追って、俺も再度キッチンへと向かう。先にテーブルについていたフルルにミルクを出し、自分たちの分をコンロの鍋に掛けた。
いつも通りの朝。明日も繰り返されるであろう朝。
俺はどちらかと言えば、朝が好きだ。
太陽の光が眩しいから。昔のことを思い出せるから。かわいい彼女の無防備な姿を見ることができるから。
大切なものに囲まれて1日を迎えられることがどれだけ幸福か、知ったから。
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#ロウリン
2024年11月
小ネタ①
初めて手に入れた端末は、最新の機種だった。
努力の末の勝利だった。周りの友人は皆持っているのに自分だけどうして、勉強頑張るからお願い、と両親に必死に頼み込んでようやく了承を得たのだ。
言われた通りの成績を保ち続けること約半年。手のひらサイズのそれへと形を変えた努力の結晶は、今私の手の中で光り輝いていた。
早速連絡先を登録していく。両親の番号とアドレスを打ち込み、次はと考えて思いついたのは、幼馴染のあいつだった。
既に番号は聞いていた。今日両親と一緒に買い物に行くことを伝えた際、すぐに登録できるようメモをもらっていたのだ。
番号を打ち込んでロウの名前を登録する。そういえば、アドレスの方は聞いていなかった。まあいいか、それはまた今度でも。ロウの家は目と鼻の先。アドレスくらい、聞きに行こうと思えばいつでも、すぐにでも会いに行けるのだから。
そこでふとイタズラ心がわいた。今電話を掛けたら、ロウはびっくりするんじゃないか。まさかすぐそばに暮らしている私から突然電話が掛かってくるとは夢にも思うまい。
ついでにこちらの番号も教えられてちょうどいい。私は迷うことなく、電話帳から登録したばかりのロウの名前を引っ張り出してきた。
通話ボタンを押すことにもためらいはなかった。数回の呼び出し音の後で、プツッとそれが途切れる音がした。
〈――もしもし?〉
「……――!」
聞こえてきた声に、私は思わず端末を耳から離してしまっていた。咄嗟に通話終了のボタンを押してしまう。
もう一度メモと履歴の番号を見比べる。間違いはない。でもあの声は――。
そこで画面が切り替わった。表示された『ロウ』の文字に驚きながらも、そっと通話ボタンを押す。
「も、もしもし……?」
〈もしもし?〉
聞こえてきた声は、やっぱり馴染みのないものだった。
〈お前、リンウェルだろ。いきなりかけてきたと思ったらすぐ切りやがって〉
呆れたような声色にいつもの調子。これは、この声は間違いなくロウだ。
〈知らない番号ですぐ切るなんて、イタズラかと思っただろ。端末買うって話聞いてなきゃ迷惑電話に登録するところだったぜ〉
「ご、ごめん。まだ操作に慣れてなくて、間違って切っちゃったの」
私がそう言うと、端末の向こうでロウが笑った。
〈お前意外と機械オンチなのか? 前から俺のいじってたりしてたくせに〉
「うるさいな。ロウのとは違って最新の機種だから、いろいろ慣れてないだけ!」
言いながら、私は緊張と戸惑いを必死に抑えていた。向こうから聞こえてくるのは確かにロウの声だ。でも、なんだかそれはいつもとはまったく違って、まるで別の人のように聞こえるのだった。
そういえば、と思い出す。こういう端末を通して聞こえる声は、本人の声とは違うものじゃなかったっけ。機械の中で限りなく近い音声を合成しているとかなんとか。詳しくはよくわからないが、この世の技術の集合体みたいな端末ならそれも可能だろう。
それにしたって、その声は――。
〈リンウェル?〉
(……――ちょっと、かっこよすぎない?)
いつもより低くて落ち着いた声。それがすぐ耳元で鳴り響くものだから、緊張しないわけがない。
機械越しとはいえ、本人のとはまったくの別物だとはいえ、あのロウにドキドキさせられるなんて。
私はロウの見えないところで密かに口をへの字に曲げたのだった。
「ところで、ロウ」
〈なんだ?〉
「ロウの番号知ってる人って、他に誰がいるの?」
〈なんだよ急に〉
「いいから。どんな人に教えてるんだろうなって」
〈そうだな……まずは親父だろ、あとはその会社の奴らと、お前〉
「うん」
〈あとは、部活の奴と、バイト先の先輩とか。それとクラスの奴らもだな〉
「それって女子も含めて?」
〈? そうだな。たまにクラスで集まる時とか連絡もらうからよ〉
「そっか」
〈それがどうかしたか?〉
「ううん、別に」
〈?〉
「……でも、あんまり電話はしないでね」
〈……え?〉
終わり畳む
#ロウリン #学パロ
初めて手に入れた端末は、最新の機種だった。
努力の末の勝利だった。周りの友人は皆持っているのに自分だけどうして、勉強頑張るからお願い、と両親に必死に頼み込んでようやく了承を得たのだ。
言われた通りの成績を保ち続けること約半年。手のひらサイズのそれへと形を変えた努力の結晶は、今私の手の中で光り輝いていた。
早速連絡先を登録していく。両親の番号とアドレスを打ち込み、次はと考えて思いついたのは、幼馴染のあいつだった。
既に番号は聞いていた。今日両親と一緒に買い物に行くことを伝えた際、すぐに登録できるようメモをもらっていたのだ。
番号を打ち込んでロウの名前を登録する。そういえば、アドレスの方は聞いていなかった。まあいいか、それはまた今度でも。ロウの家は目と鼻の先。アドレスくらい、聞きに行こうと思えばいつでも、すぐにでも会いに行けるのだから。
そこでふとイタズラ心がわいた。今電話を掛けたら、ロウはびっくりするんじゃないか。まさかすぐそばに暮らしている私から突然電話が掛かってくるとは夢にも思うまい。
ついでにこちらの番号も教えられてちょうどいい。私は迷うことなく、電話帳から登録したばかりのロウの名前を引っ張り出してきた。
通話ボタンを押すことにもためらいはなかった。数回の呼び出し音の後で、プツッとそれが途切れる音がした。
〈――もしもし?〉
「……――!」
聞こえてきた声に、私は思わず端末を耳から離してしまっていた。咄嗟に通話終了のボタンを押してしまう。
もう一度メモと履歴の番号を見比べる。間違いはない。でもあの声は――。
そこで画面が切り替わった。表示された『ロウ』の文字に驚きながらも、そっと通話ボタンを押す。
「も、もしもし……?」
〈もしもし?〉
聞こえてきた声は、やっぱり馴染みのないものだった。
〈お前、リンウェルだろ。いきなりかけてきたと思ったらすぐ切りやがって〉
呆れたような声色にいつもの調子。これは、この声は間違いなくロウだ。
〈知らない番号ですぐ切るなんて、イタズラかと思っただろ。端末買うって話聞いてなきゃ迷惑電話に登録するところだったぜ〉
「ご、ごめん。まだ操作に慣れてなくて、間違って切っちゃったの」
私がそう言うと、端末の向こうでロウが笑った。
〈お前意外と機械オンチなのか? 前から俺のいじってたりしてたくせに〉
「うるさいな。ロウのとは違って最新の機種だから、いろいろ慣れてないだけ!」
言いながら、私は緊張と戸惑いを必死に抑えていた。向こうから聞こえてくるのは確かにロウの声だ。でも、なんだかそれはいつもとはまったく違って、まるで別の人のように聞こえるのだった。
そういえば、と思い出す。こういう端末を通して聞こえる声は、本人の声とは違うものじゃなかったっけ。機械の中で限りなく近い音声を合成しているとかなんとか。詳しくはよくわからないが、この世の技術の集合体みたいな端末ならそれも可能だろう。
それにしたって、その声は――。
〈リンウェル?〉
(……――ちょっと、かっこよすぎない?)
いつもより低くて落ち着いた声。それがすぐ耳元で鳴り響くものだから、緊張しないわけがない。
機械越しとはいえ、本人のとはまったくの別物だとはいえ、あのロウにドキドキさせられるなんて。
私はロウの見えないところで密かに口をへの字に曲げたのだった。
「ところで、ロウ」
〈なんだ?〉
「ロウの番号知ってる人って、他に誰がいるの?」
〈なんだよ急に〉
「いいから。どんな人に教えてるんだろうなって」
〈そうだな……まずは親父だろ、あとはその会社の奴らと、お前〉
「うん」
〈あとは、部活の奴と、バイト先の先輩とか。それとクラスの奴らもだな〉
「それって女子も含めて?」
〈? そうだな。たまにクラスで集まる時とか連絡もらうからよ〉
「そっか」
〈それがどうかしたか?〉
「ううん、別に」
〈?〉
「……でも、あんまり電話はしないでね」
〈……え?〉
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#ロウリン #学パロ
習作①
静かな夜だった。
風の音ひとつ聞こえない、穏やかな夜。辺りに人の気配はなくて、向こうの通りの喧騒も今夜はひと際遠いように感じられた。
窓から見上げた空には星たちが瞬いていた。きらきらとした粒は一瞬の瞬きの間にも消えてしまいそうなほど儚い。それなのに、実際は大きな石の塊が煌々と燃え滾っているというのだから驚きだ。おまけに今私たちが見ている光は何百年も前のもので、その強さもまちまちで――。
つまり空には不思議がたくさん溢れているのだ。星だけじゃない。単純に、今こうして見上げている空の色も昼間とはまるで違った。日中はあれほど透き通って見えた空も、今は底なし沼のように深い色をしていた。同じ空なのに、こんなにも違う。あのどこまでも高くて清々しい青空はいったいどこへ。
今日は、ロウと会っていた。一緒に農場に出かけて動物たちの世話をして、街に戻ってきてからは買い出しに付き合ってもらった。少なくなっていたお米や小麦粉を買い足して、野菜も多く買った。ロウがいるといつもよりもたくさん荷物が持てるし、買いまとめるには都合が良い。
一旦部屋に荷物を置いてからは、広場で一緒にアイスクリームを食べた。期間限定のイチゴ味は、味も見た目もとても良かった。適度に甘酸っぱいのがロウも気に入ったらしい。「これはまた食べたくなる味だな」と、甘いものにそれほど興味のないロウにしては珍しい感想を言っていた。
そうして別れたのが夕暮れの頃。私をこの部屋の前まで送って、ロウはいつも使っている宿の方へと去って行った。
私は部屋の中に戻るふりをして、本当は、ロウが通りの角を曲がるまでその背中を見つめていた。姿が完全に見えなくなってしまうまで、こっそり、ロウのことを見送っていた。
その後は、いつも通りの日常を送ろうと努めた。夕飯を作って食べ、その片付けをする。お風呂に入って髪を乾かして、今夜はどんな本を読もうかと考えた。
でも、どこかで何かが欠けていた。遺跡で見つけた古い器のように、まだ完成しないパズルのように、どこかのパーツが足りていない。ヒビのような、穴のような空虚がこの体のどこかにあるのをひしひしと感じていた。
その正体について、上手く説明はできない。でもだからといって、その原因にまったく心当たりがないかといわれたら、それは違うのだった。
私はとっくに気が付いている。気が付いては、いるけれど――。
その時、コンロに掛けていたケトルから真っ白な湯気が上がった。私は火を止め、沸いたばかりの湯をポットに注いだ。
数分も蒸らせばいい香りが部屋中に広がった。カップに注いだ琥珀色の液体が明かりに照らされ、ゆうらり揺れる。
こんな夜、私はハーブティーを淹れる。リラックスできるよう、よく眠れるように茶葉をブレンドした、お気に入りのハーブティーだ。
この香りを嗅いでいると、身も心もふんわりやわらぐ。目を閉じてその香りの中に浸っているだけで、どこか不安定な気持ちが落ち着くのだった。
別に、そこまで悩んでいるわけでもなければ、不安になっているわけでもないけれど。
そう、これはちょっとした息抜き。読書の合間に体を温めつつ、気持ちを休めているだけ。そうすれば、ほら、さわやかで優しい香りが私の記憶を上書きしていってくれる。
どこかの本で読んだことがある。五感のうち、人が最後まで覚えているのは、嗅覚による記憶なんだそうだ。
空の神秘と同じく、それも不思議だなあと思う。たとえ相手の声も手の感触も思い出せなくなったとしても、その人の匂いだけは覚えているかもしれない。目が見えなくなっても、匂いで相手のことを思い出すかもしれないのだ。
それほど匂いによる記憶は強烈に身体に刻み込まれるのだろう。最後まで覚えているというのはすなわち、忘れるのが難しいということでもある。
私は別に、忘れたいわけではない。一緒に嗅いだ牧場の香りも、街道独特の畑の匂いも、街の屋台から流れてくる美味しそうなスパイスの匂いも、口いっぱいに広がるイチゴの香りも、全部全部、ひとつひとつが大切な思い出だと思っている。
できるだけ長く、きちんと覚えておきたいと思っている。一緒に見たもの。歩いた場所。ふと距離が縮まった時に微かに漂ってくる匂いだって、長く記憶に留めておきたい。
それらはいずれ、この先の私を形作るものになるはずだから。人は、出会った人との記憶でできていると言っても過言ではないだろう。
ただ、今だけは、それをほんの少しだけ和らげたかった。
私の脳内にくっきり残った記憶をぼやけさせたい。身体に色濃く刻まれたそれを薄めたい。
じゃないと、私は今夜眠れそうにない。これだけ鋭く募ってしまった思いを放置して眠りにつくことは到底できそうになかった。
情けないな、と思う。別に、今生の別れであるはずもないのに。またあいつはそのうちふらっと現れて、「元気してるか?」なんて呑気に声を掛けてくるに違いないのだ。
そうだとわかっていて、ついため息が出てしまう。フルルが心配そうにこちらを見上げながらその小さな体を摺り寄せてくる。大丈夫だよ、と呟きながらその羽を撫でると、ふわふわであたたかいフルルの体温を感じた。
その時だった。
部屋のドアが叩かれ、向こうから聞き慣れた声が聞こえた。
「リンウェル、いるか?」
思わず心臓が跳ねた。カップをテーブルに置き、一呼吸おいて扉の前に立つ。
ドアを開けると、そこにはぎこちなく頭を掻くロウの姿があった。
「ど、どうしたの?」
私は咄嗟に訊ねた。
「何か忘れ物でもした?」
いいや、とロウは首を振った。「別に、そういうんじゃねえけど」
「じゃあ、どうして?」
するとロウはやや視線を泳がせた後で、
「しいて言うなら、お前が帰り際、寂しそうにしてたから……」
「え……?」
「いや、違うな」
ロウは再び首を振った。
「俺が、お前に会いたかったんだ。お前ともう少し、話がしたかった」
それだけだ、とロウは言った。
「そう、なんだ」
私は呟いた。そうして何度か、瞬きをする。「……うれしい」
たちまちこの胸の内に何かあたたかいものが宿るのがわかった。お風呂で湯に浸かった時より、ハーブティーを飲んだ時よりあたたかいこの気持ち。
「どうぞ、入って」
私はドアを押し広げ、ロウを中へと促した。
気持ちは抑えきれずに溢れ出す。それでも構わないと、私は顔をほころばせながら言った。
「寒かったでしょ。せっかく来てくれたんだから、お茶でも飲んでいって」
いつまでも、いくらでも。口にはしなかったけれど、そう思ったのは本当だった。
終わり畳む
#ロウリン
静かな夜だった。
風の音ひとつ聞こえない、穏やかな夜。辺りに人の気配はなくて、向こうの通りの喧騒も今夜はひと際遠いように感じられた。
窓から見上げた空には星たちが瞬いていた。きらきらとした粒は一瞬の瞬きの間にも消えてしまいそうなほど儚い。それなのに、実際は大きな石の塊が煌々と燃え滾っているというのだから驚きだ。おまけに今私たちが見ている光は何百年も前のもので、その強さもまちまちで――。
つまり空には不思議がたくさん溢れているのだ。星だけじゃない。単純に、今こうして見上げている空の色も昼間とはまるで違った。日中はあれほど透き通って見えた空も、今は底なし沼のように深い色をしていた。同じ空なのに、こんなにも違う。あのどこまでも高くて清々しい青空はいったいどこへ。
今日は、ロウと会っていた。一緒に農場に出かけて動物たちの世話をして、街に戻ってきてからは買い出しに付き合ってもらった。少なくなっていたお米や小麦粉を買い足して、野菜も多く買った。ロウがいるといつもよりもたくさん荷物が持てるし、買いまとめるには都合が良い。
一旦部屋に荷物を置いてからは、広場で一緒にアイスクリームを食べた。期間限定のイチゴ味は、味も見た目もとても良かった。適度に甘酸っぱいのがロウも気に入ったらしい。「これはまた食べたくなる味だな」と、甘いものにそれほど興味のないロウにしては珍しい感想を言っていた。
そうして別れたのが夕暮れの頃。私をこの部屋の前まで送って、ロウはいつも使っている宿の方へと去って行った。
私は部屋の中に戻るふりをして、本当は、ロウが通りの角を曲がるまでその背中を見つめていた。姿が完全に見えなくなってしまうまで、こっそり、ロウのことを見送っていた。
その後は、いつも通りの日常を送ろうと努めた。夕飯を作って食べ、その片付けをする。お風呂に入って髪を乾かして、今夜はどんな本を読もうかと考えた。
でも、どこかで何かが欠けていた。遺跡で見つけた古い器のように、まだ完成しないパズルのように、どこかのパーツが足りていない。ヒビのような、穴のような空虚がこの体のどこかにあるのをひしひしと感じていた。
その正体について、上手く説明はできない。でもだからといって、その原因にまったく心当たりがないかといわれたら、それは違うのだった。
私はとっくに気が付いている。気が付いては、いるけれど――。
その時、コンロに掛けていたケトルから真っ白な湯気が上がった。私は火を止め、沸いたばかりの湯をポットに注いだ。
数分も蒸らせばいい香りが部屋中に広がった。カップに注いだ琥珀色の液体が明かりに照らされ、ゆうらり揺れる。
こんな夜、私はハーブティーを淹れる。リラックスできるよう、よく眠れるように茶葉をブレンドした、お気に入りのハーブティーだ。
この香りを嗅いでいると、身も心もふんわりやわらぐ。目を閉じてその香りの中に浸っているだけで、どこか不安定な気持ちが落ち着くのだった。
別に、そこまで悩んでいるわけでもなければ、不安になっているわけでもないけれど。
そう、これはちょっとした息抜き。読書の合間に体を温めつつ、気持ちを休めているだけ。そうすれば、ほら、さわやかで優しい香りが私の記憶を上書きしていってくれる。
どこかの本で読んだことがある。五感のうち、人が最後まで覚えているのは、嗅覚による記憶なんだそうだ。
空の神秘と同じく、それも不思議だなあと思う。たとえ相手の声も手の感触も思い出せなくなったとしても、その人の匂いだけは覚えているかもしれない。目が見えなくなっても、匂いで相手のことを思い出すかもしれないのだ。
それほど匂いによる記憶は強烈に身体に刻み込まれるのだろう。最後まで覚えているというのはすなわち、忘れるのが難しいということでもある。
私は別に、忘れたいわけではない。一緒に嗅いだ牧場の香りも、街道独特の畑の匂いも、街の屋台から流れてくる美味しそうなスパイスの匂いも、口いっぱいに広がるイチゴの香りも、全部全部、ひとつひとつが大切な思い出だと思っている。
できるだけ長く、きちんと覚えておきたいと思っている。一緒に見たもの。歩いた場所。ふと距離が縮まった時に微かに漂ってくる匂いだって、長く記憶に留めておきたい。
それらはいずれ、この先の私を形作るものになるはずだから。人は、出会った人との記憶でできていると言っても過言ではないだろう。
ただ、今だけは、それをほんの少しだけ和らげたかった。
私の脳内にくっきり残った記憶をぼやけさせたい。身体に色濃く刻まれたそれを薄めたい。
じゃないと、私は今夜眠れそうにない。これだけ鋭く募ってしまった思いを放置して眠りにつくことは到底できそうになかった。
情けないな、と思う。別に、今生の別れであるはずもないのに。またあいつはそのうちふらっと現れて、「元気してるか?」なんて呑気に声を掛けてくるに違いないのだ。
そうだとわかっていて、ついため息が出てしまう。フルルが心配そうにこちらを見上げながらその小さな体を摺り寄せてくる。大丈夫だよ、と呟きながらその羽を撫でると、ふわふわであたたかいフルルの体温を感じた。
その時だった。
部屋のドアが叩かれ、向こうから聞き慣れた声が聞こえた。
「リンウェル、いるか?」
思わず心臓が跳ねた。カップをテーブルに置き、一呼吸おいて扉の前に立つ。
ドアを開けると、そこにはぎこちなく頭を掻くロウの姿があった。
「ど、どうしたの?」
私は咄嗟に訊ねた。
「何か忘れ物でもした?」
いいや、とロウは首を振った。「別に、そういうんじゃねえけど」
「じゃあ、どうして?」
するとロウはやや視線を泳がせた後で、
「しいて言うなら、お前が帰り際、寂しそうにしてたから……」
「え……?」
「いや、違うな」
ロウは再び首を振った。
「俺が、お前に会いたかったんだ。お前ともう少し、話がしたかった」
それだけだ、とロウは言った。
「そう、なんだ」
私は呟いた。そうして何度か、瞬きをする。「……うれしい」
たちまちこの胸の内に何かあたたかいものが宿るのがわかった。お風呂で湯に浸かった時より、ハーブティーを飲んだ時よりあたたかいこの気持ち。
「どうぞ、入って」
私はドアを押し広げ、ロウを中へと促した。
気持ちは抑えきれずに溢れ出す。それでも構わないと、私は顔をほころばせながら言った。
「寒かったでしょ。せっかく来てくれたんだから、お茶でも飲んでいって」
いつまでも、いくらでも。口にはしなかったけれど、そう思ったのは本当だった。
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#ロウリン
2024年10月
双世界狼梟目撃談③
宿屋という客商売をやっている以上、客をもてなし、いかに気持ちよく滞在してもらえるかってのは何よりも重視すべき点だ。
だから客に何か頼み事をするってえのは根本からして間違っちゃいるんだが、あいつ――ロウの場合は少し違うんだ。
ロウとの付き合いはそれなりに長い。あいつが〈紅の鴉〉に入ってからすぐのことだから、もう数年になる。まあ、「金がない」が口癖みたいなあいつがこの安宿を拠点にするのは必然だったかもしれないな。
ヴィスキントの中でも外れた路地にあるこの宿はなかなか人目にはつきにくい。だからといって品質が悪いとは思っちゃいない。金額の割には充分な設備を整えている自負はある。
ロウの奴はどこから聞いてきたのか、大通りにあるような立派な宿でなく、この宿を使うようになった。あの英雄様御一行のお仲間が、だぞ。初めてロウを見た時は(本当にこんなヒョロヒョロのガキが?)とも思ったが、街での仕事ついでにあらゆる依頼をこなして回っていると聞けば嫌でも信じざるを得なくなった。
何よりあいつは人懐っこく、人当たりが良かった。俺がほんの冗談交じりに「こいつを市場の奴に届けてきてくれる奴はいねえかな」などと言ってみたところ、ロウはその場ですぐさま手を挙げ、風を切る矢のごとく依頼を終わらせてしまった。本当にあっという間の出来事だったよ。
恐る恐る報酬について聞けば「そんなのは必要ない」などと言う。
「困ってたんならお互い様だろ。別に市場なんてすぐそこだしよ、ついでに薬の買い出しもできてラッキーだったぜ」
なんと、あの時間で買い出しまでしてきたのか。と、驚くのはそこではない。
なんて人が良い奴なんだ。良すぎて、これからの行く先が恐ろしい。すぐ人に騙されるぞ、こいつ。
気が付けば俺はロウを気にかけ、声まで掛けるようになっていた。常連曰く強面でなかなかとっつきづらいと言われる俺が、自分からロウに気を回すようになっていたのだ。
そうは言うものの、話題がなければ話しかけることもしづらい。思いついた先の苦肉の策がロウに依頼を出すことだった。内容は荷物を市場から運んできてほしいとか、書類を送り届けてほしいとか、そんな類のものばかりだ。普段はズーグルを倒してばかりだという身分にはなんともつまらないものだろうが、それでもロウは文句ひとつ言わずに黙々とこなしてくれた。
「あんたからの依頼は気楽でいいぜ。ケガとかする危険もねえし」
そんなふうに言ってはけらけら笑うロウはやっぱり人が良い。報酬は要らないと言われるがそういうわけにもいかず、ロウには宿賃をまけてやることで納得してもらっている。本当ならば食事を豪華にしてやったり、サービスを良くしてやるべきなんだろうが、ここも零細経営でなかなか心苦しいというのが本音だ。
いつかロウには本気で恩返ししねえとな、と思っていたある日のことだ。ロウがいつにもまして上機嫌で宿を出て行くのが見えた。
心なしか髪型もいつもより気合が入っていた。とはいえそれはほんの些細な違いだから、俺ぐらいロウと顔を合わせていないと気が付かないだろう。
その日は午前はよく晴れていたが、午後から雲行きが怪しくなってきていた。あっという間に空を覆った雲は、まもなくシャワーのような雨を降らせ始めた。
とうとうきたか、と窓からその様子を眺めていると、通りの向こうから見慣れた人影が走ってくるのが見えた。
ロウだった。その後ろにはもう一人、青い服を着た女の子が付き従っていた。
二人はどうやら街を歩いている途中で雨に降られてしまったらしい。急遽雨宿りを、ということでこの宿の軒下を使いに来たらしかった。
雨の勢いはそれほどでもなかったが、まだ雲は消えていなかった。長雨になったら良くないと思い、俺はとりあえず棚から大きめのタオル2枚を用意すると、ガラス窓をコンコンと軽く叩いた。
ロウはすぐに気付いた。ドアを開けて入ってきたロウに、タオルを手渡す。
「濡れただろ、これ使え。風邪でも引いたら大変だ」
「けど……」
どこか遠慮がちなロウに「いいから」と半ば強引にそれを押し付けながら、ふと視界の端に映ったものに気が付いた。
「それと、それも持ってけ」
指さしたのは、一本の傘だった。いつか自分で買ったか、あるいは客の誰かが忘れていったか。それすらも思い出せない傘だ。
それでも使えないということはないだろう。開いてみれば、中身はまだ新品のように新しかった。
「見映えは良くないかもしれないが、雨避けには充分だろう」
俺の言葉にロウは照れくさそうに笑うと、「ありがとな」と言って再び外に出て行った。
しばらくして窓の外に目を向けると、ロウが傘の下に女の子を入れ、いまだ降りしきる雨の中を通りの向こうへと歩いていくのが見えた。あいつのトレードマークの狼は不自然に傘からはみ出し、透明な水滴を被っている。おいおい、そんなんじゃお前が濡れちまうだろうが。もっと身を寄せて歩け。もちろんそんな俺の心の声はロウには届かない。
結局ロウは角を曲がるまで、肩を濡らしたまま歩いていった。そんな小さい傘でもなかったろうに、これであいつが本当に風邪でも引いたら目も当てられない。
思わずこみ上げてきた笑みで一人笑いしてしまう。どうにも、年頃のあいつらしい不器用さだなと思った。
それでも、ひとつ手助けはできただろうか。もちろんすべて返せたとは思っちゃいないので、残りの恩返しはこれからぼちぼちやらせてもらうことにする。
終わり畳む
#モブ視点 #ロウリン
宿屋という客商売をやっている以上、客をもてなし、いかに気持ちよく滞在してもらえるかってのは何よりも重視すべき点だ。
だから客に何か頼み事をするってえのは根本からして間違っちゃいるんだが、あいつ――ロウの場合は少し違うんだ。
ロウとの付き合いはそれなりに長い。あいつが〈紅の鴉〉に入ってからすぐのことだから、もう数年になる。まあ、「金がない」が口癖みたいなあいつがこの安宿を拠点にするのは必然だったかもしれないな。
ヴィスキントの中でも外れた路地にあるこの宿はなかなか人目にはつきにくい。だからといって品質が悪いとは思っちゃいない。金額の割には充分な設備を整えている自負はある。
ロウの奴はどこから聞いてきたのか、大通りにあるような立派な宿でなく、この宿を使うようになった。あの英雄様御一行のお仲間が、だぞ。初めてロウを見た時は(本当にこんなヒョロヒョロのガキが?)とも思ったが、街での仕事ついでにあらゆる依頼をこなして回っていると聞けば嫌でも信じざるを得なくなった。
何よりあいつは人懐っこく、人当たりが良かった。俺がほんの冗談交じりに「こいつを市場の奴に届けてきてくれる奴はいねえかな」などと言ってみたところ、ロウはその場ですぐさま手を挙げ、風を切る矢のごとく依頼を終わらせてしまった。本当にあっという間の出来事だったよ。
恐る恐る報酬について聞けば「そんなのは必要ない」などと言う。
「困ってたんならお互い様だろ。別に市場なんてすぐそこだしよ、ついでに薬の買い出しもできてラッキーだったぜ」
なんと、あの時間で買い出しまでしてきたのか。と、驚くのはそこではない。
なんて人が良い奴なんだ。良すぎて、これからの行く先が恐ろしい。すぐ人に騙されるぞ、こいつ。
気が付けば俺はロウを気にかけ、声まで掛けるようになっていた。常連曰く強面でなかなかとっつきづらいと言われる俺が、自分からロウに気を回すようになっていたのだ。
そうは言うものの、話題がなければ話しかけることもしづらい。思いついた先の苦肉の策がロウに依頼を出すことだった。内容は荷物を市場から運んできてほしいとか、書類を送り届けてほしいとか、そんな類のものばかりだ。普段はズーグルを倒してばかりだという身分にはなんともつまらないものだろうが、それでもロウは文句ひとつ言わずに黙々とこなしてくれた。
「あんたからの依頼は気楽でいいぜ。ケガとかする危険もねえし」
そんなふうに言ってはけらけら笑うロウはやっぱり人が良い。報酬は要らないと言われるがそういうわけにもいかず、ロウには宿賃をまけてやることで納得してもらっている。本当ならば食事を豪華にしてやったり、サービスを良くしてやるべきなんだろうが、ここも零細経営でなかなか心苦しいというのが本音だ。
いつかロウには本気で恩返ししねえとな、と思っていたある日のことだ。ロウがいつにもまして上機嫌で宿を出て行くのが見えた。
心なしか髪型もいつもより気合が入っていた。とはいえそれはほんの些細な違いだから、俺ぐらいロウと顔を合わせていないと気が付かないだろう。
その日は午前はよく晴れていたが、午後から雲行きが怪しくなってきていた。あっという間に空を覆った雲は、まもなくシャワーのような雨を降らせ始めた。
とうとうきたか、と窓からその様子を眺めていると、通りの向こうから見慣れた人影が走ってくるのが見えた。
ロウだった。その後ろにはもう一人、青い服を着た女の子が付き従っていた。
二人はどうやら街を歩いている途中で雨に降られてしまったらしい。急遽雨宿りを、ということでこの宿の軒下を使いに来たらしかった。
雨の勢いはそれほどでもなかったが、まだ雲は消えていなかった。長雨になったら良くないと思い、俺はとりあえず棚から大きめのタオル2枚を用意すると、ガラス窓をコンコンと軽く叩いた。
ロウはすぐに気付いた。ドアを開けて入ってきたロウに、タオルを手渡す。
「濡れただろ、これ使え。風邪でも引いたら大変だ」
「けど……」
どこか遠慮がちなロウに「いいから」と半ば強引にそれを押し付けながら、ふと視界の端に映ったものに気が付いた。
「それと、それも持ってけ」
指さしたのは、一本の傘だった。いつか自分で買ったか、あるいは客の誰かが忘れていったか。それすらも思い出せない傘だ。
それでも使えないということはないだろう。開いてみれば、中身はまだ新品のように新しかった。
「見映えは良くないかもしれないが、雨避けには充分だろう」
俺の言葉にロウは照れくさそうに笑うと、「ありがとな」と言って再び外に出て行った。
しばらくして窓の外に目を向けると、ロウが傘の下に女の子を入れ、いまだ降りしきる雨の中を通りの向こうへと歩いていくのが見えた。あいつのトレードマークの狼は不自然に傘からはみ出し、透明な水滴を被っている。おいおい、そんなんじゃお前が濡れちまうだろうが。もっと身を寄せて歩け。もちろんそんな俺の心の声はロウには届かない。
結局ロウは角を曲がるまで、肩を濡らしたまま歩いていった。そんな小さい傘でもなかったろうに、これであいつが本当に風邪でも引いたら目も当てられない。
思わずこみ上げてきた笑みで一人笑いしてしまう。どうにも、年頃のあいつらしい不器用さだなと思った。
それでも、ひとつ手助けはできただろうか。もちろんすべて返せたとは思っちゃいないので、残りの恩返しはこれからぼちぼちやらせてもらうことにする。
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#モブ視点 #ロウリン
※ちょっと長め&ほぼ会話文
「いいなあ、こういうの」
本の真っ赤な表紙を閉じて、わたしは空を仰いだ。
「こんな絵に描いたようなロマンスはお伽話の中だけっていうのはよくわかってはいるけど、それでもやっぱり憧れちゃうよね」
いいなあ、ともう一度呟いて、ジュースの入ったグラスを手に取る。ストローを咥えるのと同時に、中の氷がカランと音を立てた。
「へえ、そういうふうに思うんだ。私はあんまりピンとこないけどなあ」
そう口にしたリンウェルは、ちょうど運ばれてきたケーキの先端をフォークで掬ったところだ。やわらかなクリームの載ったスポンジをひと息に頬張っては、とろけるような笑顔を見せる。
「とはいえ、なかなか現実には起こり得ないからこそ憧れるのかもね。その辺にごろごろ転がってるようじゃ、羨ましくもなんともないし」
「確かにそれはそうかも。やっぱり運命の出会いは特別ってことかあ」
はあ、と2人でついたため息がヴィスキントの空に消えていく。穏やかな陽気が街中を包み込む、とある午後のことだ。
今日は、リンウェルと街のカフェに来ていた。互いに最近読んだ本を持ち寄って、取り留めもない感想や意見を言い合っていた。
わたしが持ってきたのは、少し前に流行った恋愛小説だった。著作がレナの人で、たった一度きり出会っただけの男女がどうしても惹かれ合ってしまうという内容だ。運命に翻弄されながらも最終的に二人の気持ちは通じ合い、結ばれるという流れだった。
わたしはそれを以前から少しだけ気にはしていたけれど、図書の間で借りるまでには至らなかった。それが今になってこうして読む気になったのは、先に借りたリンウェルがとても不満そうにしていたからだ。「思ったのと違う」というぼやきが今にも聞こえてきそうな表情は、わたしのその本に対する好奇心を再燃させた。
どんな内容かとハラハラしていたけれど、個人の感想で言えばそれほど悪くはなかった。確かに思うところはあったけれど、まあ創作であればこういったストーリーはあるあるの範疇だ。もっとも、普段はダナの歴史書や古文書を中心に読みふけっている現実派のリンウェルからすると、この話の流れはあまりにも突飛で受け入れがたいものだったらしい。
「途中まで紆余曲折あったくせに、終盤はあまりにも上手くいきすぎじゃない? いろいろ事件があったのに、結局は誰からも祝福されるなんて」
口をへの字に曲げて、憤慨したようにリンウェルは言う。
「誰かの不幸によって結ばれる恋人なんて、絶対長続きしないよ」
「まあまあ、あくまで物語だし。そこに書かれていない何かがあったのかもしれないし」
「それはそうだけど、もし私が向こうの元恋人だったら、こんなふうに笑顔で送り出せないと思うな」
確かに、とわたしは心の中で密かに笑った。リンウェルならハンカチを嚙みながら見送った後で、一生分の呪いをかけるに違いない。
「あ、今何か失礼なこと考えたでしょ」
じっとりとした視線をリンウェルが寄越す。
わたしは「ううん。別に?」と素知らぬ顔でジュースを啜った。そうして二人で顔を見合わせた後で、くすくすと笑い合った。
「それでもこういう衝撃的な出会いこそ、リンウェルにとっては割と身近なものなんじゃない?」
訊ねると、リンウェルは少し首を傾げた後で、すぐに思いついたように言った。
「ああ、アルフェンとシオンのこと? うん、まあ確かにあの二人はちょっと特殊だと思うけど……それでも旅の途中からもうすでにいい雰囲気出してたしなあ」
こういうのとはまたちょっと違うかも。リンウェルはそう言って再び皿のケーキをつつき始める。
「違うよ。そうじゃなくて、わたしが言ってるのはリンウェルのこと」
「私?」
「ほら、〈紅の鴉〉の彼。ロウくんだっけ?」
名前を出した途端、リンウェルの顔が一瞬にして引きつった。
「ええっ! なんで!」
「なんでって、よく彼と一緒に居るの見かけるし? 歳も近いっていうし?」
わたしは以前から彼のことをリンウェルから聞いていた。それに、それなりの頻度でカラグリアからはるばるメナンシアを訪れてはリンウェルを探す彼のことは、わたしたち図書の間仲間の中でもちょっとした話題になっていた。時折、リンウェルと彼は恋仲なんじゃないかと勘繰る人が出てくるくらいだ。そんな噂を耳にするたび、リンウェルが困った顔で必死に火消しをする姿をよく見かけていた。
まあ、そう思ってしまう人がいるのもわからなくはない。リンウェルと彼のこれまでのいきさつを聞けばなおさら。
「なかなか運命的だと思うけどなあ。旅の途中で出会って、いきなり魔法で吹き飛ばすなんて」
「衝撃的の意味が違うよ! それに、ロウとはそういうんじゃないから!」
「そう? だって頻繁に家に泊まりに来てるんでしょ?」
「ま、まあ、それはそうだけど……」
わたしの質問に、リンウェルはみるみる声を小さくした。
「でも、それはロウがお金がないって言うから、仕方なく泊めてあげてるだけ!」
こないだだって、あいつってばお給金を全部新しい装備に使っちゃったんだよ? 後先なーんにも考えずに! おかげで宿の安い部屋も取れなくなったって言うから、リビングのソファ貸してあげたの。ほんと、いい迷惑だよね。まあおかげで朝起こしてもらえるから、それはそれで助かってるけど。あ、そうそう、それにその前だって――。
早口でまくし立てるリンウェルの恨み言はまだまだ続きそうだった。わたしは追加で注文したジュースの氷をストローで突きながら、ぼんやりその話を聞いていた。
それからしばらくして、たまたまリンウェルの家に行く機会があった。借りた本を読み終えたので、直接部屋まで行って返すことにしたのだ。
教えてもらった部屋を訪ねてみて驚いた。わたしを出迎えてくれたのはリンウェル、ではなく、例の彼――ロウくんだった。
「あんたがリンウェルの友達だな。話は聞いてるぜ」
にこやかに笑った彼は、わたしを中へ入るよう促した。「あんまし片付いてもねえけど、その辺の椅子にでも座ってくつろいでくれ」
その口ぶりは、まるで自分が所有者であるかのようだった。
リンウェルが留守にしていると聞いて驚いたけれど、どうやら彼女はたった今、お茶菓子を買いに行ったらしい。いつもカフェで行っている感想・意見の交換会を、今日はこの部屋で開きたいようだった。
「急にあいつ『お菓子用意するの忘れた!』とか言い出してよ。慌てて財布持って出て行ったんだ。まあすぐ戻ってくると思うぜ。そう遠くまで行ったわけでもねえだろ」
ロウくんは言葉遣いこそ粗雑なところはあったが、とても親しみやすい人だということがわかった。いまだにこの状況に戸惑い、ぎこちなくなっているわたしにも、気さくに話しかけてくれた。
「そういや、何か飲むか? 今日暑いもんな。こんな路地の奥まで来て、くたびれただろ」
「あ、いえ、お構いなく」
「やっぱお茶か? でも勝手に使うとあいつ怒るんだよな……」
ロウくんはキッチンの戸棚の前で呟きながら、茶葉の袋のようなものを眺めては首を傾げていた。うーんと少し考えを巡らせた挙句、彼がわたしに差し出したのはグラスに入ったお水だった。カラカラと中で揺れる氷が涼しげだ。「ありがとう」とロウくんにお礼を言ってグラスに口を付けていると、やがて部屋の扉が勢いよく開いた。
「――ただいま!」
飛び込んできたのは、紙箱を片手に小さく息を切らしたリンウェルだった。その額にはうっすら汗をかいていて、ここまで相当急いで来たことが見て取れる。
「ごめんね、ケーキ屋さんが少し混みあってて」
肩で息をするリンウェルに向かって、ロウくんは呆れたように言った。
「だから俺が行くって言ったろ。そうすりゃお前は友達と部屋で待ってるだけで良かったってのに」
「だって、ロウに任せたら何買ってくるかわからないじゃない。それに今日私はチョコケーキの気分だったの! これはお店に行かないとわかんないの!」
そうかよ、と言ってロウくんは肩をすくめた。怒るでも不機嫌になるでもなく、ただリンウェルから黙って箱を受け取る様は、こういった受け答えに随分慣れているようにも見えた。
「ほらほら、わかったらお皿出して」
「へいへい」
「いつものじゃなくて、奥のきれいなやつね」
「へーい」
キッチンに立った二人は見事なまでの連係プレーを見せた。リンウェルの指示をロウくんはすぐに理解し、的確にこなしていく。
ふとリンウェルはわたしの手元に視線を向けた後で突然、
「あーっ!」
大きな声を出した。
「ロウってば、お客さんにお水なんか出して! こういう時はちゃんとお茶出してよね!」
「だってお前勝手に開けると文句言うだろ。それに淹れ方もよくわかんねえし」
「私のいっつも見てるじゃん。それと、お客さんが来たら普段使いのグラスじゃなくて、きちんとしたティーカップ使って!」
「へいへい。ったく、いちいち騒がしい奴だな」
「なあに? 何か言った?」
何にも、とそっぽを向くロウくんの脇腹をリンウェルが肘で小突く。ロウくんは「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げながら、なんとかお皿にケーキをのせていた。
そんな目の前で繰り広げられる光景に、わたしはただ呆然としていた。今日初めてまともに会話を交わすロウくんはともかく、こんなふうな調子で誰かと話すリンウェルは見たことがなかった。
リンウェルはどちらかといえば大人しい方で、強く前に出ることは少ない。本や歴史のことになるとまた違うけれど、普段みんなと話している時は聞き手に回ることが多かった。
それがロウくんの前になるとこんなふうになるのだということを、わたしは今日初めて知った。これは驚きでもあり、新たな発見だ。リンウェルという、人より秘密の多い彼女の正体を垣間見る発見。
ドキドキと微笑ましさで胸をいっぱいにしていると、その間キッチンではリンウェルのお茶出し講座が開かれていた。やがてテーブルの上にはお皿にのったケーキと可愛らしいデザインのカップが並ぶ。湯気の立つお茶は部屋中に芳しい香りを漂わせていて、なるほど、これがリンウェルのお気に入りかとまたひとつ新たな発見を見出せたような気がした。
「ごめんね、いろいろ慌ただしくしちゃって。騒がしかったでしょ」
ようやく正面の席に着いて、リンウェルが微笑む。
「でもやっとこれで落ち着いて話ができるね。やっとケーキも食べられる!」
「わざわざありがとうね。通りに出てまで買ってきてくれるなんて」
「私が食べたかったんだからいいの。あ、チーズケーキで良かった?」
うん、とわたしは頷いた。リンウェルのお皿ではもちろん、漆黒に輝くチョコレートケーキがつやつやとした光沢を覗かせていた。
「あ、ロウのケーキは保存庫に入れてあるから。好きに食べていいよ」
「おう、サンキュ」
声を掛けられたロウくんはキッチンにて、マグで残りのお茶を啜っているところだった。
「あーでも、夜にすっかな。これから仕事だし」
「そういえばそうだったっけ。何時から? 間に合う?」
「余裕。夕飯前には戻って来れるだろ」
シャワー借りるぜ、と部屋を出て行くロウくんに、リンウェルは「はーい」と何の気なしに返事をした。
「タオルはいつものところの使ってね」
「へーい」
ロウくんの遠い声と同時に、どこかのドアがバタンと閉じる音がする。
「それじゃ、邪魔者もいなくなったことだし、早速感想聞かせてもらおっかな」
「そ、そう?」
リンウェルが何事もなかったかのように言うので、わたしはややたじろいだ。
いくら仲の良い元仲間で友人とはいえ、年ごろの男の人に自宅のシャワーをそんなに簡単に使わせるものかな……。おまけにタオルの在り処も勝手も知っているようだったし……。内心で傾げた首がさらに傾いていく。
でも、きっと旅の間にいろいろなことがあったに違いない。所持金の関係でみんなで同じ部屋に泊まることも多かったというし、これはその名残なのだろう。
言い聞かせながら、わたしは鞄から本を取り出した。ぱらぱらとページをめくり、感想や考えたことをリンウェルに話して聞かせた。
それからあまり時間の経たないうちだったと思う。
「おーい。俺の下着どこやったー?」
聞こえてきたのは、壁越しの遠い声だった。
「着替えのカゴに入ってねーんだけどー?」
し、下着!?
思わぬ言葉に、わたしは飲んでいたお茶を吹き出しそうになったけれど、リンウェルは少しも驚いた様子も見せず、やや声を張って返した。
「えー? いつものところにあるでしょー? 確か昨日洗って、入れておいたはずだけどー?」
「だからそれがねえんだってー! このままだと俺、ノーパンの変態野郎になっちまう!」
ガサゴソと何かを漁るような音が聞こえる。ひっきりなしに響く物音にイライラしたのか、そこでリンウェルは「もう!」と言って立ち上がった。
「ちょっとごめんね。うるさい奴を黙らせてくるから」
「う、うん……」
口を尖らせたリンウェルは足音を強くしてそのまま部屋を出て行った。と思うと、バン! とどこかの扉が開く音がする。
「うるさいなあ、もう! 下着ならいつものところに――って、わあっ! 服着てよ!」
「だからその服がねえんだろ! 俺にもっかい同じパンツ履けってのかよ!」
「そんなに暴れないで! タオル落ちちゃう!」
それからまたわあわあと騒がしい声が聞こえてきたのは言うまでもない。
わたしは再び呆然としながらそのやり取りを聞いていた。先ほどキッチンでの二人を眺めていた時とは少し違った意味合いで、呆気に取られていたのだった。
数日後、宮殿の中庭のところでリンウェルを見かけた。彼女を取り囲んでいるのは図書の間でよく顔を合わせる友人たちで、なんだ、いつものようにおしゃべりでもしているのかと思ったら、
「ねえ、助けて!」
リンウェルがこちらに駆けてきて、わたしの腕を取った。
「ど、どうしたの?」
「あらぬ疑いを掛けられてるの!」
その視線の先では見知った友人たちがにやにやとこちら、いやリンウェルを見ている。それだけでわたしはなんとなく、事情を察した。
その推察はおおよそ的中していたらしい。
「そろそろ白状したら? 本当は付き合ってるんでしょ? 知り合いが言ってたよ。街道で2人仲良く歩いてるのを見かけたって」
「昨日もだよ。揃って買い出しなんかしちゃって。ただの友達にしては距離が近すぎるよね」
リンウェルは「それは遺跡調査に行ってただけ!」とか「昨日はたまたま会ったから、手伝ってもらっただけ!」などと必死で言い訳をしていた。
「えーでも、前もレストランから揃って出てくるの見たよ?」
「屋台でアイスも食べてたよね。半分こしてたって本当?」
「ぜ、全部本当だけど……」
似たような押し問答を長いこと続けてきたのだろう。縋るような目をして、リンウェルはわたしを見上げた。
「ねえ、私の代わりに何とか言ってあげてよ。私とロウはそんなんじゃないよね?」
ハの字になった眉がなんともいじらしい。これまでのわたしなら、きっとこの場面で何かリンウェルを庇う言葉を口にしていたはずだ。
それでも――。
「ごめん、リンウェル」
「……え?」
「誤解されるのも、仕方ないんじゃないかな……」
みるみる顔を青ざめさせていくリンウェルに、わたしは言った。
だって、あんな仲睦まじいやり取りを見せつけられてしまっては。あんな、ほとんど半同棲のような生活を実際に目の当たりにしてしまった今では。
「2人はまったくそういう関係じゃないんだよ」だなんて、口が裂けても言えそうにはなかった。
終わり畳む
#ロウリン #モブ視点